文字禍/まごころを、君に【『みにくいモジカの子』プレイ感想<ネタバレ有り>】
※8月19日追記:一番下に参考で示した記事を閲覧した上で、本論最後のチャプターを若干修正。記事の要旨に変わりはない。
※8月7日追記:本論の終わりに補遺として「シナリオの一貫性とトゥルー以外のヒロインのルートについて」を追加。ただし、「作品の感想」から逸脱し「批評の批評」に成り下がってしまっているきらいがあり、自分でもよくないと感じている。補遺抜きでも記事としては完結しているので、関心のある人のみ目を通して欲しい。
この記事はニトロプラスの最新作『みにくいモジカの子』のプレイ感想だ。ネタバレを多分に含むので、プレイ予定のある人は注意してほしい。
彼が一軒の家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰との意味もない集合に化けてしまう。(中略)人間の身体を見ても、その通り。みんな意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしまう。どうして、こんな恰好をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。眼に見えるものばかりではない。人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。中島敦『文字禍』 原文は「じっと」の「じっ」に傍点
埃及人は、ある物の影を、その物の魂の一部と見做しているようだが、文字は、その影のようなものではないのか。獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。中島敦『文字禍』
美少女ノベルゲームプレイヤーが読むと卒倒しそうになる文章が戦前に執筆されていたというのだから驚くよりない。この部分だけを読むと、現実の女性の代わりにキャラクターを愛する私たちは文字の精霊の虜になっているだけの愚か者のように思われる。
だが、実際には、この事実を知ってしまった博士は最終的に解析のし過ぎで「気が違いそうになっ」た(中島敦『文字禍』)。それを文字の精霊からのしっぺ返しと捉えると、記号とはいかに扱い難いものなのか、というところまで思考が回って、別の意味で頭が痛くなってくる。
ここまで掘り返してみると、いよいよ『文字禍』いや『モジカ』という作品そのものも恐ろしくなってくる。キャラクターに魅了の術を掛けられた私たちプレイヤーは、そして、記号の海文字の渦の中を生きる現代の私たちは、どうすれば総体を回復できるのか。
『モジカ』は、私たちに一つの救いを提示している。コンセイサマに取り込まれた主人公が助かる道は、ただ一つしかなかった。逆に言えば、それこそが私たちを救済する可能性のあるたった一つの手段なのだ。
鳥籠、少女、青い鳥: 『リズと青い鳥』感想
山田尚子監督の長編アニメを鑑賞しに行く時には、必ず多少の覚悟を決めることにしている。私にとって山田尚子の作品を観るとは生易しいことではない。秋葉原UDXで初めて『たまこラブストーリー』に触れた時の衝撃といえば、まだ瞼の裏にこびりついている。ラストシーンの暗転は光よりも眩しいものとして私の中に刻まれたのだ。もちろん、『映画 けいおん!』にしても、『聲の形』にしても、印象的なシーンはいくつもあった。要するに、どの作品をとってみても、私の心に傷痕を残していくのだ。
そういうわけで、『リズと青い鳥』を観る前にも、頭の中でいろいろと念じる必要があったのである。
そして、私のその苦労を裏切ることなく、『リズと青い鳥』もまた、私の下へ何かを届けてくれた。
『聲の形』でもそうだったが、今作『リズと青い鳥』でも、山田尚子は撮るものを絞り込んでいるのではないかという印象を受ける。掘り下げようと思えば掘り下げることのできたエピソードはいくつでもあったはずだ。逆に言えば、山田尚子は明確に撮るべきものを掴んでいる。だからこそ、山田尚子の長編では主題が重要なのだ。彼女の作品はしばしば「映画」と評されるが、その理由の一つがここにあるだろう――もちろん、映像論法や撮影、明確なカメラへの意識、なども絡み合っているのだが。
『リズと青い鳥』で山田が描きたかったものは、おそらく「少女」だろう。鑑賞した人であれば、「そんな当たり前のことを」と言うかもしれない。まさにそのとおりで、あの作品は愚直なまでに少女のことだけを映している。誰でも気が付いてしまうほどに、山田の姿勢は一貫していた。
その中でも、山田は特に主役格の二人――みぞれとのぞみ――にだけ徹底してフォーカスを合わせ続けた。もちろん、当初この企画が発表された時から「みぞれと希美の物語」と銘打っていたのだから、これも既知といえば既知である。ここで言いたいのは、みぞれと希美にかかわらないことは徹底して排斥したその「物語」への姿勢の方である。
原作の重要なエピソードやサブキャラクターの掘り下げにかかわる逸話をバッサリと切り捨てた『聲の形』には賛否両論あった。それでも、山田は今回も、――わずかな時間で登場人物の人となりを見せる技術は格段に向上したとはいえ――ひたすらにみぞれと希美のためだけにカメラを回した。
そこまで徹底してみぞれと希美の物語に注力することで、山田は何を伝えたかったのだろうか。描かれたもの、描かれなかったものをいくばくか詳しくみることで、この「映画」の主題にもう少し探りを入れてみたい。
およそ、少女を題材に取ったアニメはこの世に数多存在する。その意味でいえば、『リズと青い鳥』は決して奇異な作品ではない。
だが、鑑賞した人の大半は、この作品がその他の「少女」を描いているはずのアニメからいかにかけ離れた場所にいるか、気が付くことができるだろう。この差異は、いったいどこから来るのだろうか。
多くの鑑賞者が違和感を覚えるのは、おそらくプールに関する一場面だろう。みぞれを慕う後輩である梨々花を誘ってプールへ行こう、という話が展開される。が、ここで我々は拍子抜けするのだ。みぞれと希美、そして多くの吹奏楽部員を引き連れて盛大に催されたはずのプール遠征は、なんとその活況ぶりを伝える写真一枚だけを残して過ぎ去ってしまう。
これはなかなかに大胆な試みだった。普通、プールにまつわる場面といえば、少女の水着姿を最も自然な流れで見せることのできる瞬間である。山田は、そのいわゆる「美少女アニメ」にとって最も重要なシーンをバッサリと切り捨ててしまったのだ。
あるいは、こう主張する人がいるかもしれない。『リズと青い鳥』というみぞれと希美の物語にとって、そんな邪な描写は不要だ、作品の品位を損なわせてしまうではないか、と。一見こだわりすぎなオタクの騒ぎ声のように思えるこの意見は、実は事の本質に迫っている。つまり、『リズと青い鳥』という作品にとって、水着ではしゃぎ回る女の子たちを映す必要性は何ひとつなかった、ということなのだ。
言い換えれば、『リズと青い鳥』は、いわゆる「美少女アニメ」ではない。「美少女アニメ」とは、単に美少女が主人公を務める、あるいは美少女がたくさん登場するアニメのことではない、という事実を照射しながら、『リズと青い鳥』は遥か遠くへと飛び立ったのである。
このように、『リズと青い鳥』は、何かを映すのではなく、何かを映さないことによって、他の作品から区別されることに成功した。そして、この映す―映さないの綱引きは、単に他のアニメからの差別化を図るために投入されたギミックではなく、山田が伝えたいことを表現するための手段としてこの映画の中に盛り込まれたのである。むしろ、やや複雑になるが、そもそも山田がいわゆる「美少女アニメ」を作ろうとはしていなかったがために、そのような差別化が可能になった、と表現すべきであろう。
映さないことが私たちに与えてくれる示唆はもう少し深い。結局、山田は「美少女アニメ」の皮を捨ててまでして、何を表現したかったのか。
山田尚子、ひいては京都アニメーションの作品における映す―映さない、ひいては描く―描かないの議論といえば、窓の外の風景に関するものが思い浮かぶ。京都アニメーションの作品について語る時には(TVシリーズ・劇場版問わず)必ず話題になる事柄である。ここではその議論に深入りしないし、無作法ながら出典も列挙しないが、だいたいの意見を集約すれば、窓の外の風景が描かれていないシーン――たとえば光で誤魔化されている時――は、少女たちが、あるいは思春期の子供たちが、外の世界から切り離された場所で生活していることを表している、くらいのものである。
『リズと青い鳥』ではどうだっただろう。この作品においても、光で演出を強化するために窓の外の風景が描かれないことはあった。が、実際には、窓はそれ以上の役割を担わされたために、風景を描かざるを得なかった、と言えるだろう。というのも、みぞれの棲まう生物室と希美らがいる空間の断絶を意識させる瞬間が多かったからである。フルートによってできた光の反射を追う印象的なシーンを例に挙げれば十分だろう。あるいは、ややアナクロニズム的な指摘になるが、希美が生物室を訪れる前、青い鳥に言及する場面で、窓に対し背を向けていたのも示唆的だ。
では、これまで長い間議論されてきた、アニメの中における少年少女と社会との繋がり、という側面は、窓から切り離されてしまったのだろうか。
そうではない――否、山田は窓だけに頼らなかった結果、窓の役割が相対的に低下した、と表現する方が正しいだろう。
山田にとって、少年少女がどう世界に向き合うか、もっと平たく言えば、少年少女がどう成長するか、は、我々が思っている以上に大きな問題なのかもしれない。であるが故に、山田はもう少し丁寧に、外の世界という概念を扱っている。
もう一度プールの議論を思い出してもらいたい。山田は、頑なにプールのシーンを描かなかった。それこそ、時間の推移を示す、という点において、映像論法の基本を破るようなコンテを作ってまでして(プールに関するシーンの前後は、時間がどう流れたのか極端に読み取りにくくなっている)。
山田はそこまでして、みぞれと希美を学校の中に閉じ込めたかったのである。冒頭、希美が校門をくぐってから、学校の外の風景は滅多に描かれなくなる。それも、シナリオ的必然によってではない(上のプールの議論を想起せよ)。スピンオフ元の『響け! ユーフォニアム』シリーズでは重要な役割を担った山の上の展望台ですら、『リズと青い鳥』においては決定的に重要なトポスではない。山田は、意図的にみぞれと希美を閉じ込めている。あたかも、青い鳥を鳥籠の中へと閉じ込めるように。
学校そのものだけではない。学校の内部においても、鳥籠はいたるところに散りばめられていた。その典型が音楽室と生物室である。そして、自明のように、お互いにとってリズであり青い鳥であった希美とみぞれの間には、大きな断絶があったのである。二人の悲しきすれ違い、その断絶の隙間を青い鳥の影は飛んでいき、対してフルートが生んだ鳥の幻影はその距離を縫うことで狭間を一層際立たせるのだ。
あるいは、フグを囲う水槽ですら、鳥籠の隠喩なのかもしれない。フグは、リズが餌付けしていた動物たちとも、鳥籠に囲われた鳥とも、はたまた外へ決して出ることのない少女とも読み取れる、なんとも贅沢な存在だ。そして、そのいずれであっても、閉塞感を感じさせるものであることに注意したい。
何重にも仕掛けられた鳥籠の隠喩は、そのまま少女たちの悩みの分厚さを物語っている。肝心なことは、みぞれも希美も、その根の深い葛藤を乗り越えて、一番外側の囲いすらも捨て去っていく、という事実である。山田は、冒頭と対比させるようにラストシーンを作った。コントラストさせることによって浮き彫りになった二つのシークエンスの決定的な違いは、二人のいる場所である。山田は、敢えて学校から出たという事実を殊更に強調することで、私たちに彼女たちの「成長」を伝えようとしている。たとえ二人が結局元の鞘に収まったとしても――先を行く希美が揺らすポニーテールをみぞれが追いかけるような関係だが――、そこには明確な違いが存在する。ずっと側にいたにもかかわらずすれ違っていた二人は、「joint」と「disjoint」を同時に行うことで、共に鳥籠から抜け出したのである。すなわち、二人は共に支え合いながら別々になる未来を選んだのだ。山田は、「映さない」ことで鳥籠の隠喩をより巧みに運用し、少女が巣を飛び立つ=「成長」する過程を克明に記録したのである。
最後に、山田が「敢えて映さなかったもの」ではなく、逆に「敢えて映したもの」について、簡単に触れておこうと思う。山田が何かを映さなかったことで生まれた隙間を埋めたのは、フラスコであってシャーレだった。もう少し詳しく言えば、生物室での重要なシークエンスにおいて過剰なまでに映された「余分なもの」である。
このことについて、ある人はこう言うだろう。山田はかつて、「校内にある椅子や机の視点で、彼女たちを見つめているような映画です」と語ったのだから、そうした無機物の存在を鑑賞者に知らせてもなんの不思議もない、フラスコやシャーレは彼女たちを取り囲む私たちそのものなのだ、と。これも、まさしくそのとおりだとしか言えないのだが、その実この回答は不十分である。なぜフラスコではなく机や椅子ではダメだったのか、という疑問に答えられていない。付随して、なぜフラスコやシャーレを単体で映し、映り込みという手段を取らなかったのか、という問いにも、この回答は沈黙を貫いている。さらに言えば、この回答は、カメラ=第三者の存在が前提である映像芸術において、なぜ傍観者の立ち位置を強調するような発言を山田は残したのか、という新たな疑問を呼んでしまう。
この三点に関しては、私も未だに定まった答えを見つけられていない。強いて言うのであれば、山田は少年少女というものを描く時に、光を好んで素材に使うきらいがある、ということを指摘しておきたい。分かりやすい例を挙げれば、『聲の形』の中の、小学生だった頃の将也と硝子の取っ組み合いを考えて欲しい。外から差し込む暖色の光に照らされながら、二人は喧嘩するのである。
フラスコもシャーレも、そのガラスという素材のおかげで、光の存在を強調する。一方で、真に重要なのは、フラスコもシャーレも、決して光源になることはできない、という事実の方だ。少年少女を取り囲む無機物は、それ自体が光を放つことができない。ただ、近くにある眩しいものを拡散させるのみである。仮に、フラスコやシャーレが我々だと言うのであれば、私たちは一体なんの光を跳ね返しているのだろうか。
言うまでもなく、少年少女の放つ「光」である。私たちは、眩い光を放ちながら育っていく子どもたちの姿をただ反射するのだ。直接的には窓の外からの光である何かは、比喩的には子どもの放つ何かである。フラスコやシャーレは、私たちの代弁者としてその光を反射するのだ――『聲の形』にせよ、『リズと青い鳥』にせよ。
思えば、傍観者という立ち位置は、別に『リズと青い鳥』から意識されたものではあるまい。前述の『聲の形』のワンシーンにしても、主役たる二人に近づく前に、一旦カメラは遠くから取っ組み合いを捉える。カメラの高度をギリギリまで下げ、ただ光に彩られた二人の「成長」の瞬間を記録し続けるその役割は、傍観者でなければなんなのだろう。
こうした視点は、山田がずっと「映画」というものを意識してきた結果として育まれたものなのかもしれない。あるいは、京都アニメーションが近年カメラの存在に自覚的であることも影響しているだろうか。どちらにせよ、確かにフラスコもシャーレも傍観者なのだろうが、そしてその事実を同じく無機物として映された鳥の剥製が分かりやすく示してくれていたとしても、私たちは未だ答えには辿り着いていない。
思春期の少女が、あるいは少年が、どんな生活を送っていると感じているか、はなかなか想像がつかない。私たちは、確かに一度、同じように思春期を過ごしたはずだ。しかし、それを上手に思い出すことができない。
それくらい、思春期というものは、あるいは青春というものは、終わってみればあっという間に過ぎ去っていったという感慨を残しがちだ。他方、当の思春期の少年少女は、矢の如く流れ去っていく時間に対し無自覚だ――ちょうど、傍観者である私たちが、みぞれはプールに行ったのか行っていないのか一瞬混乱してしまうあのシーンと同じくらいには、明示的な時間の流れに頓着しない。
「成長」してしまった我々は、いかに思春期の一瞬一瞬が貴重であるかを、当の本人たちに伝える術を持たない。いかにその事実を強調しても、思春期真っただ中にいる男女には分からないのだ。伝わらないのであれば、言っていないのと大差ない。その意味で、大人は口を出す権利云々の前に、口を持っていないのである。
もの言わぬ傍観者としての無機物、あるいは「成長」を終えた「死者」としての剥製に私たちが重ねられているというのは、なんとも意味有りげだ。私たちは、子どもたちを護り囲うための籠として作った学校の一角で、子どもたちを育てるために自ら用意したものどもに自分たちを重ねながら、まさに巣立たんとする二羽の青い鳥をただ見守るのだ。口を閉ざす大人に見送られながら、みぞれと希美は訣別し、同時に互いを受け入れ合っていく。そうこの映画を捉えると、また違った切なさがこみ上げてきて、私はもう一度胸に傷を負うのである。
引用:
共同通信(2018)「机や椅子の視点で」『リズと―』の山田監督. 共同通信社,2018年4月17日付. URLは上記リンク参照のこと. 最終閲覧2018年4月25日.
丸本大輔(2018)「リズと青い鳥」山田尚子監督「少女たちが踊っているような印象の作品に」. エキサイトレビュー,2018年4月25日付. URLは上記リンク参照のこと. 最終閲覧2018年4月26日.