Mashiro Chronicle

長文をまとめる練習中 割となんでも書く雑食派

「青春」の眩しさ

「青春」を目撃した後に訪れる、眩しい、という感覚。

 

あれは、一体なんなのだろう。

 

現実の話に限ったことではない。小説であれ、映像作品であれ、「青春」にまつわる何かを目にすると、私たちはつい目を背けたくなってしまう。そしてその後、形容しがたい痛みが胸を襲う。

 

そして、その眩しさに視界をやられる経験を何度も繰り返しながらも、私たちは「青春」を消費し続ける。まずいもの食べたさどころの話ではない。リコリス菓子に憑りつかれた日本人よりも、まだ訳の分からない存在だ。そんな理解できない人たちが、そこら中に転がっている――私含めて。

 

眩しい、ということは、「青春」には光が溢れていることになる。

 

光には、必ず色がある。その波長によって、私たち人間は色を知覚する。見えない光=色である紫外線、赤外線を含めて、光は色と共にある。

 

だが、不思議なことに、「青春」は眩しい、と言っておきながら、「青春」が何色であるか、ということを私に話してくれた人は、未だ誰もいない。

 

これを聞いたあなたは、こう答えるかもしれない。青春というくらいなのだから、青いに決まっている、と。

 

だが、この論理の内部にはいろいろと問題が詰まっている。そもそも、青春という語は中国の古い思想に端を発する言葉だ。つまり、語源的に思想を孕んだ単語なのである。青春と書いてあるのだから青い、という発想は、その源流にある何かを見落としている。現在の我々が使う「青春」という語はそうした古い概念から拡張されたものである。その陥穽に嵌っていては、いつまで経っても前に進めない。

 

あるいは、やはり青にこだわって、こう主張する人もいるだろう。若々しさを青で代表させることがあるではないか、と。まったくそのとおりなのだが、これも落とし穴を避けられていない。青が若さを示す代表的な例は青葉だが、これは若々しい葉が青=緑色だったことから逆にその意味を獲得していったに過ぎない。そもそも、青が若さの象徴となるのは、ある特定の文化的文脈の中でのみである。

 

私たちが今考えている「青春」は、そうした考えから少し離れた場所にある。

 

だんだんと思考が行き詰まりに苦しみ始めた気がする。ここで、具体的な例を出しながら、もう少し考えてみたい。

 

「青春」を描いたポップカルチャーの快作を、私は二つ知っている。ヴィジュアルノベルの『蒼の彼方のフォーリズム』と、アニメ映画の『たまこラブストーリー』だ。

 

両方の作品とも、そのクライマックス、最後の最後で、私たちは眩しさに直面する。

 

蒼の彼方のフォーリズム』で眩しさを意識するのは、ヒロインの個別ルートの中ではない。もちろん、そこで描かれる純度の高い「青春」は、私たちに何かを伝えようとしている。だが、そこまで地道に描かれ続けてきた「青春」が何かをもたらすのは、本当に最後の最後だ。

 

ヴィジュアルノベルにおけるグランドエンディングは、その作品の総括にあたる非常に重要なシーンだ。グランドエンディングが特定のヒロインのルートであることもあれば、そうでないこともある。ネタバレは避けるが、『蒼の彼方のフォーリズム』で私たちが最後に目にするものは、攻略可能なヒロインではない。

 

そのグランドエンディングルートが終わった後に流れるエンドクレジットも、基本的にはグランドエンディングそのものと同じだ。大抵はその作品における代表的なCGを集めて再構成したものが映像として映りながら、専用の楽曲が流れる。その意味は、作品の総括である。

 

蒼の彼方のフォーリズム』の、そのエンドロールの最後に出てくるCGはなんだったか。

 

楽曲の終わりが近づくにつれ、攻略可能なヒロインと紡いだ思い出がずらりと並ぶようになる。そして、タイトルロゴと製作元の表示が入り、これで大団円か、と私たちは思考が先走る。

 

だが、最後に置かれたCGは、真のクライマックスは、その向こう側にある。

 

最後に表示されるのは、写真風味に加工された、一枚のCG絵。そこに映っているのは、なんということのない、主要キャラが部室に集まってミーティングしている一瞬だ。

 

この画像は、プレイした者なら幾度となく目にする、本当になんでもないCGだ。特定のヒロインとの告白シーンでもなければ、各ルートの最終CGでもない。それがイベントCGであるかどうかすら失念してしまうような、とりとめのない絵。

 

だが、その絵がエンディングの最後に置かれた瞬間、私たちはそのCGが持つ意味というものを本能的に理解してしまう。そして、眩しさが心を襲い、私たちは放心してしまうのだ。

 

CGが写真の形で私たちの前に現れること。私たちに、そのCGは何を伝えようとしているのか。

 

結論を急ぐ前に、もう一本の作品について考えてみよう。

 

アニメ映画の『たまこラブストーリー』は、京都アニメーション山田尚子を監督に据えて作った傑作だ。人によっては、未だにこの作品を京都アニメーションの最高峰に位置づけるだろう。

 

この作品の妙味は、計算され尽くされた隠喩であり、こだわり抜かれたカメラワークである。これもやはり、純度の高い「青春」を描くために、徹底して細かい描写を積み重ねる。その果実は、最後に実るのだ。

 

ヒロインであるたまこが、想い人であるもち蔵の背中を追いかけ、駅の特急ホームまでやって来る。もち蔵は驚きのあまり、電車を乗り過ごしてしまう。そんな中で、たまこはもち蔵との思い出の品である糸電話を使って、彼女の胸中を吐露する。

 

その瞬間、描かれていたものはなんだったか。

 

答えは、無、である。

 

素晴らしい制作陣は、この瞬間のために完璧な演出プランを用意していた。たまこが告白するその瞬間、画面に映っているものは、黒。何も描かれていない、暗転した無が、スクリーンを支配する。

 

その無ほど雄弁な何かはなかっただろう。

 

もち蔵が驚きのあまり顔を上げる。その瞬間にもフラッシュ的に黒い画面が挿入される。この暗転の中で、私たちは、何かを目撃する。

 

走馬灯のように、これまでたまこともち蔵が積み重ねてきた日常が脳裡を駆け巡る。ちょうど、過ぎ去ってしまった特急列車の車窓から見える風景のように、一瞬のうちにそれらが溢れて、そして流れ去っていく。

 

その後、私たちはもち蔵のように何かに驚き、眩しさから目をそらす。

 

私たちの頭の中でフラッシュバックしたもの。それは、一体なんだったのだろうか。

 

フラッシュバックした何かが暗転の中で眩しさを放ったのは、なぜだったのだろう。

 

要するに、「青春」とは光なのである。結局、そこに答えが行き着く。

 

大切なのは、その光が、ちょうどカメラのレンズを通って、私たちの中にある何かを映し出す、その事実の方だ。

 

「青春」が放つ光は、私たちの無意識へと降り注ぎ、影として記憶を呼び起こす。ちょうどフィルムに焼き付けるように、「青春」は私たちの記憶をきっちりと現像していく。

 

私たちが、「青春」の眩しさから目を背けるのは、自分の「青春」が現像されるその行為を厭うからだ。『蒼の彼方のフォーリズム』の最後のCGのように、固着した写真として思い返されるのも、『たまこラブストーリー』のように、モンタージュされた映像として呼び起こされるのも、私たちは忌避する。

 

嫌う理由は単純だ。「青春」という存在が記憶を掘り起こすことで、時間が二度と戻らないという事実と、私たちは向き合わねばならなくなるからだ。

 

その感覚は、古いアルバムを開いて感じるノスタルジーとは異なる。郷愁とは、昔を懐かしむことだ。過ぎ去った時間に想いを馳せることと、過ぎ去った時間の不可逆性に動揺することは、根本的に異なる。

 

蒼の彼方のフォーリズム』のエンドクレジット前、グランドエンディングの題材となっているのは、「戻らない時間」と、それを自覚してもなお前を向き続ける「覚悟」だ。少年が大人になるには、いくつかの「覚悟」が必要になる。グランドエンディングで「覚悟」を描く、というのは、主人公の「青春」が一区切りを迎えたことを示唆する。それはそのまま、私たちの物語であるところの、記憶にある「青春」が終わったという事実を投射する。

 

だからこそ、私たちはエンドロールの最後に置かれるCGの意味が直感的に理解できるのだ。そして、理解したくない、理解しては苦しんでしまう、と感じて、私たちは結局胸を痛める。

 

たまこラブストーリー』にしても、暗転の中でフラッシュバックするのは、もち蔵とたまこの「青春」の日々だ。だが、それはそのまま、私たちの過ぎ去った過去を想起させる。ちょうど、私たちはもち蔵が乗り過ごした特急列車に乗り込み、もち蔵とたまこの物語を回想しているかのような錯覚に襲われる。その時、私たちは終わりという概念と直面する。

 

「青春」が何色か答えられないのは、「青春」の放つ光が眩しすぎるからではない。むしろ、私たちはそこで何が描かれたか重々理解している。色が答えられないのは、「青春」があまりにも鮮明に過去の記憶を呼び起こすせいで、写真や映像がフルカラー着彩されてしまったように感じるからだ。時に青く、時に無彩色で、そして時に逆光で白飛びする。そんな「青春」の日々がまるまるよみがえるからこそ、私たちは色が答えられないのだ。

 

もう戻らない時間を意識することは苦しい。だが、私たちはこの終わりが消滅した現代社会で、本能的に終わりを求めている。ちょうど、『蒼の彼方のフォーリズム』の主人公のように、終わりを迎えた後の前向きな姿勢を取り戻したがっている。そんな時、私たちはいつだって、「青春」を思い出そうとする。終わりに待ち迎える苦しみと対峙し、もう一度スタートを切るために。

 

「青春」の光は、直視できないものではない。眩しさの向こう側にある何かに心がずきりとする、その刺激を、私たちは「青春」に帰しているだけだ。「青春」の光が、あまりにも私たちの心を透かすから。痛いのは、「青春」の光ではない。