Mashiro Chronicle

長文をまとめる練習中 割となんでも書く雑食派

「カッコつける」生き様:『金色ラブリッチェ』感想(ネタバレあり)

この記事はネタバレを含む。『金色ラブリッチェ』をやる予定がある人は一つ前に投稿したネタバレなしの感想を参考にして欲しい。もうクリアした人、あるいはプレイの予定はないが私が何を考えたのか気になる人は下へどうぞ。

 

ーーーーーーーーーー

 

『金色ラブリッチェ』を完走した今、胸にいくつもの思いが湧き上がってきている。その一つ一つをしっかりと言葉にしていくことはとても重要なのだろうが、それを一度にこなすのは難しい。いや、惜しくすらある。一度にこの積み重なった思いをまとめてしまってはもったいない。そう思ってしまう自分もあって、心は結局ぐしゃぐしゃなままだ。

 

難しいことは抜きにして、今は理亜ルート、あるいはシルヴィアルートの真エンドについて話そう。今、私が一番したいのは、そのことなのだから。

 

ーーーーー

 

この『金色ラブリッチェ』という作品を通じてキーワードとなる言葉がある。もちろん、「ゴールデンタイム」と「カッコいい」の2つだ。

 

この2つの言葉は互いに絡み合って、央路の物語を、ひいては各ヒロインの物語を形作っていく。だが、厳密にはこの2つは異なる使われ方をしているし、区別されるべきだ。

 

品詞の違い――「ゴールデンタイム」は名詞で「カッコいい」は形容詞――という重箱の隅を突っついたような話をしたいわけではない。いや、最終的にはその違いが重要になるのだが。

 

この2つの言葉の間には、もっとしっかりとした違いがある。そして、その違いを語る時、私たちは『金色ラブリッチェ』が果たして何を描こうとしたのか、その核心に迫るのだ。

 

「ゴールデンタイム」という言葉は印象的だ。体験版の最後に登場する単語であり、理亜ルートの別名であり…… 言うまでもなく、この物語の根幹を成す概念だ。

 

最高の瞬間は輝いている――使い古されてきた、一見陳腐な発言だ。しかし、何度この言葉が語られてきても、私たちはつい納得してしまう。それは、私たち自身も実際にはそう思っているところが大きいだろう。私たちは、その瞬間を謳歌する人を目にすれば、眩しさのようなものを感じてしまう。あるいは、自らが絶頂にいると確信した時、周囲のすべてが輝いて見える。その経験が、私たちの中でゴールデンタイムという言葉を特別なものにしている。

 

しかし、ゴールデンタイムとは「結果」だ。しかも、因果の糸で縛られた結果ではない。極めて個人的な受容の問題である。傍観者であれ行為者であれ、ある人物が今ゴールデンタイムにある、と思った瞬間、ゴールデンタイムは結果としてそこに存在していたことになる。

 

納得の問題と捉えてもいいかもしれない。ゴールデンタイムとは確固たる手ざわりを持った存在ではなく、むしろふわふわしたものだ。ある人物がゴールデンタイムの存在を認める、そこがスタート地点であり、同時にゴールなのだ。

 

したがって、ゴールデンタイムを希求する人は、自らを納得させる必要がある。

 

だから、ゴールデンタイムを追い求める闘いは、いつだって孤独だ。

 

周囲がどう思っているかすら呑み込む巨大な影に対しもがき続けることになるのだ。

 

そんなもがきの指針こそ、「カッコいい」ではなかったか。

 

 「カッコいい」こと=ゴールデンタイムにいること、ではない。この2つの言葉は同値ではないし、「カッコいい」がゴールデンタイムの条件であるわけでもない。

 

たとえば、理亜が最後に屋上で語ったように、いつでもどの瞬間でもゴールデンタイムだった、と感じたとしよう。これは、いつでも自分は「カッコいい」存在だった、と言っているわけではない。やはりこれは、納得しているかどうかだ。理亜が自身の人生を振り返って納得したからこそ、彼女はそう感じることができた。

 

要するに、「カッコいい」とはゴールデンタイムに辿り着くまでの指標の一つなのだ。自分自身に対して、あるいは他者に対して、「カッコいい」と思うことができれば、納得へ大きく前進している。

 

ゴールデンタイムという、掴むまでは雲のような、遡及的に存在が追認されるものを勝ち取ることは難しい。だから、その人が「カッコいい」か否か、という様態が分かりやすい指標として私たちに与えられるのである。

 

しかし、「カッコいい」もまた客観的な基準の存在しない感覚だ。確かに「カッコいい」と思える時間があればゴールデンタイムには近づいている。だが、結局「カッコいい」かどうかを判断するのは自分だ。ゴールデンタイムより現況判断である分、また感情把握である分、理解しやすくはなっているが、納得というハードルが極端に下がったわけではない。

 

だから、私たちはまだ苦しむ。どうすれば「カッコいい」と思えるのか。果てのない自問自答を繰り広げる。

 

そして、もがき苦しんだその後ようやく、もう一つの言葉が立ち上がってくる。「カッコつける」だ。

 

 「カッコよくありたい」だとか、「カッコいい存在である」というような発言は、すべてこの「カッコつける」という言葉に戻ってくる。

 

自分が「カッコいい」存在であるかどうかは、あるいは、今後「カッコいい」存在になれるかどうかは未知だ。後になって自己評価するまで、私たちは行為の結末を知ることができない――ちょうど、央路が高校2年の夏に経験したように。たとえ「カッコつけ」たとして、それが「カッコいい」自分に繋がっているかは分からない。むしろ、失敗することの方が多いだろう。

 

しかし、どのヒロインも、央路の後ろめたい過去を否定しない。彼が「カッコつけ」ようとした事実を肯定的に捉えるし、最悪の結果すら「カッコいい」という言葉でまとめようとする。

 

これは、ヒロインが主人公に対し並々ならぬ好感を持っているからだろうか。否、これはある意味好感を抱くきっかけであり、好感を持っているからそう判断したのではない。彼女たちは、「カッコつけ」ようと奮闘するその姿を「カッコいい」と納得したのである。

 

そう、この『金色ラブリッチェ』は、「カッコいい」と「カッコつける」の間にある絶妙な差に対し非常に敏感だった。

 

「カッコいい」は主観的な評価であり、事物に対する感想でもある。心の内に湧き上がってくる思いと言ってよいだろう。

 

対して、「カッコつける」とは、生き様である。自らをよく見せよう、ひいては自分自身後悔しない人生を送ろう、という欲求を実現させるための行動だ。

 

ヒロインたちも主人公も、「カッコつける」ことを否定しない。自らが「カッコいい」かどうかについては、特に主人公たる央路が深く悩む。しかし、その央路も最終的には「カッコつける」ことを前向きに捉えていく。そして、「カッコつける」ための努力を積むようになる。

 

ヒロインも傍観者たる私たちプレイヤーも、そうした主人公の成長や努力する姿に対して「カッコいい」と思うではないか。

 

『金色ラブリッチェ』は、主人公やヒロインが「カッコいい」か否かを描いているわけではない。「カッコいい」かどうかは、私たちが勝手に思うことだ。この作品がゴールデンタイムという言葉を使って描き出したのは、央路をはじめとするキャラクターたちが「カッコつけ」ようと奮闘する生き様の方なのである。

 

ーーーーー

 

あるキャラの生き様を描く、というのは並大抵のことではない。

 

その人の生き様を描くとは、その人の人生を描くということだ。人の生を描くことなど、そう簡単にできるわけがない。

 

『金色ラブリッチェ』は、主人公の心境の変化を通じて「カッコつける」という生き様を表現しようとした。あるいは、若い男女の恋愛をとおして、と言ってもいいかもしれない。

 

が、やはりというべきか、なかなかそれだけでは生は立ち上がってこない。主人公やヒロインの複雑な過去を取り込んでみても、お話的には面白くなっていくが、生きることは明確な線になってこないのである。

 

この難題にどう立ち向かうか。素晴らしいスタッフは、答えをきちんと理亜ルートの中に仕込んでいた。

 

むしろ、理亜ルートはそう仕上げられたからこそよいルートになったのである。

 

理亜ルート、いや、理亜の物語の中に仕込まれた、生き様を描くギミックとはなんだったか。

 

それは、死、である。

 

理亜ルート前半、理亜が央路の部屋でフランス映画を見た際に、彼女は映画が死を描くことに嫌悪感を表明する。お涙ちょうだいの死なんて見たくない、と。

 

この発言は、シナリオを見届けた私たちからすれば、『金色ラブリッチェ』そのものに対するアンチテーゼのようにも思われる。私たちは薄々、理亜が早逝するだろうという予感に気付きながら、諸々のイベントを通過していく。そして、その最後には、目に涙すら浮かべる。一見、理亜の死は物語内部に仕込まれた感動の装置のようにも見える。

 

だが、実は先の理亜の発言は、アンチテーゼではない。むしろ、ライター側が私たちにくれたヒントである。

 

私たちはよく、生と死をセットにして扱う。あたかも、生と死は互いの鏡像であるかのように考えて。

 

しかし、よく考えてみれば、生と死はなんら対称性を帯びていない。生とはある瞬間の前後において命があることだが、死とは一回きりの現象だ。これがたとえば、出生と死であれば対称性がある。命がない状態からある状態に変わるのが出生で、ある状態からない状態への推移が死だ。だが、私たちは生前と死後を対にして使うように、出生前の存在について普段は考えを膨らませないし、出生のことを生という語で指さないことが多い。ここで死後の対になっているのは、生まれるという死と真逆の現象ではなく、生きているという持続的な状態の方だ。

 

生と死は、対称性を持ち合わせてはいない。「死んでいる」人と「生きている」人であればどちらも人の状態だから、それは十分に対比として成立している。だが、そのことに自覚的でないと、ドツボに嵌ってしまう可能性がある。大半のお涙ちょうだい物語が生を描ききれないのは、単純に生と死を対称的に捉えてしまっているからなのである。

 

だが、生と死が対称でないと気づくことができたのであれば、描き方に工夫が出てくる。生と死の関係が変化し、描く側が生と死の間にある複雑な絡まりを様々に表現できるようになっていく。

 

理亜ルートは、その点できっちりと生を描くことに成功した。逆説的だが、死とは生き様の一部なのだ。その主張があったからこそ、私たちは理亜の生、そしてそれを隣で見届けた央路や綺華の生を受け止めることができたのである。

 

理亜はなぜ、当初央路との関係について一線を踏み出す選択を取らなかったのか。理亜はなぜ、たかがクリスマスコンサートのために精いっぱい「カッコつけ」ようとしたのか。理亜はなぜ、あの屋上で自らの人生に納得することができたのか。そして、理亜はなぜ、あのタイミングで煙となって天に昇らなければならなかったのか。

 

死を生の中に取り込むことによって、理亜の行動や感情の起伏ひとつひとつに対し、私たちは納得を覚える。だからこそ、理亜の生き様は「カッコいい」と思うのだし、理亜の過ごした時間は間違いなくゴールデンタイムなのだと確信できる。

 

生き様を描く、生を描く、といえば、オタク界隈にはよく知られた表現がある。それになぞらえることで、私からこの作品への賛辞の代わりとしよう。

 

「金恋は人生」である。

 

理亜がどう生きて、どう死んだのか。それらを綿密に描いたこの作品にこそ、この言葉はぴったりなのだと思う。

 

ーーーーー

 

きっと、ライターは最初から生と死について自覚的だったに違いない。でなければ、あんな終わり方にはしなかっただろうから。

 

それは、理亜が(少なくともシナリオ上では)死ぬ宿命にあった、という結末に関して言っているのではない。

 

シルヴィアルートの真の終わりについて、である。

 

シルヴィは、理亜との約束を(おそらく)守り、央路との間にもうけた娘にマリアと名付けた。この理亜との約束は、理亜からの願いと言ってもよい。理亜は、央路とシルヴィの間にできた子に、自分の別名義、もう一人の自分の名であるマリアという名前を託した。

 

理亜はなぜ、そんな奇妙なことをシルヴィに頼み込んだのか。シルヴィはなぜ、一見すると奇妙なことこの上ない理亜の願いを叶えたのか。

 

そう考えた時、私たちの頭の中に、死と本当に対称的なものはなんだったか、ということが頭に浮かんでくる。

 

そして、その事実に気が付いた時、私たちは『金色ラブリッチェ』におけるハッピーエンドとはどのようなものなのか、という真実にも目が行く。

 

湖に沈む太陽を眺めながら、主人公とヒロインたちは語る。この湖は、過去にも未来にも繋がっている、と。そうして実際に、未来の央路とシルヴィが投げ込んだ贈りものは、しっかりと過去の央路、シルヴィ、そして理亜のもとへと届く。こうしたアナクロニズム的な空間のことを、私たちは時に「永遠」と呼ぶ。そう、あの湖は確かに「永遠」のシンボルだった。

 

そして、理亜は「永遠」の象徴である湖のほとりで、央路とシルヴィに出会った。これが湖からの祝福でなくて、いったいなんだというのだ。

 

湖から祝福された3人の行く末がいったいどこであるか、もう説明はいらないだろう。理亜は時の流れを抜け出した先で、死と生誕、その両方と向き合ったのである。その結果が「マリア」である。

 

生き様を通して、ゴールデンタイムという言葉を使って、この作品は生とは何かをきっちりと描いている。生に時間的な区切りがあるからこそ、すなわち、死という現象を内在させているからこそ、生き様が問題になってくるのは事実である。他方で、死を単純に生に対置させるのではなく、生の中に取り込むことによって、死の向こう側すらも生は照射するようになる。そうなると、もはや生死という時間の縛りが消え、時の鎖の向こう側にある「永遠」という言葉が生に絡みついてくる。そのことに気が付くと、なぜ「永遠」が私たちを苦しみではなくハッピーエンドへと導くことができるのか、その理由も浮かび上がってくる。生まれてくることが理亜への、央路への、そしてシルヴィへの救いになり得たのは、ライターが死と生の間の関係に気づき、どうすれば死を時間的な終わり(あるいは、物語の終わり)という固定観念から解き放つことができるのか、思考を巡らせたからに他ならない。

 

『金色ラブリッチェ』のハッピーエンドは、おとぎ話のお姫様と王子様もびっくりするほどの強烈なハッピー度合いである。これ以上のハッピーエンドを、私たちは作ることができるだろうか。輪廻転生だとか、世界線だとか、そんなちゃちな話ではない。生と死というテーマを乗り越えた先に待つ、本当のハッピーエンドがそこにある。

 

シルヴィアルートをプレイして、最後のCGを見る度に私の胸がいっぱいになるのは、そこに理由がある。

 

ハッピーエンド至上主義の現代らしい究極のハッピーエンドを、生死という重たい題材を扱いながら、ある種のヴィジュアルノベルに典型的な悲劇タッチで描き切った。その事実に、私は驚愕したのである。

 

『金色ラブリッチェ』、間違いなく秀作だ。シルヴィアも央路も「マリア」も、末永く幸せに暮らしたに違いない。めでたしめでたし。