Mashiro Chronicle

長文をまとめる練習中 割となんでも書く雑食派

『ポプテピ』をネタ単位で語ることにどの程度意味があるか

今回は短め。お題を斜め上の角度から回収。深夜の勢いで書いたのでまとまっていない、頑張って読み取ってください(まさかの投げやり)。

 

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ポプテピピック』が世間に強烈なデビューを果たして、もう2ヶ月が経った。

 

飽きの到来が早い現代社会ではあるが、『ポプテピ』そのものは未だにtwitterのトレンドを独り占めできるくらいのパワーを残しているようだ。

 

毎回変わる声優が理由かもしれないし、AC部のボブネミミッミが原因かもしれない。とにかく、『ポプテピ』は平成も終わりが近くなったこんなご時世に、私たちへ衝撃を残すことに成功しつつある。

 

『ポプテピ』そのものはある意味でメタ的な作品だ。あの原作からこのアニメの型を思いついた人間は鬼才というよりない――あれほど無茶苦茶なことをやっても大丈夫、という目論見はどの程度あったのか。いや、あれほど無茶苦茶なことをやったからこそ、ギャグアニメとして「クソアニメ」という称号を手にすることができた、その事実を見過ごしてはならない。

 

『ポプテピ』はあらゆる意味で「アニメというもの」に喧嘩を売った――その一方で、「ギャグアニメ」としては道なき道を王道と見立てて突っ走っているようにも見える。

 

たとえば、4コマ漫画原作のアニメ、という視点を導入してみよう。代表例はきららアニメだが、私たちはきららと『ポプテピ』を同列に扱い得るだろうか。心情的には難しい――いくらポプ子とピピ美、女の子二人の世界だからといって、あれをきららの隣に置くのは厳しい。他の4コマ――たとえば、大御所たる『サザエさん』にせよ、ギャグ4コマである『クレしん』にせよ――の横に並べるのも、何か違う気がする。要するに、既存の4コマ原作アニメでは絶対にやらなかったような何かを『ポプテピ』はやってしまった、ということである。

 

それはたとえば、ネタとネタの間の切れ目を気にしない、というような『ポプテピ』の演出計画かもしれない。あらゆる4コマ漫画原作アニメを見ても、あそこまで短時間に大量の、それもほぼ脈絡のないネタを詰め込んだ例はない。一つ一つのネタが極端に短く、しかも前後の繋がりを切り捨てている――下手をすると、話内部の繋がりすら不明瞭だ。クールの後半に入ってくると流石にやや長いネタも挿入されるようになったが、それでも3本立ての時の『サザエさん』と同程度かやや短いくらいだろう。

 

ネタの一つ一つの繋がりが見えないのは、舞台が限定されていないことと関連している。学校だとか幼稚園だとか、「お決まりの場所」が存在しない『ポプテピ』は、まるで浮浪者のように主人公たる二人だけがあらゆる空間を移動する――ネタによってはその二人すら登場しないのだが。大枠として時間も空間も設定されていない『ポプテピ』は、キャラだけを横糸として、かろうじて作品の一貫性を保持している。これがキャラまで変わると『ギャグマンガ日和』になるわけである。このように、『ポプテピ』は原作の特殊性をきっちりと内部に織り込みながら、これまでのアニメとは全く違う何かを指向している。

 

一方で、なかなかどうして、ギャグアニメとしてはそこまで破格を強調しているわけでもない。驚異的なテンポについて考えてみよう。15分の中にあそこまでネタを詰め込むとなると、もうキレ味だけ私たちに見せつけて退場しているようなものだ。ギャグアニメのテンポというものは、時代が下るごとに加速している。その極限が『てーきゅう』であり、その一つ前の代表作が『日常』だ。その意味では、『ポプテピ』は加速する現代ギャグアニメの流れにしっかりと則った作品であることが分かる。

 

もはや、ギャグアニメはテンポそのものがギャグの要素になりつつあるのかもしれない。勢いで笑わせる、というのはどの時代でも通用する笑いの作法だが、いわゆる「お笑い」の世界だとやや評価が低いテクニックになるようだ。一方で、コンテの技量などが問われるようになるアニメでは、独自のテンポを持つことはそれ自体が評価の対象になる。だから、テンポで笑わせる技というのは下等な選択ではない。

 

『ポプテピ』は、話の一貫性を切り捨ててまで、とにかく所狭しとネタを詰め込む方向へとシフトした。あるいは、ネタの内部のテンポもぐちゃぐちゃだ。一見間延びしているようなネタはそもそも時間が短く、一方で嵐のように過ぎ去っていったヘルシェイク矢野は作中屈指の長いネタだった。ネタ間で極端に緩急の差があり、そのスピード感とある程度の相関を持ちながら、ネタを披露する時間が設定されているようにも思われる。

 

シリーズの後半ではメインとなる長い話のまわりに短いネタが群がる構図になった。前半のようなラディカルな構成に比べるとややマイルドになったが、それでも次のようなことは指摘できる。どのネタについても、もう少しゆっくり見せることはできたはずだ――わざわざAC部に数パート丸投げする必要はなかったのである。つまりこれは、最初からそういうテンポを念頭に置いて作られた作品だ、ということだ。

 

ネタ内部とネタ間、双方のテンポを巧妙に操った作品であるとするならば、私たちはどの程度『ポプテピ』の個々のネタを独立のものとしてみなすことができるだろうか、あるいは、そのことにどの程度意味があるだろうか。

 

せめて前述『ギャグマンガ日和』くらい各々のネタに長さがあり、かつ一つ一つのパートが明瞭に独立していれば、まだ議論の余地があったかもしれない。あるいは、『てーきゅう』のようにもう1話5分未満で完結する作品だったなら、各話ごとに比較することに意義を見出せたかもしれない。

 

だが、『ポプテピ』はそうした安易な評価方法を許さない作品だった。私たちの「アニメの見方」までからかいながら、『ポプテピ』は全体として上手にギャグを提供している。私が『ポプテピ』について尋ねられるといつも困惑してしまうのは、そこに理由がある。

 

結局、『ポプテピ』は計画的に全てをおちょくっている。一見パロディネタでパロディ元を笑いの種としているように見えて、その実相手にしていたのは私たちでありアニメだった。その絶妙な緩急のコントロールを武器に、『ポプテピ』は話の一貫性をギリギリまで切り捨てながら、かろうじて「ギャグアニメ」として『ギャグマンガ日和』よりは繋がりを持ったまとまりを作ったのだ。すなわち、『ポプテピ』は『ポプテピ』以外の何物でもない、それ以上にもそれ以下にもなれない存在として、私たちの目の前に現れたのである。

 

その事実に気が付いた時、私は、『ポプテピ』の個々のネタについて、笑えるか笑えないかという二元的な判断を下すことから手を引いた。ネタの一つ一つすら、『ポプテピ』という笑いの総体に組み込まれた装置なのである。