Mashiro Chronicle

長文をまとめる練習中 割となんでも書く雑食派

ナナシスでライブ素人童貞から脱却した話 【ナナシス5thアニバーサリーライブ感想】

去る2019年7月13日、「Tokyo 7th シスターズ」の「4th Anniversary Live -SEASON OF LOVE-」に一般参加してきた。

 

一般参加――ライブ界隈では聞きなれない表現だろう。まさか私も、この言葉をライブカルチャーで使うハメになるとは思っていなかった。要するに、ライブに客としてお邪魔した、という意味である。

 

こう書けば、タイトルの「素人童貞」の意味も、自ずと分かっていただけると思う。今まで私は、ライブなんて運営側でしか関わったことがなく、客としてライブに行ったことが無かったのだ。なるほど確かに、ライブに行ったことがあるかと聞かれれば、答えは「YES」である。しかし、如何せん立場が特殊過ぎる。まさしくナナシスのライブは、真の意味で私の「初めての相手」だったと言えるだろう。

 


 

今回ナナシスのライブに参加することになったのは、知人が連番のチケットを余らせていたからだった。その知人といえば、ナナシスこそ私が紹介したが、アニソン系のライブカルチャーに関しては基本的に滅法強く、色んな意味で初参戦になる私にとって、相方として申し分なかった。

 

しかし、ライブというものは、どういう風に参加すべきものなのだろう。私にとっては、まずそこから疑問だった。そりゃそうだろう。今までライブやイベントに参加する時には、「忘れちゃいけないのは1にスタッフ通行証。2はスタッフ通行証で、3はスタッフ資料」なんて言っていた人間である。このまま一般参加しては、一般客の入り口がどっちか、文字どおり右も左も分からない事態に陥りかねない。

 

とりあえず、ナナシスが最近リリースした曲を中心に、ライブでかかりそうな曲を「予習」してみる。しかし、この「予習」という概念もいまいちよく掴めない。普通の人は、どこまでパーカッションやベースの音を聴き込んでいるのか? それをどれくらい、あのペンライトの振りに取り入れているのか? 分からないなりに、ひたすらヘビロテする毎日だった。

 

相方たる知人に相談すると、彼は一笑した。

 

「ライブなんて、最悪チケットと体調整えるための何かがあれば大丈夫ですよ」

 

彼のこの言葉だけは信用ならなかった。こちらはライブ初参加、あちらは2週に1回はライブやLVに参加する剛の者。差は歴然としている。しかし、相方と行動予定は合わせなければならない。不安に駆られながら、当日までほとんど用意らしい用意をしなかった。

 

当日、結局ペンライトすらろくに用意していなかった私は、相方に断りを入れ、合流する前に物販へ向かった。最初はペンライトだけを買うつもりだったが、手元を確認すると、現金は諭吉しか持ち合わせていない。これは面倒だろうなあ、と直感した。面倒というのは、物販のレジ係が、お釣りを用意するのが大変、という意味だ。ペンライトの値段は3,500円。一万円札を出せば、お釣りは6,500円だ。紙幣が2枚に、硬貨が1枚。ライブ運営の経験から言って、これはレジに優しくない買い物である。

 

こんなところで無駄に「ライブ慣れ」を見せつけてもなあ、などと自嘲しながら、結局、ペンライトにパンフレットとタオルを併せて購入した。合計金額は9,000円。これならお釣りは紙幣1枚で済む。

 

……と、いいことをした、なんて気分でレジへ向かうまではよかった。いざ会計に至ると、そこにはクレカ決済用の端末が設置されているではないか。そもそも現金で支払うこと自体「イケてない」という現実を見せつけられたのだった。挙句、注文票の記入箇所を間違えており、レジ係を無駄に混乱させる始末。なんともしまらない出だしになってしまった。やっぱり自分からリードしたことのない素人童貞はダメ、という話である。

 

しまらない、といえば、何もかもしまらない感じだった。海浜幕張駅で相方と合流するタイミングで、数滴の水が天から降ってきた。とはいえ、気持ちいいくらいに雨がザーザー降ってくるわけでもない。梅雨の終わりの、あの「落ちてきそう」な空模様だ。「落ちてきそう」という表現には、実際には落ちてきてくれない恨めしさが入っているのではないか。いつだったか、私はそう考えたことがあった。

 

天気は曇り、季節は夏の一歩手前で足踏みしている。加えて、私の体調も優れていなかった。数週間前に引いた風邪は完治していたが、数日前、ひょんな怪我から化膿した右手の親指は、まさに痛みのピークを迎えていた。梅雨どきは、菌が繁殖しやすい。そういう恨みつらみも含めて、なかなかすっきりしない空を見上げながら、私は相方と共に、幕張メッセの人混みへと吸い込まれていった。

 


 

会場に入って、まず声を上げたのは相方の方だった。

 

「むっちゃいい席ですよ。ステージも画面も全部見渡せますね」

 

当選していた席は、比較的前めで、ブロックの隅っこに当たる場所にあった。確かに、メインステージも、中央の舞台も、スクリーンも、全て視野に収まる。初めてにしてはよい席に恵まれたなあ、などと思っていると、隣の相方がもう一度口を開いた。

 

「列と列の間隔が広いですね。珍しいです」

 

彼が言うには、座席の列と列の間が広く、足元にゆとりがあるという。私は、関わったライブがオルスタだったので、席のことはよく知らなかった。席にゆとりがある、ということは、人数を詰めていない、ということだ。主催側の懐事情を考えれば、ライブに来てくれる客は多ければ多いほどいいので、これは確かに珍しい。しばらく相方と議論したが、なかなか結論は出なかった。言えるのは、少なくともこれは、チケットが売れなかったから慌てて座席の数を減らしたような列の組み方ではないこと、それから、ライブカルチャーが所謂サブカルに根付いて結構な時間が経ち、ユーザーエクスペリエンスの向上や、新しい形のライブを模索する時期に入ったのではないか、ということ、その2点だ。

 

新しい形のライブ、という話題になったところで、噂のランティス祭についても多少話し合った。色々言われた企画だが、個人的には、成功失敗は抜きにして、チャレンジとしては面白かったのでは、と思っていた。相方は笑って、

 

「僕、あれは実質最前だったので、いい思い出しかないんですよね」

 

ライブの体験には、時の運が絡む。そのことを頭で理解したのだった。

 

そうこうしているうちに、ナナシスライブ御馴染みの総支配人による謎セトリBGMも静まり、いよいよ開演の時が近づいた(余談だが、なぜかマイケル・ジャクソンの「Black or White」が流れていたことだけ、やたら頭に残っている)。照明が落ち、まず聞こえてきたのは、メモルによるライブ中の注意だった。私としては、この段階からまず面食らった。ライブの始まりをどうするかはいつだって悩みのタネなので、とりあえず何も想定しないで入場したところ、想像以上に思ってもない人の声が聞こえてきた、という次第である。

 

その後、777☆SISTERSの紹介ムービーが流れる。相方が隣で、「これはいいですね」と呟いた。お生憎様、私はその時、どういう態度でいればいいのか分からず、半分呆然としていた。ペンライトは箱から出してあったが、さりとて何色でどういう風に振ればいいのかさっぱり把握できず、完全に置物状態。隣を見れば、相方はちゃっかり、用意してきていた汎用ペンライトを掲げていた。言わんこっちゃない、何が「ライブはチケットとプラスアルファだけでいい」だ。改めて自分の手元を見る。ハートをあしらったライブ専売のペンライトが、周りの光だけを反射して、僅かに明るくなっていた。

 

そういうわけだったので、1曲目の「FUNBARE☆RUNNER」が始まった頃は完全に棒立ちだった。かろうじて、地蔵を取り繕うことには成功していたかもしれない。幸運だったのは、この辺りで銀テープ発射の爆音が入り、浮遊していた意識が現実へと引き戻されたことだった。ふと周りを見渡せば、皆想像していたより思い思いにペンライトを振っている。身体の動かし方も人それぞれで、これならなんとかやっていけそうかな、という気にはなった。しかし、あと一押し決め手が足りなかったのも事実で、私は、今度こそちゃんとした地蔵として、今しばらく周りの雑音に呑まれる身であることを選んだ。

 

そんな私の後押しをしてくれたのは、やはりと言うべきか、ステージの上でスポットライトを浴びる演者たちだった。いや、正確に言うと、ステージの上にはいなかったのだが。地蔵を決め込んでいた私は、トロッコに乗り移る彼女たちを見上げながら、トロッコは人力なんだ……などと意味の分からないことに気を取られていた。そのままぼーっと上を向いていたところ、その一瞬は唐突に訪れたのだった。

 

だ - み な と 視 線 が あ っ た ! ?

 

え? と思ったのは一瞬だった。そう、ぼーっとしていたため気が付かなかったが、私がいた席は、ちょうどトロッコ動線に対して最前列で、演者から相当近い場所だったのだ。なんという神席であろうか。件の「時の運」というのはこんなところで表に出てくるのか。身体が打ち震えるほどの衝撃だった。

 

混乱しきった私の頭は、ついに思考をやめ、身体は衝動のままペンライトを掴み取った。膿んだ右手の親指に鋭い痛みが1回走り、すぐに静まる。代わりに、ふっとハートの輪郭が露わになって、その内側からピンクの光を漏らしだした。おもちゃでよくある、魔法少女のステッキのようにも見えた。それでもいいと思った。私は光るペンライトを宙にかざして、ようやく、だーみなと視線が交差したという事実を呑み込んだ。ペンライトに灯ったちゃちでちっぽけな光でも、それこそが、だーみなが振り撒き、私が呼応した愛の形のようにも思えて、私はひと時ばかり、無邪気な愛の天使、幼き魔法少女であることを選んだのだった。

 

そこから先はフルスロットルだったと思う。だーみながカジカの自己紹介の時に手でハートを作っていたのは印象的だったが、逆に言うとまともに覚えているのはそこくらいで、とにかく興奮していた。777☆SISTERSがI'll be backなんて言いながら(言ってない)退場し、代わってCi+LUSが登場すると、私のテンションは一段と高まった。この辺りから、ああ、ライブとは言うけれど、普段音楽を聴いている時のように身体を動かしていればいいんだな、と、ようやく頭も理解し始めた。語弊のないように付け加えておくと、私は普段からライブの時並みに身体を動かしながら音楽を堪能しているわけではない。多分そうじゃないと思う。どうだろう……ひょっとしたら動かしてるかもしれないが、要は、いつもどおりでいいんだ、と理解したというのが大切だった。そういうことだ。

 

因みに神席だったので山崎エリイさんからも視線をもらった。それだけでチケ代物販費込み20,000円の価値はあったかと。ライブ初心者なので、許してね?

 


 

Ci+LUSの2人による次の演者の呼び込みは、一瞬どのグループのことを指しているのか分からなかった。Ci+LUSは、「今日新しいスタートを切る先輩ユニット」と表現していた。周りは皆分かっていたようで、声を揃えてLe☆S☆Caと叫んでいた。なるほどLe☆S☆Caか。私は納得しながら、少しばかり不安な気持ちを抱え込んだ。

 

新しいスタート云々というのは、Le☆S☆Caの3人のうち、2人の声優が交代になったことを指す。折しも、某バーチャルYouTuberの中の人交代劇がよくも悪くも話題を集めており、キャラと声優の関係について考えこんでいたので、私の脳裏に不安がよぎったのだった。Le☆S☆Caは、私がナナシスのゲームを始めた頃にデビューした思い入れあるユニットで、私の単推しもLe☆S☆Caだった。幸か不幸か、私が一番応援していたキャラは1/3の確率を引いて(?)声優の交代を免れていたが、それだけに余計、私自身がLe☆S☆Caとどう向き合えばいいのか分からなかった。

 

私は呼び込みの残響が残るうちにペンライトを黄色に変えると、その時の到来に対して身構えた。流れてきたのは「YELLOW」の特徴的なイントロだった。隣の相方が、「衣装にひまわりついてますよ!」と興奮しながら話しかけてきた。私は、「『ひまわりのストーリー』はやるんだろうなあ」くらいに思いながら、ステージ上の3人を眺めていた。

 

3人が緊張しているのは明らかだった。明らかに声のピッチが上ずっている。しかも3人とも。誰かが上ずっているのを他の人がフォローしにいったのだろうか、と感じられるほどだった。ピッチ自体は次の曲には正常に戻っていたが、それにしてもバランスが悪い。そもそもホノカ役の植田ひかるは女声の低音域で特に声量が小さいので、新たにレナ役になった飯塚麻結の大きな声がやたら響く。

 

それでも、私はいつの間にか泣いていた。

 

MCに入り、自己紹介が始まる。Le☆S☆Caのセオリーどおり、キョーコとレナが先に紹介を済ませる。トリはホノカだ。私は振り続けていたペンライトを下げて、胸の前で抱え込んだ。ホノカにカメラが向く。彼女は僅かに涙を滲ませながら、ホノカとして自己紹介をこなした。私はまた泣いた。

 

終演後のことだが、海浜幕張駅へ向かう大行列の途中で、見知らぬ女性2人組の、「あそこでホノカ役の人が泣いちゃうのはね」という評を耳にした。同性の意見は手厳しいな――私は、苦笑せざるを得なかった。実のところ、多分、その2人組の意見は間違っていない。というより、正しい。あの場でホノカとして、Le☆S☆Caの全てを知るただ1人の存在としての「正解」は、泣かないことだっただろう。

 

それでも、私はホノカを、植田ひかるを責める気にはなれなかった。思うに、正しい人間が正しくない人間と衝突を起こした時や、正しくあろうとした人間が正しさを貫けなかった時に、物語は生まれてくるのではないか。物語は、私たちが能動的に生むものではなく、そういう時に自然と生まれてくるもので、私たちはそれを受け止めるに過ぎないのではないか。ライブ後のまとまらない思考の中、ぼんやりとそんなことを考えた。

 

Le☆S☆Caの3人が正しくあろうとしたことは、その後の彼女たちのパフォーマンスが示している。MCでキョーコが「とにかく、私が・・上杉・ウエバス・キョーコ」と言い放ったのが印象的だ。

 

Le☆S☆Caは、最後の曲の前にもMCを入れた。私は、中央に立つ彼女たちを直視できず、下げたペンライトばかり見ていた。暗い足元に、微かな黄色の光が、ハートの器から漏れていた。愛によって灯されたこの光を、Le☆S☆Caにどう示せばいいか、まだ分からなかった。これからのLe☆S☆Caを応援する、なんて態度は、とてもではないが取れなかった。それでも、最後の曲が「ミツバチ」だと分かると、私はもう一度、ペンライトを天に掲げた。曰く、ミツバチは「あなたの息遣い」を運んできて、「大切なあなたに届」ける「便り」にもなってくれるという。私は、多分、Le☆S☆Caを応援できるくらい、どっしり構えられる人間ではない。それでも、小さなミツバチくらいにはなれるかもしれない。ひっそりと、そう思った。愛の形というにはあまりにしょうもない、と笑いたいなら、笑ってくれればいいと思う。私の愛は、少なくともその時は、ペンライトに宿っていた。

 

壇上の3人は、果たして何匹のミツバチを見かけたのだろうか。それは分からない。観客の視点から分かるのは、ただ1つ。3人は、当代最高のアニソン作曲家である、UNISON SQUARE GARDEN田淵智也が作った難曲を、確かに歌いきった。相変わらず音量の均衡は取れていないし、たまにピッチは上ずっていたが、彼女たちが正しくあろうとしたことは間違いないだろう。

 


 

Le☆S☆Caの退場とその次のグループの入場時は、Le☆S☆Caではなく、次のグループがMCを担当した。Le☆S☆Caは明らかに緊張していたから、その方がよかったと思う。振り返ってみれば、開幕後の一番場が温まった状態で、さらにCi+LUSという爆弾を場に投げ込んだのも、Le☆S☆Caがどうなるか読めなかったからかもしれない。いずれにせよ、全ての選択はよい方向に働いていた。

 

会場全体がなんとなくしんみりとしていたものの、次のWITCH NUMBER 4のパフォーマンスはその空気を一変させるくらいのパワーを持っていたので、本当にこの順番でよかったと思う。「星屑☆シーカー」の直前、トロッコへ移動しながらだーみなが、「トロッコに乗ってみんなのところへ……行くよっ」とMCをした。もちろん、「行くよっ」は曲の出だしに合わせたものだ。完璧なタイミングでパーカッションが入り、私はつい飛び上がってしまった。恥ずかしっ、と思いながら周りを見ると、皆ジャンプ後の着地姿勢になっていたので、まあそういうもんだよね、と自分を納得させた。

 

※ライブ中に跳びはねるのは危険なので控えましょう。

 

SiSHの盛り上げ方もよかった。「さよならレイニーレイディ」はまさに今の時期に聴きたい曲だし、その後の「プレシャス・セトラ」もライブ映えする曲で、まさに今日この日のためのセトリだった。

 

その後は、Le☆S☆Caとは別の意味で「今日がスタート」の七花少女の出番。そもそもの持ち曲数がまだ少ない分、MCはたっぷり時間を取っていた。初登場の割にかなり落ち着いていたのが印象的だったので、後で相方に聞いてみると、曰く、メンバーの半分くらいは相当場慣れしているので、本当の意味での新人のフォローに回れたのが大きかったのではないか、ということらしい。いずれにせよ、堂々としていたのは好印象で、これからも見守っていきたい限りである。

 

お次ははる☆じか(ちいさな)の番。この(ちいさな)を抜いてはいけない、というのはライブ中に得た知識の1つである。このはる☆じか(ちいさな)はとにかく衣装が可愛かった。いや、美味しそうだった。正直どちらも同じ感情を表していると思う。ケーキをあしらった衣装は、余すところなく「可愛い」を体現していた。彼女たち2人がフリフリしている姿は、果たして18歳未満にお見せできるか悩むくらい魅力的で、私の中で未だに映像がこびりついている。

 

KARAKURIの声が響いたのは、そんなこんなで可愛い演者たちがまだステージ上に残っている時だった。KARAKURIは、私の中で謎の1つであり続けていた。なんと言っても、双子設定で声優は1人なのに、一体どうやってライブをするのか、というところが不思議でならなかったのだ。

 

その答えは至ってシンプルで、「1人でやる」だった。いや、色々と関心させられて、私はこのライブだけでKARAKURIのファンになった。「Winning Day」を披露しながら1人でメインステージ奥の階段を下りてくる秋奈は、間違いなくこのライブ中誰よりも目立っていた。振り付けとカメラの切り替え方にも工夫があって、ちゃんと2人いるように見えたのもポイントが高い。KARAKURIは、今回のライブでただ1(2)人、単身で会場の耳目を独占したのだ。

 

カッコいいな……なんて月並みな感想でいっぱいになっていたところにぶちこまれたのは、秋奈の……その、なんと言うべきか、極めて独創的なMCだった。あそこまでいくと逆に味があるのでいいと思う、うん。少なくとも、他の人に卸せるものではない逸材であることはよく伝わった。念のためもう一度書いておくが、KARAKURIは今ライブのベストパフォーマンスだった。そのことは間違いない。

 

パフォーマンスの完成度という意味でKARAKURIがベストなら、観客にもたらした驚きという意味であれば、次のNi+CORAがナンバーワンだっただろう。スース役不在の中、代役を務めたのはなんとCi+LUSのマコト。しかもばっちり決まっている。ムスビ役のMCによると、この組み合わせが決定した後のレッスンの段階で、マコトは既にNi+CORAの振り付けを覚えてきていたらしい。凄まじい熱意と言うよりない。一方の私は、再度耳にすることができたマコトの「お兄ちゃん」で発狂しかけていた。

 

次の出番だったサンボンリボンは、唯一アルバム「H-A-J-I-M-A-L-B-U-M-!!」から楽曲を披露した(「Clover×Clover」)。今回のライブは、かなり曲数が詰まっていた割に、「Are You Ready~」以降から大半の楽曲を取っていた点が特徴的だったと言えよう。私個人的には「Re: Longing for summer」の曲も聴きたかったが、それはまた次の機会に。

 

以下は脳天が吹き飛んでいたのであまり覚えていない。4UとThe QUEEN of PURPLEのロック系2グループが連続で来たので、一旦(身体の疲れで)微妙に下がっていた私のテンションは再びハイになってしまったのだった。このあたり、裏声で叫びすぎて、何をしていたのか本当に覚えていない。あ、演者が何かやった、という意味では、長縄まりあが自転車に乗ったのは覚えている。長縄まりあはエアドラムも上手くて、そこにはかなり驚いた。

 

後でセトリを眺めながら相方と振り返って、ようやく自分があの時何を考えていたか、僅かに思い返すことができた。驚いたのは4Uの1曲目で、「TREAT OR TREAT?」だった。それで驚きすぎたのでインパクトは薄いが、2曲目の「Crazy Girl's Beat」も相当に意表を突かれた。私の本命は「Lucky☆Lucky」で、相方の本命は「メロディーフラッグ」だった。まあ、いずれにせよ盛り上がったのは間違いない。

 

じゃあThe QUEEN of PURPLEはどうだったか、というと、これは残念ながらどうやっても思い出せなかった。Hey-Yoと叫んだりなんだりして、楽しかったのは間違いない。ただ、頼みの綱の相方が、

 

「僕はQoPの単独ライブで沼にハマったんでよく覚えてないです」

 

などと言うので、これはもうお手上げである。

 


 

〆はI shall returnな777☆SISTERS。曲自体は概ね予想どおりだった。とはいえ、アンコール前最後の曲だった「ハルカゼ~You were here~」はA席の辺りから崩れ落ちる声が聞こえるくらい、万感の想いが観客の胸に去来した。

 

アンコールは全員で「STAY☆GOLD」。相方は後に、

 

「AXiSのエピソード中ずっと雨が降っていたじゃないですか。それで、最後の最後に晴れる。少なくとも僕にとっては、その演出が印象的でした。そう考えると、AXiSのエピソードが完結した直後のライブのアンコール曲が、水たまりの虹云々言う『STAY☆GOLD』だったのは構成の妙なんじゃないでしょうか」

 

という見解を披露している。私は、運営としては賭けだったかもしれない、と思った。というもの、この時期は梅雨明けしているかどうか微妙だからだ。ナナシスにとって、夏が重要な季節であることは間違いない。「SEASON OF LOVE」がいつを指すかは微妙なところだが、私は、今回のセトリは全体的に夏の始まりを意識しているように思われたので、この「SEASON」は初夏かもしれない、と考えた。そうなると、この時期の開催を選んだ運営としては、梅雨が明けているかどうか賭けるしかない。

 

いや、そうではない、「SEASON OF LOVE」はもう少し含みを持っている、という主張も成立する。パンフレットの冒頭、総支配人が「SEASON OF LOVE」に至るまでの道のりをまとめている。それを深読みするのであれば、「SEASON OF LOVE」は、愛の季節は、季節なんて訳ながら、季節でもなんでもないかもしれない。このライブに至るまでに大きく成長したナナシスがついに見つけた何かが「LOVE」であり、「SEASON OF LOVE」は、そんな直近の、或いはこれからのナナシスのことを指しているのかもしれない。

 

いずれにせよ、初夏を狙ったものであることは、やはりそのパンフレットの文章からも読み取れる。曰く、AXiSのエピソードのエピローグで流れているBGMは「初夏の手紙」だという。少なくとも総支配人は、わざわざ「追伸」でそれを明らかにしている。ということは、今回のライブでやたら強調された紙飛行機は、「初夏の手紙」で間違いない。というより、このライブそのものが、「初夏の手紙」だろう。そうなると、「SEASON OF LOVE」は、初夏の意味合いを、少なくとも含んでいる、というのが、私の解釈である。

 

しかし、「初夏の手紙」とは、これまた何か思わせぶりな追伸である。思い返せば、今回のセトリは、直接的にAXiSのエンディングだった777☆SISTERSの「NATSUKAGE-夏陰-」にせよ、もう少し広く取って「ハルカゼ~You were here~」にせよ、或いは手紙ということならLe☆S☆Caの「ミツバチ」にせよ、ナナシスのシナリオの内外で起きた変化や別れを、どことなくにじませている。長い人生の中、ほんの一瞬交わった人々が、お互いの変化を受け止める。そんな曲たちだ。

 

翻って、私の方に届いた「初夏の手紙」は、何をもたらしてくれたのだろうか。会場を去り、海浜幕張駅の近くで相方と食事をしたその後の帰路、ふと空を見上げた。相変わらず空はどんよりとしていて、夜の暗さをぼかしていた。

 

しかしそのうち、雨が細々と、はっきりと降り始めた。私にとっては、それで十分だった。

 

愛を受け取った私の身に、すぐ何か変化が起きるわけではない。変化といえば、ライブは一瞬の非日常だった。しかし、それが過ぎれば、またいつもどおりの毎日が待っている。それでも、私は元気だし、ほんの少しの灯りを心に灯しながら、いつもより目線を高くして歩いている。天気だって、恨めしい曇りから本降りになり、そのうち、季節の大きな流れの中で、ゆっくりと、初夏の日差しへと移ろいゆくだろう。「SEASON OF LOVE」という手紙は、むしろ、私にほんの少しの変化を与えてくれた。その「ほんの少し」を与える何かこそが愛なのかもしれない、という含みを示しながら。

 

右手を見やる。傷絆を巻いた親指は、元のように痛んでいた。この痛みも、いつかは治っていくだろう。変わりゆく毎日の、今しばらくの道しるべとしてみるのも悪くない。そんな、青く未熟で、若々しいことを久しぶりに思った帰り道だった。

 

 

(了)

 

文字禍/まごころを、君に【『みにくいモジカの子』プレイ感想<ネタバレ有り>】

※8月19日追記:一番下に参考で示した記事を閲覧した上で、本論最後のチャプターを若干修正。記事の要旨に変わりはない。

 

※8月7日追記:本論の終わりに補遺として「シナリオの一貫性とトゥルー以外のヒロインのルートについて」を追加。ただし、「作品の感想」から逸脱し「批評の批評」に成り下がってしまっているきらいがあり、自分でもよくないと感じている。補遺抜きでも記事としては完結しているので、関心のある人のみ目を通して欲しい。

 

この記事はニトロプラスの最新作『みにくいモジカの子』のプレイ感想だ。ネタバレを多分に含むので、プレイ予定のある人は注意してほしい。

 

 
『みにくいモジカの子』(以下『モジカ』)を支える柱と梁が幾つかあることに気がついたのは、四番目に攻略していた椿ルートの途中だった。もちろん、柱や梁はめいめいが単体で議論や分析の対象になり得る。だが、椿ルートを進めていくうち、私は脳裏をよぎった直感を否定することができなくなった。この作品をシナリオだけ、設定だけ、あるいは演出だけに絞り込んで語ることは不可能だろう、という直感を。
 
だから、『モジカ』が私に何を語り、その語りについて私がどう感じたかを記す前に、『モジカ』の特徴についていま一度まとめてみたいと思う。そうした、他のノベルゲームと比較して明らかに異質である点が、どのように『モジカ』を形成しているのかについてまとめる作業が、『モジカ』の語り、或いは『モジカ』がたどり着いたところについて考える上で助けになるだろうから。
 

 
『モジカ』で目を惹くのは、やはり特異な場所に表示されるテキストだろう。既存のメッセージウィンドウを投げ捨て、徹頭徹尾画面のど真ん中に表示されるテキストは、いかに『モジカ』が異質な存在であるかを端的に表している。一方で、『モジカ』の根幹を成す設定である主人公の「モジカ」能力=他心通の能力は、ヒロインの心情をその画面中央に居座るテキストからすら解放し、画面全体を覆い尽くす文字の渦として存在することを許している。
 
こうした常軌を逸したテキスト群を支えるのは、これまた徹底された一人称視点の光景だ。ヒロインの顔を映し続けるという美少女ノベルゲームの常識を投げ捨てることで達成された画面は、人の脚や影ばかりが映る陰鬱なものになった。追い打ちをかけるように、暗い劇伴が私たちの耳を支配する。いや、劇伴が華を添えている間はいい。この作品では、BGMとして環境音が採用されていることが大変多い。作品全体に静かな影を纏わせるこうした音たちの存在も、また他のノベルゲームとはかけ離れたところにある。
 
こうした(広義の)演出群を支える設定は、上で一度触れたとおり、「相手の思考が文字となって視える」という「モジカ」の能力だ。
 
「モジカ」のアイディアの源流は、二か所に求められるように思う。一つは、問題意識としての、ノベルゲームにおける主人公とプレイヤーの乖離。もう一つは、より具体的なアイディアのヒントとしての、文字の渦という発想だ。
 
ノベルゲームにおける主人公とプレイヤーの乖離、とはどういうことだろう。簡潔に言えば、プレイヤーは主人公が到底知り得ない情報に容易に接することができる、それが故にプレイヤーと主人公は一体化しない、ということだ。プレイヤーは、しばしば主人公が絶対に取り扱うことのできない情報に触れる。代表的なものが、ヒロインの心情だ。人が表に出していない、心の中だけで考えているようなことを、プレイヤーは知ることができる。場合によっては、視点人物が主人公から移り変わることで、主人公が存在しない空間におけるヒロインの動静すら把握可能だ。こうした情報格差は、メタ存在としてのプレイヤーと作品内部の主人公の間に横たわる溝を深くする。
 
或いはニトロプラスは、この事実を問題として捉えていたかもしれないし、新たな表現のチャンスと見ていたのかもしれない。どちらにせよ、『モジカ』はこの事象をほどいていく方向にシフトした。『モジカ』が提示した答えはシンプルだ。主人公が他人の思考を読めないことでプレイヤーと主人公が一体化し得ないのであれば、主人公の側にその情報を与えればよい。その発想が、「モジカ」の能力の源泉だ。
 
この答えがゲームに、『モジカ』という作品に与えた影響は大きかった。主人公とプレイヤーの同一化が入手可能な情報の面で進んだことにより、その他の面での同一化も極端に押し進める必要が生じてきた。それが、一人称視点を意識した画面づくりに繋がり、ひいては画面中央に表示されるテキストというある種の演出に続く道を整えた。画面中央にあるテキストとは、畢竟一人称視点による画面、それを駆使した主人公とプレイヤーの一体化という制作側の意図を達成するために必要な最後のピースだった。プレイヤーの視点を画面下部のメッセージウィンドウから解放し、真に主人公と同じものを見せるために、ニトロプラスはテキストの位置を移動させたのだ。
 
プレイヤーと主人公の同一化、すなわち、プレイヤーと主人公の間の境界の融解――この現象が真に効いてくるのは、主人公が欲望のシンボルであるコンセイサマ内部に取り込まれた後のシーンだ。だが、そのことを検証する前に、「モジカ」のアイディアのもう一つの源流について考えてみたい。
 

 
「モジカ」とは文字渦である。作中、文字渦という文字列が提示されるのは一度だけだ。だが、その時以外にも文字の渦など似た表現は頻出する。渦という文字が印象的に用いられているというのは、見解ではなく事実だ。
 
この「渦」という発想の土台にあるのは、中島敦の小説『文字禍』だろう。ひょっとすると、この小説こそ『モジカ』そのものの出発点なのかもしれない。中島敦のこの作品は、バビロニアの図書館を舞台に、文字の精霊の存在を発見した博士が、文字の働きとその危険性を認識しながら、最終的には文字の重みそのものである粘土板に圧し潰されて死ぬまでを描いている。青空文庫で読むことができるので、一度目を通してみて欲しい。
 
中島敦の『文字禍』は、一般にゲシュタルト崩壊をおかしく描いた作品だと捉えられている。もちろん、『文字禍』のアイディアの土台には、ゲシュタルト崩壊があるのだろう。しかし、結局中島敦ゲシュタルト崩壊を鍵として描いたものは、もっと大きな何かだった。今日の私たちが同作をメディア論的に、或いは記号論的に再読することはさほど難しくない――それほどまでに、含蓄に富んだ作品だ。
 
「モジカ」とは文字渦であって文字禍である。 文字の渦が主人公を通して私たちを襲い、私たちの側を解体していく。まさしく禍そのものだ。
 
コンセイサマの中で、主人公は自我を失いかける。正確には、自分の欲望と他人の欲望の区別がつかなくなる。数多の欲望を人間ごと呑み込んできたコンセイサマの中で、主人公はなぜ自分とそれ以外のものの区別がつかなくなったのか。そのことを考える上でヒントになる部分が、『文字禍』の中にある。
 
彼が一軒の家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰との意味もない集合に化けてしまう。(中略)人間の身体を見ても、その通り。みんな意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしまう。どうして、こんな恰好をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。眼に見えるものばかりではない。人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。
 
中島敦『文字禍』 原文は「じっと」の「じっ」に傍点
 
おそらくゲシュタルト崩壊云々というのはこの部分のことを指しているのだろう。上述のとおり、たとえゲシュタルト崩壊が発想の根底にあったとしても、この作品の射程はそれを遥かに超えたところまで伸びている。上で引用した部分は、文字と文字の精霊を研究してきた博士が、ただの線の集合に過ぎない文字がどうして「文字」として意味のを獲得しているのか分からなくなった、という前置きの上で展開される。今まで意味のあったものが、分析という行為を通じて解体された結果、「意味のない奇怪な形をした部分」へと還元されてしまった、というポイントに着目したい。
 
『モジカ』において、主人公はコンセイサマの中で大量の文字を浴びる。その文字は、今までコンセイサマの中に溜め込まれた人間の欲望そのものだ。それら視覚化された人間の欲望=「モジカ」によって思考を分析されることで表出した文字が、主人公に襲い掛かる。主人公は解体され、主人公の欲望すら他者の欲望と並列化される。主人公という一人の人間を構成していた欲望は、文字によって解体された結果、主人公という属性を失い、ただの欲望として他人のものだったはずの欲望と混じり合った。そしてそこから、主人公の思考が闖入者によってかき乱されていく。これが、主人公がコンセイサマの中で自分の欲望を、ひいては自我を見失った理由だ。
 
そして、ここまで理解して初めて、『モジカ』はなんのために一人称視点を徹底させたのかが明らかになる。プレイヤーと主人公の視界の一致を通して、プレイヤーと主人公の境界は崩れ落ちる。主人公の経験はプレイヤーの経験として私たちのものとなっていく。では、その状態で主人公が分解されればどうなるか。当然、プレイヤーの側も解体される。コンセイサマの中に取り込まれた誰かの欲望は主人公の欲望であって私たちプレイヤーの欲望そのものなのだ。既に融け落ちていた主人公とプレイヤーの境界だが、今度は主人公が一般化されるシーンを通して、私たちプレイヤーが一般化され意味を、個人という意味での人間という総体を失っていくのである。
 
こうした、文字という記号によって私たちプレイヤーを解体していく営みは、キャラを記号の集積と捉える議論の裏返しだ。キャラという概念が記号消費のシンボルとなって久しい。だが、キャラを単なる記号の集まりとして考え、キャラクター=具体的な登場人物をキャラという側面から解析しようとする行為には、常にリスクが伴う。抽出され一般化されたものどもは、いつの間にか意味を失い記号ではなくなるか、還元され過ぎて元の形に戻れなくなる。その危険に気が付かないと、いつしか私たちの側が記号によって解体されてしまうのだ。
 
具体的なキャラクターや彼らの思考が記号や記号の集積であるキャラ、或いは記号の代表である文字によって表現されると、私たち人間は途端に「文字の精」によって混乱させられる。
 
埃及人は、ある物の影を、その物の魂の一部と見做しているようだが、文字は、その影のようなものではないのか。
獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。
 
中島敦『文字禍』

 

美少女ノベルゲームプレイヤーが読むと卒倒しそうになる文章が戦前に執筆されていたというのだから驚くよりない。この部分だけを読むと、現実の女性の代わりにキャラクターを愛する私たちは文字の精霊の虜になっているだけの愚か者のように思われる。

 

だが、実際には、この事実を知ってしまった博士は最終的に解析のし過ぎで「気が違いそうになっ」た(中島敦『文字禍』)。それを文字の精霊からのしっぺ返しと捉えると、記号とはいかに扱い難いものなのか、というところまで思考が回って、別の意味で頭が痛くなってくる。

 

ここまで掘り返してみると、いよいよ『文字禍』いや『モジカ』という作品そのものも恐ろしくなってくる。キャラクターに魅了の術を掛けられた私たちプレイヤーは、そして、記号の海文字の渦の中を生きる現代の私たちは、どうすれば総体を回復できるのか。

 

『モジカ』は、私たちに一つの救いを提示している。コンセイサマに取り込まれた主人公が助かる道は、ただ一つしかなかった。逆に言えば、それこそが私たちを救済する可能性のあるたった一つの手段なのだ。

 
コンセイサマの中で愛し合う二人が手を取り合えば彼らが祝福されて生き地獄から脱出できるわけではない。そのことを否定するために、椿は触手の犠牲となった。彼女の貴い犠牲を無駄にしないためには、きちんと正しい道のりを辿って「笑子」のもとへ辿り着かねばならない。
 
主人公と「笑子」いや鳴子は、一度のみならず二度もコンセイサマの魔の手から逃げおおせた。その理由は、二人が「呪われた運命」の子だったから、というのが最も簡潔な解答であり、もう少し詳しく書けば、二人の違いをコンセイサマの側が見失ったから、になる。
 
コンセイサマが二人を取り違えた理由は明示されない――二人が双子であるという可能性は、エピローグによって潰されている。いや、二人を取り違えたその理由はおそらくシンプルで、それこそが『モジカ』の描いたものなのだと筆者には思われるのだが、結論は急がずにもう少しだけ寄り道をしてみたい。
 
なんとも奇妙な話ではないか。コンセイサマは、これまで数多の人間を欲望を手掛かりに還元していくことで彼らを取り込みその命脈を保ってきたのだ。それがどうして、たった二人の「見分けが付かなかった」などという理由で滅ぼされてしまったのか。二人が自分の心に鍵を掛けて=カンヌキを掛けていたから、というのは部分点しか当たらない回答だ。これでは、どうして幼少期の二人がコンセイサマから脱出できたのか説明できていないからだ。
 
正しい答えは、「二人は二人で一つだったから」、である。
 
実はこれで満点なのだが、しかし意味不明であるという点で問いと大してレベルが変わっていない。もう少しだけ詳しくみておきたい。
 
主人公と鳴子は、同じ日に同じ籠で孤児養育施設に拾われた子だった。その二人は、片割れがいかに醜い見た目をしていようと、常に二人で過ごしてきた。そんな中で、鳴子いや「笑子」はコンセイサマの中へ投げ込まれ、他心通を得ることができるか試される。主人公は「笑子」の危機を察知し、果敢にも自らコンセイサマの中へと飛び込んで、無事に「笑子」と共に生還した。
 
そのことがきっかけで他心通を獲得した「笑子」は許斐家の養子となりひとまずは主人公と袂を分かった。しかし、時が流れ、「笑子」は鳴子として再び主人公の前に姿を現し、いま一度コンセイサマの中へと入り込んだ。今度は、コンセイサマを滅ぼすために。主人公も鳴子の期待に応え、幼少期と同じように、二人でコンセイサマを打倒した。これが、鳴子ルートのプロットだ。
 
要約すると、「同じ日に捨てられたという数奇な偶然によって結び付けられた比翼連理の二人は、『呪われた運命』に導かれるまま、二人でコンセイサマという巨悪を倒しハッピーエンドを迎えた」、になる。つまり、「過去の出来事や因縁によって結び付けられた運命の二人」が「『真実』の愛」を掴んだから、コンセイサマはその身を焼かれ、二人はそのまま子供を授かって幸せに暮らしたのだ。
 
なんということだ。今まで散々『モジカ』がいかに普通の美少女ノベルゲームからかけ離れた表面を纏っているか議論してきたというのに、肝心要のその中身は、むしろ王道中の王道をひた走っているではないか。
 
『みにくいモジカの子』というタイトルは、もちろん童話『みにくいアヒルの子』のパロディーだ。だが、『~アヒルの子』がタイトルに使われたのは、ひとえに「みにくい」という言葉を導くためである。プロットとしては、醜い存在と美しい存在が「真実」の愛に気が付くのだから、むしろ『美女と野獣』である。『モジカ』本編でやたら醜さと美しさ、嘘と真実の対比が強調されているのは、「『真実』の愛」などという使い古されてもはや現代では忘れ去られたはずのアイディアを導くためだったのだ。
 
思えば、売上的に成人向け美少女ゲーム全盛期だった90年代後半から00年代頭に流行った泣きゲ前後から、この手のゲームはずっと、ナイーブ過ぎるきらいすらあるプレイヤーのために美しい「『真実』の愛」を描き続けてきた。時代が移り、流行の中心が泣きゲから萌えゲに移り変わっても、そこは変化しなかった。萌えゲの時代になり、重たい因縁やいわゆる鬱展開は忌避されるようになったが、プレイヤーはなんだかんだ愛の力愛の魅力を信じるロマンティストだった。
 
そう考えると、『モジカ』は美少女ゲームのど真ん中にある作品だ。ライナーノーツで、ディレクターが『モジカ』をこう評している。ニトロプラスが作った「本気のエロゲ―」である、と。
 

 
それにしても、救いというのは難しいものだ。概念そのものがふわふわとしている上に、何が救いになり得るかというのは人や状況によって異なる。
 
『モジカ』が救いの対象としているのは誰なのだろうか。題材的には、いじめられっ子がどのように前を向き始めるか、というところに焦点が当たっている。
 
しかし実際には、上述のとおり、『モジカ』は主人公をとおしてプレイヤーを巻き込む形で物語を進めていく。プレイヤーがヴァーチャルな体験として救済される、ということは、すなわち、プレイヤー一般に対し『モジカ』は開かれているということだ。
 
もちろん、プレイヤーは主人公が受けたいじめすらも自己の体験として内面化していくだろう。だが、この作品はもう少し遠いところまで視野に収めていそうな気もする。
 
というのも、多かれ少なかれ、美少女ゲームプレイヤーというのは迫害や蔑視の対象になってきた、という事実が私たちの目の前にあるからだ。いや、プレイヤーのみではない。それこそ、2000年代が接近するまで、ポップカルチャーいやサブカルチャーに造詣を持つ人々(=おたく)は世間からの非難の対象だった。すなわち、「私たちのような」人々は、誰しもがいじめの近傍にあるアイディアと無関係ではない。
 
或いは、逆かもしれない。世間や所属していた共同体の中で困難に見舞われ、救いを求めた先がポップカルチャーだったのかもしれない。その可能性は否定できない。どちらにせよ、「私たち」にとって、ポップカルチャーとは安寧の地であったし、それと同時に、自らが受ける苦難の源泉でもあった。
 
「気持ちいい」という言葉を鍵として、自分と相手の境界が融け去った状態を描きながら、人間とは、愛とは何か、そして、ポップカルチャーに引き寄せられる「私たち」とは何かを探ろうとした作品に、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』がある。この作品には、予め撮影された『エヴァ』を鑑賞している私たちを流しながら、「気持ち、いいの?」と問いかけるよく知られたシーンがある。これは、どうやっても一人称視点を貫徹できない既存アニメで私たちを揺さぶる数少ない方法だと評価できるが、筆者が『モジカ』をプレイしていて思い出したのは、まさにそのシーンだった。
 
まごころを、君に』の最後は衝撃的だ。岸辺で二人きりになった主人公・シンジは、ヒロインであるアスカのもとへ近寄り、二人が新しい秩序の中にいることを確認する。それに対して、アスカは一言だけ残して幕は切れる。「気持ち悪い」、と。
 
人間は分かり合えないし一つにもなれない。救いを求めてポップカルチャーへと彷徨い込んだ「私たち」を一蹴したこのラストは、今でも賛否両論ある。ある人はこのラストのせいで二度と旧劇場版の『エヴァ』を観れなくなっただろう。一方で、この現代人を批判するかのようなラストとこれを作り上げたスタッフの気概を高く評価する人もいる。
 
後者のような人たちにとって、『モジカ』の結末は甘すぎるだろう。おそらく、せっかく立てた命題と向き合うことから逃げた、と批判するに違いない。
 
しかし、筆者は思うのである。仮に、個人として切り離され浮遊した現代人一般(「私たち」ならぬ私たち)が、記号の渦という魔の手から逃れられるとすれば、それは個人が再び結びつき合った時だけなのではないか、と。『モジカ』は、確かに「どのようにして」その結びつきを作るかまでは描いていない。『モジカ』は、あくまで美少女ゲームの文脈に沿って「運命」という概念を用いた。しかし、『モジカ』はきちんと答えは示している。「二人で一つになれるようなことがあれば、それは救いになり得る」、と。
 
分解されることを拒むために、私とあなたの間の境界を融かし、「一つ」として生きていく。一見肉を切らせて骨を断っているかのような作戦にも思われる。しかし実際には、分解と融合は全く別の現象だ。間にワンステップ、私とあなたの区別をなくすという工程が入るから紛らわしいだけだ。「二人で一つ」は、確かにコンセイサマという地獄から逃れる蜘蛛の糸たり得るアイディアである。
 
『モジカ』は、真の意味で純愛ものだ。愛があればこの世の困難の大抵は乗り越えられるとでも言いたげな、ナイーブなロマンティストが喉から手が出るほど待ち望んでいた作品だったのだ。達観しているように見えて、心の底では「運命」を待ち望んでいるような現代人にとって、『モジカ』は最高の処方箋となるに違いない。『モジカ』は、何かにつけてポップカルチャーに逃げ込むようになった今日の(現代の、ではない)「私たち」、すなわち、一般という意味の私たちとほぼ同値となった「私たち」に手を差し伸べたといえる。
 
『モジカ』は、どこまでも前向きで、ずっと夢を見続けられるような、無垢な少女の如き作品だ。少なくとも、ロマンティストを自称する美少女ゲームプレイヤーの筆者には、そのように思われた。だから筆者は、そんな『モジカ』が大好きだ。
 

 
補遺 シナリオの一貫性とトゥルー以外のヒロインのルートについて
 
最初から分かりきっていたことではあるが、『モジカ』は決して万人から満点をもらえる作品ではない(いや、ニトロプラス自身はあわよくばそれを狙っていたのかもしれない)。
 
ネット上で散見される『モジカ』に対する批判的な論調を要約すると、以下の二点にまとめられる。一つは、五人のヒロインの物語全てに共通するような、全体を貫く「シナリオ」の不在を追及する向き。もう一つは、トゥルーである鳴子以外のヒロインのルートにおける救いのなさ、あるいはヒロインの扱いの悪さを嫌う方向性だ。
 
もう少し詳しく見てみよう。全体を貫く「シナリオ」がない、とは、つまり、五人のヒロインの物語がバラバラな方向へと散ってしまっている、ということだ。この意見を主張する人は、椿と鳴子以外の三人の物語では主人公の復讐がメインになっているにも関わらず、残り二人の話ではその要素が見当たらないことを糾弾する。或いは、鳴子以外のヒロインでは残虐なまでの結末が性行為を交えつつ展開される割に、鳴子ルートではベタベタに甘い終わり方を迎えることについて不満を抱きがちだ。
 
鳴子ルートとそれ以外の物語の間にある溝――これは、そのまま『モジカ』を嫌うもう一つの方向性へと繋がっていく。すなわち、鳴子以外のヒロインについて、なんらハッピーエンドを迎える余地がない、という意見だ。美少女ゲームにおいて、全てのヒロインとの物語がハッピーエンドである義務はもちろんないが、本論で少し触れたとおり、萌えゲ時代の美少女ゲームプレイヤーはいわゆる鬱展開を忌避する傾向にあり、『モジカ』は彼らのそんな反鬱展開センサーに引っかかったのだと思われる(とはいえ、鳴子以外の『モジカ』のヒロイン全員があのような悲惨な結末を迎える必要があったかは検討する価値があるように思われる)。
 
これら二つの意見にはまとめて回答できるかもしれない。結論を先に述べると、『モジカ』はニトロプラスにとって「本気のエロゲ―」であったがために、上のような意見が生まれる余地が発生したのだ。
 
ディレクターが言うところの「本気のエロゲ―」には、本論で述べたような意味合いの他にも、幾つか異なる示唆が込められているように思う。それは、ひとえに「エロゲ―」とはいかなるものか、という問題に起因するためだ。「エロゲ―」とは何か、と問われると、私たちは困ってしまう。というのも、「エロゲー」には幾つか特徴があり、それらを一言にまとめて表現することが難しいからだ。
 
まず、「エロゲ―」とはエロ要素を含むゲームだ、という回答が想定できる。この意味で「本気のエロゲ―」を作るのであれば、それはすなわち、「エロシーンが実用に耐え得る作品」、つまり「エロシーンで実際に興奮できる作品」を目指すことになる。
 
或いは、「エロゲ―」とはあらゆるかわいい女の子や美少女を網羅し、彼女らとの多様なコミュニケーションをシナリオの中で体験するゲームだ、とまとめることもできる。この時、「本気のエロゲ―」は、「各属性を持つヒロインを満遍なく網羅し、かつあらゆるシナリオのパターンを提示する作品」になる。
 
そして、一部の「エロゲ―」には、トゥルーエンドと称される、他のルートとは一線を画したシナリオが存在する可能性がある、と指摘する人もいるだろう。この回答は、厳密には全てのエロゲーに当てはまるわけではない。しかし、トゥルーエンドを採用するか否かという判断が制作側に存在することも確かであり、かつそのような特性は他のメディアではあまり見られないことも事実だ。この意味で「本気のエロゲ―」を目指すならば、「トゥルーがあるのならばその物語が最も強く印象に残るように、そうでないならばできる限り各ルート間の格差が質・量ともに生じないように制作された作品」を指向することになる。
 
こうして並べてみると、ニトロプラスがどうして『モジカ』においてあのようなヒロインを用意したのか、そのような性行為を描写したのか、そして、ヒロインにとっても主人公にとっても厳しい結末を提示したのかが見えてくる。第一の点、エロシーンの実用性という意味では、できる限り多くのプレイを実装することでその要求を満たそうとしている。『モジカ』の中に搭載されたHシーンのプレイの幅は広い。レイプ逆レイプアナルセックス配信プレイ足コキフェライマラチオ首絞めキメセク授乳プレイボテ腹セックス、挙句の果ては触手プレイ、と、羅列するだけでも威圧感がある。そうした種々のプレイが、官能的な絵柄や淫語によって装飾されている。
 
肝心なのは、そうしたプレイを網羅するために、ヒロインの属性も幅広く取り揃える必要がある、ということだ。そうすると、自然に二つ目の視点、「ヒロインとシナリオの多様性」もカバーされていく。精神が崩壊した結果ドSになる者、現実を受け入れられずに妄想の中で生きることを決め込んだ者、ドM露出狂という本性を暴かれた者、無口キャラが崩れセックス中毒になる者、そして、勤勉な生徒会長にして物語の黒幕、最終的に主人公と純愛を育むことになるヒロイン。なるほど体格もそれなりにメリハリがあり、眼鏡などの属性も分散させられている。
 
そして、二つ目の視点と最後の視点が重なり合うポイントで、シナリオに関する判断を迫られることになる。ニトロプラスは、トゥルーを用意するという決断を下した上で、ある程度シナリオにも幅を持たせようとした。この計画が無謀だったかどうかは完全に個人の感性による。確かに、トゥルーという物語の総まとめにあたるルートを用意しながら、シナリオの種類を揃えるのはやや無謀なのかもしれない。それでも、ニトロプラスはなんとかそれを成し遂げようと画策したのだ。まず、イントロダクションとしてみうルートを配置し、舞台となっている街の概要を提示する。続く胡頽子と綺羅々のルートでは、「笑子」の存在をちらつかせながら、一応は主人公の復讐という見せかけの柱を私たちに見せつける。椿ルートでカンヌキとコンセイサマという設定を明かし、鳴子ルートでまとめる。ニトロプラスは、シナリオに幅を持たせる代わりに、設定を小出しにすることで、徐々に物語や舞台の細部を描き、トゥルーでのカタルシスを担保しようとした。
 
トゥルーでのカタルシス、ということを考えると、もう一つ、どうしても避けて通ることのできない問題が生じる。それは、最もトゥルーでのカタルシスを高める方法は、トゥルー以外をバッドにしてしまう作戦である、という問題だ。結局ニトロプラスは、上で述べたシナリオの多様性の問題と、このトゥルーでのカタルシス、その双方を重く見て、鳴子以外を苦い結末にしたのだと思われる。この判断もまた、プレイヤーによって賛否が分かれて仕方の無いところだ。
 
もちろん、ニトロプラスは腐心して設定を徐々に明かすという技法以外でも『モジカ』の各ストーリーに統一感を持たせようとしている。「醜い」と「美しい」の対比がそれだ。これは同時に、「嘘」と「真実」の関係性を問うてもいる。どちらかというと、シナリオの中身というよりコンセプトに近い部分だが、そういう面でもニトロプラスの工夫が見受けられる。
 
一点、ニトロプラスを擁護するのであれば、作品の「本筋」から離れてしまうヒロインは、トゥルーのあるなしに関わらず、ほとんどのエロゲーにおいて生じてしまう、という点だ。この傾向は、特にシナリオ重視の作品に強い。この「本筋」から離れたヒロインの存在は、ある意味シナリオの多様性を確保しようとするあらゆるエロゲブランドの努力の成果であり、逆に言えば、そうした離れたヒロインが存在しないエロゲーは、往々にして似たり寄ったりなシナリオが集まった作品になりがちだ、とも指摘できる(もちろん例外もある)。ある意味必要悪とも取れるが、『モジカ』はその中ではかなりよくこなしている方だ。「本筋」である鳴子ルートから離れているヒロインも、設定を提示する役割などから全体の流れの中でしっかりと位置づけされている。その観点から言えば、『モジカ』は決して失敗作ではない。
 
多様なプレイヤーのニーズに全て応えることは、いかなる作品でも不可能だ。『モジカ』は、「本気のエロゲ―」であったがために多様な要素を取り込み、その結果あらゆる角度からの批判を甘んじて受けなければならない存在になった。個人的見解を述べれば、『モジカ』は「本気のエロゲ―」として申し分ない完成度であり、シナリオもキャラクターも設定も十分体系的にまとめられた作品だと感じている。この作品の一点を取り出して失敗だとなじることは容易い。或いはそれらの大半は、体験版で提示された僅かな情報から製品版の様子を想定したプレイヤーの浅慮によるものかもしれないが、中には正鵠を得た批判もあるだろう。しかし、ニトロプラスの野望や(シナリオだけ、CGだけといった「分析的」な評価ではない)作品全体の様相ということを視野に含めると、『モジカ』以上のものを想定することは難しい。エロゲーとは、美少女ノベルゲームとは畢竟複合メディアであり、情報を含む媒体も媒体間のバランスも複雑だ。あまりに一般化し過ぎた、すなわち、分節化を指向する分析的過ぎる批評は、ちょうど『モジカ』の主人公の如くその文章の側が解体されかねない。そう考えると、やはり『モジカ』は恐ろしい作品なのだと改めて認識させられる。
 
※2018/9/4追記:余談だが、発売されて一ヶ月、もう一度『モジカ』について考える機会があったのだが、主人公の復讐という物語の一側面は、実は作品を通じて徹底されているのではないか、という結論に至った。というのも、主人公と鳴子が二人で一つならば、主人公の復讐と鳴子の「復讐」=幼少期に「コンセイサマ」へと投げ込み、その上で主人公から鳴子を引き離した街の上層部への復讐は、実は一致しているのかもしれないからだ。参考までにここに思索の跡を残しておく。
 
出典
下倉バイオほか(2018)『みにくいモジカの子』. ライナーノーツは本編クリア者のみ閲覧可.
中島敦(1942)『文字禍』. 底本は青空文庫による. リンクは上記ジャンプ先参照.
 
参考
庵野秀明ほか(1997)『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』.
平和,大樹連司,なかJ(2018)"ゲームシナリオ"と"小説"の違いとは? 実力派ゲームシナリオライターラノベ編集のプロが語る【ニトロプラス・下倉バイオ×元電撃文庫編集長・三木一馬】. 電ファミニコゲーマー. 最終閲覧2018年8月19日. http://news.denfaminicogamer.jp/interview/180817

鳥籠、少女、青い鳥: 『リズと青い鳥』感想

山田尚子監督の長編アニメを鑑賞しに行く時には、必ず多少の覚悟を決めることにしている。私にとって山田尚子の作品を観るとは生易しいことではない。秋葉原UDXで初めて『たまこラブストーリー』に触れた時の衝撃といえば、まだ瞼の裏にこびりついている。ラストシーンの暗転は光よりも眩しいものとして私の中に刻まれたのだ。もちろん、『映画 けいおん!』にしても、『聲の形』にしても、印象的なシーンはいくつもあった。要するに、どの作品をとってみても、私の心に傷痕を残していくのだ。

 

そういうわけで、『リズと青い鳥』を観る前にも、頭の中でいろいろと念じる必要があったのである。

 

そして、私のその苦労を裏切ることなく、『リズと青い鳥』もまた、私の下へ何かを届けてくれた。

 


 

聲の形』でもそうだったが、今作『リズと青い鳥』でも、山田尚子は撮るものを絞り込んでいるのではないかという印象を受ける。掘り下げようと思えば掘り下げることのできたエピソードはいくつでもあったはずだ。逆に言えば、山田尚子は明確に撮るべきものを掴んでいる。だからこそ、山田尚子の長編では主題が重要なのだ。彼女の作品はしばしば「映画」と評されるが、その理由の一つがここにあるだろう――もちろん、映像論法や撮影、明確なカメラへの意識、なども絡み合っているのだが。

 

リズと青い鳥』で山田が描きたかったものは、おそらく「少女」だろう。鑑賞した人であれば、「そんな当たり前のことを」と言うかもしれない。まさにそのとおりで、あの作品は愚直なまでに少女のことだけを映している。誰でも気が付いてしまうほどに、山田の姿勢は一貫していた。

 

その中でも、山田は特に主役格の二人――みぞれとのぞみ――にだけ徹底してフォーカスを合わせ続けた。もちろん、当初この企画が発表された時から「みぞれと希美の物語」と銘打っていたのだから、これも既知といえば既知である。ここで言いたいのは、みぞれと希美にかかわらないことは徹底して排斥したその「物語」への姿勢の方である。

 

原作の重要なエピソードやサブキャラクターの掘り下げにかかわる逸話をバッサリと切り捨てた『聲の形』には賛否両論あった。それでも、山田は今回も、――わずかな時間で登場人物の人となりを見せる技術は格段に向上したとはいえ――ひたすらにみぞれと希美のためだけにカメラを回した。

 

そこまで徹底してみぞれと希美の物語に注力することで、山田は何を伝えたかった・・・・・・のだろうか。描かれたもの、描かれなかったものをいくばくか詳しくみることで、この「映画」の主題にもう少し探りを入れてみたい。

 


 

およそ、少女を題材に取ったアニメはこの世に数多存在する。その意味でいえば、『リズと青い鳥』は決して奇異な作品ではない。

 

だが、鑑賞した人の大半は、この作品がその他の「少女」を描いているはずのアニメからいかにかけ離れた場所にいるか、気が付くことができるだろう。この差異は、いったいどこから来るのだろうか。

 

多くの鑑賞者が違和感を覚えるのは、おそらくプールに関する一場面だろう。みぞれを慕う後輩である梨々花を誘ってプールへ行こう、という話が展開される。が、ここで我々は拍子抜けするのだ。みぞれと希美、そして多くの吹奏楽部員を引き連れて盛大に催されたはずのプール遠征は、なんとその活況ぶりを伝える写真一枚だけを残して過ぎ去ってしまう。

 

これはなかなかに大胆な試みだった。普通、プールにまつわる場面といえば、少女の水着姿を最も自然な流れで見せることのできる瞬間である。山田は、そのいわゆる「美少女アニメ」にとって最も重要なシーンをバッサリと切り捨ててしまったのだ。

 

あるいは、こう主張する人がいるかもしれない。『リズと青い鳥』というみぞれと希美の物語にとって、そんな邪な描写は不要だ、作品の品位を損なわせてしまうではないか、と。一見こだわりすぎなオタクの騒ぎ声のように思えるこの意見は、実は事の本質に迫っている。つまり、『リズと青い鳥』という作品にとって、水着ではしゃぎ回る女の子たちを映す必要性は何ひとつなかった、ということなのだ。

 

言い換えれば、『リズと青い鳥』は、いわゆる「美少女アニメ」ではない。「美少女アニメ」とは、単に美少女が主人公を務める、あるいは美少女がたくさん登場するアニメのことではない、という事実を照射しながら、『リズと青い鳥』は遥か遠くへと飛び立ったのである。

 

このように、『リズと青い鳥』は、何かを映すのではなく、何かを映さないことによって、他の作品から区別されることに成功した。そして、この映す―映さないの綱引きは、単に他のアニメからの差別化を図るために投入されたギミックではなく、山田が伝えたいことを表現するための手段としてこの映画の中に盛り込まれたのである。むしろ、やや複雑になるが、そもそも山田がいわゆる「美少女アニメ」を作ろうとはしていなかったがために、そのような差別化が可能になった、と表現すべきであろう。

 

映さないことが私たちに与えてくれる示唆はもう少し深い。結局、山田は「美少女アニメ」の皮を捨ててまでして、何を表現したかったのか。

 

山田尚子、ひいては京都アニメーションの作品における映す―映さない、ひいては描く―描かないの議論といえば、窓の外の風景に関するものが思い浮かぶ。京都アニメーションの作品について語る時には(TVシリーズ・劇場版問わず)必ず話題になる事柄である。ここではその議論に深入りしないし、無作法ながら出典も列挙しないが、だいたいの意見を集約すれば、窓の外の風景が描かれていないシーン――たとえば光で誤魔化されている時――は、少女たちが、あるいは思春期の子供たちが、外の世界から切り離された場所で生活していることを表している、くらいのものである。

 

リズと青い鳥』ではどうだっただろう。この作品においても、光で演出を強化するために窓の外の風景が描かれないことはあった。が、実際には、窓はそれ以上の役割を担わされたために、風景を描かざるを得なかった、と言えるだろう。というのも、みぞれの棲まう生物室と希美らがいる空間の断絶を意識させる瞬間が多かったからである。フルートによってできた光の反射を追う印象的なシーンを例に挙げれば十分だろう。あるいは、ややアナクロニズム的な指摘になるが、希美が生物室を訪れる前、青い鳥に言及する場面で、窓に対し背を向けていたのも示唆的だ。

 

では、これまで長い間議論されてきた、アニメの中における少年少女と社会との繋がり、という側面は、窓から切り離されてしまったのだろうか。

 

そうではない――否、山田は窓だけに頼らなかった結果、窓の役割が相対的に低下した、と表現する方が正しいだろう。

 

山田にとって、少年少女がどう世界に向き合うか、もっと平たく言えば、少年少女がどう成長するか、は、我々が思っている以上に大きな問題なのかもしれない。であるが故に、山田はもう少し丁寧に、外の世界という概念を扱っている。

 

もう一度プールの議論を思い出してもらいたい。山田は、頑なにプールのシーンを描かなかった。それこそ、時間の推移を示す、という点において、映像論法の基本を破るようなコンテを作ってまでして(プールに関するシーンの前後は、時間がどう流れたのか極端に読み取りにくくなっている)。

 

山田はそこまでして、みぞれと希美を学校の中に閉じ込めたかったのである。冒頭、希美が校門をくぐってから、学校の外の風景は滅多に描かれなくなる。それも、シナリオ的必然によってではない(上のプールの議論を想起せよ)。スピンオフ元の『響け! ユーフォニアム』シリーズでは重要な役割を担った山の上の展望台ですら、『リズと青い鳥』においては決定的に重要なトポスではない。山田は、意図的にみぞれと希美を閉じ込めている。あたかも、青い鳥を鳥籠の中へと閉じ込めるように。

 

学校そのものだけではない。学校の内部においても、鳥籠はいたるところに散りばめられていた。その典型が音楽室と生物室である。そして、自明のように、お互いにとってリズであり青い鳥であった希美とみぞれの間には、大きな断絶があったのである。二人の悲しきすれ違い、その断絶の隙間を青い鳥の影は飛んでいき、対してフルートが生んだ鳥の幻影はその距離を縫うことで狭間を一層際立たせるのだ。

 

あるいは、フグを囲う水槽ですら、鳥籠の隠喩なのかもしれない。フグは、リズが餌付けしていた動物たちとも、鳥籠に囲われた鳥とも、はたまた外へ決して出ることのない少女とも読み取れる、なんとも贅沢な存在だ。そして、そのいずれであっても、閉塞感を感じさせるものであることに注意したい。

 

何重にも仕掛けられた鳥籠の隠喩は、そのまま少女たちの悩みの分厚さを物語っている。肝心なことは、みぞれも希美も、その根の深い葛藤を乗り越えて、一番外側の囲いすらも捨て去っていく、という事実である。山田は、冒頭と対比させるようにラストシーンを作った。コントラストさせることによって浮き彫りになった二つのシークエンスの決定的な違いは、二人のいる場所である。山田は、敢えて学校から出たという事実を殊更に強調することで、私たちに彼女たちの「成長」を伝えようとしている。たとえ二人が結局元の鞘に収まったとしても――先を行く希美が揺らすポニーテールをみぞれが追いかけるような関係だが――、そこには明確な違いが存在する。ずっと側にいたにもかかわらずすれ違っていた二人は、「joint」と「disjoint」を同時に行うことで、共に鳥籠から抜け出したのである。すなわち、二人は共に支え合いながら別々になる未来を選んだのだ。山田は、「映さない」ことで鳥籠の隠喩をより巧みに運用し、少女が巣を飛び立つ=「成長」する過程を克明に記録した・・・・のである。

 

※追記この文章を書き上げた後に、こんなインタビュー記事が紹介された。

「リズと青い鳥」山田尚子監督「少女たちが踊っているような印象の作品に」 - エキレビ!(1/6)

インタビュー中、山田はみぞれと希美について「互いに素」な関係だと言及した上で、「disjoint」の語を盛り込んだ理由はその「互いに素」の訳語として最もピンときたから、と言及している。この「disjoint」にまつわる議論に限らず、山田は記事中しきりに「すれ違い」を強調している。一方で、「disjoint」の語に惹かれた理由として、やはり「joint」という語への繋がりを挙げているように、二人が「添い遂げる」ことへの期待、いや、希望をも盛り込んだことも否定できない。とにかく、山田の中では、みぞれと希美はずっと共にい続けていたかかわらず、常に二人の間に横たわっていたすれ違いが露呈することを通じて、新たに(いや、改めて)「joint」への道がひらけた、という図式があったようにもうかがえる。どちらにせよ、少女が将来のことを案ずる中で、これまで隠れていたものが露わになる、その過程を経て少女が新たな関係を、新たな自分を描こうとする、そのプロセスを「成長」とするならば、この感想の論旨にはさほど影響しないので、追記の形にとどめておく。

 


 

最後に、山田が「敢えて映さなかったもの」ではなく、逆に「敢えて映したもの」について、簡単に触れておこうと思う。山田が何かを映さなかったことで生まれた隙間を埋めたのは、フラスコであってシャーレだった。もう少し詳しく言えば、生物室での重要なシークエンスにおいて過剰なまでに映された「余分なもの」である。

 

このことについて、ある人はこう言うだろう。山田はかつて、校内にある椅子や机の視点で、彼女たちを見つめているような映画です」と語ったのだから、そうした無機物の存在を鑑賞者に知らせてもなんの不思議もない、フラスコやシャーレは彼女たちを取り囲む私たちそのものなのだ、と。これも、まさしくそのとおりだとしか言えないのだが、その実この回答は不十分である。なぜフラスコではなく机や椅子ではダメだったのか、という疑問に答えられていない。付随して、なぜフラスコやシャーレを単体で映し、映り込みという手段を取らなかったのか、という問いにも、この回答は沈黙を貫いている。さらに言えば、この回答は、カメラ=第三者の存在が前提である映像芸術において、なぜ傍観者の立ち位置を強調するような発言を山田は残したのか、という新たな疑問を呼んでしまう。

 

この三点に関しては、私も未だに定まった答えを見つけられていない。強いて言うのであれば、山田は少年少女というものを描く時に、光を好んで素材に使うきらいがある、ということを指摘しておきたい。分かりやすい例を挙げれば、『聲の形』の中の、小学生だった頃の将也と硝子の取っ組み合いを考えて欲しい。外から差し込む暖色の光に照らされながら、二人は喧嘩するのである。

 

フラスコもシャーレも、そのガラスという素材のおかげで、光の存在を強調する。一方で、真に重要なのは、フラスコもシャーレも、決して光源になることはできない、という事実の方だ。少年少女を取り囲む無機物は、それ自体が光を放つことができない。ただ、近くにある眩しいものを拡散させるのみである。仮に、フラスコやシャーレが我々だと言うのであれば、私たちは一体なんの光を跳ね返しているのだろうか。

 

言うまでもなく、少年少女の放つ「光」である。私たちは、眩い光を放ちながら育っていく子どもたちの姿をただ反射するのだ。直接的には窓の外からの光である何かは、比喩的には子どもの放つ何かである。フラスコやシャーレは、私たちの代弁者としてその光を反射するのだ――『聲の形』にせよ、『リズと青い鳥』にせよ。

 

思えば、傍観者という立ち位置は、別に『リズと青い鳥』から意識されたものではあるまい。前述の『聲の形』のワンシーンにしても、主役たる二人に近づく前に、一旦カメラは遠くから取っ組み合いを捉える。カメラの高度をギリギリまで下げ、ただ光に彩られた二人の「成長」の瞬間を記録し続けるその役割は、傍観者でなければなんなのだろう。

 

こうした視点は、山田がずっと「映画」というものを意識してきた結果として育まれたものなのかもしれない。あるいは、京都アニメーションが近年カメラの存在に自覚的であることも影響しているだろうか。どちらにせよ、確かにフラスコもシャーレも傍観者なのだろうが、そしてその事実を同じく無機物として映された鳥の剥製が分かりやすく示してくれていたとしても、私たちは未だ答えには辿り着いていない。

 


 

思春期の少女が、あるいは少年が、どんな生活を送っていると感じている・・・・・か、はなかなか想像がつかない。私たちは、確かに一度、同じように思春期を過ごしたはずだ。しかし、それを上手に思い出すことができない。

 

それくらい、思春期というものは、あるいは青春というものは、終わってみればあっという間に過ぎ去っていったという感慨を残しがちだ。他方、当の思春期の少年少女は、矢の如く流れ去っていく時間に対し無自覚だ――ちょうど、傍観者である私たちが、みぞれはプールに行ったのか行っていないのか一瞬混乱してしまうあのシーンと同じくらいには、明示的な時間の流れに頓着しない。

 

「成長」してしまった我々は、いかに思春期の一瞬一瞬が貴重であるかを、当の本人たちに伝える術を持たない。いかにその事実を強調しても、思春期真っただ中にいる男女には分からないのだ。伝わらないのであれば、言っていないのと大差ない。その意味で、大人は口を出す権利云々の前に、口を持っていないのである。

 

もの言わぬ傍観者としての無機物、あるいは「成長」を終えた「死者」としての剥製に私たちが重ねられているというのは、なんとも意味有りげだ。私たちは、子どもたちを護り囲うための籠として作った学校の一角で、子どもたちを育てるために自ら用意したものどもに自分たちを重ねながら、まさに巣立たんとする二羽の青い鳥をただ見守るのだ。口を閉ざす大人に見送られながら、みぞれと希美は訣別し、同時に互いを受け入れ合っていく。そうこの映画を捉えると、また違った切なさがこみ上げてきて、私はもう一度胸に傷を負うのである。

 

 

 

引用:

共同通信(2018)「机や椅子の視点で」『リズと―』の山田監督. 共同通信社,2018年4月17日付. URLは上記リンク参照のこと. 最終閲覧2018年4月25日.

丸本大輔(2018)「リズと青い鳥山田尚子監督「少女たちが踊っているような印象の作品に」. エキサイトレビュー,2018年4月25日付. URLは上記リンク参照のこと. 最終閲覧2018年4月26日.