Mashiro Chronicle

長文をまとめる練習中 割となんでも書く雑食派

共有するということ 【『RIDDLE JOKER』プレイ感想<ネタバレあり>】

この感想はネタバレを含む。ネタバレのない範囲での感想を読みたい人はこちらをどうぞ。

 


 

誰かと親密な関係になる時、人はどのようなプロセスを辿るだろうか。あるいは、誰かと親密な関係になりたい時、人はどのような手段を取るだろうか。

 

何も恋愛に限った話ではない。それこそビジネスパートナーでもいい。自分から見て距離のある相手に対しどうアプローチをかけるのか、という命題は、かなりの人にとって重要な問題であるように思われる。他方、人間は知らぬ間に接近していることもある。お互いに何があったのか自覚のないままグイグイと引き寄せ合ってしまう謎の現象が、たまにが発生する。狙った相手もこうなってくれればよいのに、といったような想いは、誰しもが一度は抱く感情だろう。

 

――私と友達になりませんか。

 

――そうですね。私もそう思っていました。

 

などというぎこちない会話で友達を作るのは流石に気が引ける。もちろん、

 

――それじゃ、今日から仕事仲間だそうだから、よろしく。

 

――ええ、こちらこそ。

 

くらいのドライな関係であればまだあり得るのかもしれないが。

 

こんな会話で関係をスタートさせたところで付き合いが深化していくとは到底思えない。本当にはじめの一歩もいいところだ。どうにかして、相手との関係を繋ぎとめたい、そう考えた時に、人間は何をするのだろうか。

 

貸し借りの鎖に引きずり込む、というのは一つの手段だ。「付き合わなければならない」という義務感を生じさせる一番手っ取り早い方法だろう。貸し借りという表現が嫌ならば、互酬の渦に巻き込む、という方法もある、事実、多くの集団間では互酬をベースとした付き合いが成立している。現代日本でも、相手から贈られたプレゼントのお返しを用意したら、また相手からそのお返しを……という事態は発生し得る。

 

見方を変えれば、これはギブアンドテイクの関係とも言えなくはない(厳密には異なるが)。互恵的関係というのは、誰しもが一度は目指す付き合い方だ。与え、与えられる関係、といえば、多少はロマンティックな響きを伴って、恋愛にも適用できるだろう。

 

しかし、ここでロマンティストは立ち止まるのである。果てなく理想的な何かを目指し続ける人々は、プレゼントによって保たれる関係をよしとしない。プレゼントを贈るということは、相手を完全な客体として見ていることになる。自分へのプレゼントにしても、自らを外部の存在と見ての表現である側面は否定できないだろう。贈り物は、「相手」がいなければ成立しないのだ。

 

そうではなく、誰かを自分の内部へと引きずり込むような、そんな関係になりたい。もやもやとした想いが、脳裡をちらつく。

 

その時に立ち上がってくるワードこそ、共有である。

 


 

誰かと何かを共有する、というのは、ある部分において彼我の境界が(疑似的に)曖昧になる、ということなのかもしれない。むしろ、そういう印象を与えるからこそ、ロマンティストの要請に応え得るのだ。

 

それも、ノートやペンを共有するのではなく、もっと深いところにある何かを共有できれば大満足だ。

 

一番分かりやすいのは、時間の共有だろうか。

 

頻繁に「同じ時間を過ごす」という表現をするが、これは要するに体験の共有であり経験の共有だ。これをシンプルに「時間」と表現している、ということだ。

 

記憶の共有、というよりは、体験の共有と表現した方が適切な気もする。記憶の共有というと、たとえば共同体内部での歴史の継承にも応用できる表現である。記憶は様々なメディアによって共有可能だが、一回性を未だに保持する(すなわち、時間の不可逆性を未だに前面へと押し出す)体験や経験は、そう簡単に伝えられない。経験や体験は、往々にしてその場の雰囲気などを含んでいる。そうしたものは、トレースされることを拒む。

 

共に過ごした時間が長ければ長いほど、あるいは濃密であればあるほど、関係は深化していくように思われる。それがライバルであったとしても、宿命の敵であったとしても。特別な想いを抱くことには変わらないだろう。

 

『RIDDLE JOKER』の作中で最も主人公と過ごした時間が長かったのは七海だ。当然のことで、義理の兄妹なのだから。七海の想いの深さ――それこそ、他ルートにまで滲み出てくるような感情の強さ――とは、そっくりそのまま慕い続けた年月の長さであり、もっといえば主人公と過ごした時間の長さである。

 

七海自身が重たい愛情を抱える一方で、プレイヤー=主人公側としても、七海の愛の重さに納得することができる。それは、ひとえに七海がどんな人生を歩みどんな理由で兄に恋したのかを理解しているからである。私たちは、七海の愛をまるごと受け止めて厭わない。普通であれば引いてしまうほどの重みを、私たちは受け入れることができる。時間の持つ魔力は、ここにある。

 

一方で、誰にも知られたくない秘密を共有することもある。もちろん、七海との間にある「自らの素性」という秘密は彼女との関係を一層深くしているが、なにも七海に限った話ではない。むしろ、『RIDDLE JOKER』では、意図しないうちに共有してしまった秘密、というファクターが重要だった。

 

羽月は分かりやすい方だろうか。彼女との関係が真にズブズブになっていくのは隠密行動がバレた時だ。逆に言えば、羽月とはこれくらいしかない。

 

茉優との間には、何かあるだろうか。もちろん、先輩との関係の間にも、スパイ行動がバレるという「意図せぬ秘密の露呈」があった。しかし、彼女との間柄を考える時、最も重要な事実は何よりも幼少期の記憶の共有だろう。いや、これまでの記述を踏まえると、幼少期に積み重ねた時間の共有、と書いた方がいいかもしれない。七海にも義父にも知り得ぬ、主人公の孤児院時代の姿。その内実を知っているのは、先輩ただ一人だった、実際、先輩が主人公に対しアプローチを仕掛けた最大の理由は、その幼少期の思い出が原因だったではないか。

 

面白いのは、幼少期の出来事は、主人公としては暴露されたくない秘密である、という一点だ。主人公としても、嫌々なのか喜々としているのか判然とし難い状態が続くことになる。思い出したくない過去を通じて繋がった、今の大切な友人。こう書くと、主人公の複雑な胸中が再現できるだろうか。前向きな気持ちと後ろ向きな思いが入り乱れている、というのが内情だ。

 

これは、初期のあやせとの関係と鏡像をなしている。あやせにとって最も知られて欲しくない秘密の一部を、主人公は握ってしまった。あやせは憤慨するが、結局心を開ける存在として主人公を扱うようになってしまう。

 

もっとも、鏡像なのはここまでで、その後は茉優もあやせも似たようなステップを辿ることになった。琴里という存在を鍵として、過去の事件の全容を語り、自らの真実を告げていく。

 

そう思うと、先輩とあやせは同じ幹から出た色彩の違う花なのかもしれない。感情の共有(あるいは共感)というのも二人に共通する事柄だ。元から主人公の出自を知っていた茉優(これはそのまま彼女の出生をも示唆している)と、私生児で片親としか会えなかったあやせ。両者ともに主人公に対しシンパシーを示す。この共感は根の深いものだ――誰しもがそう簡単には手に入れられないものである故。

 

そう考えると、あやせや先輩に引き寄せられるのも、もはや必然のようにも思えてくる。振り返ってみて「あれは必然だった」と思えるのはよいシナリオである証拠だ。『RIDDLE JOKER』はその意味で破綻のない物語だったと言えるだろう。

 

最後に、自分から秘密を吐露する、という事象に触れて終わりとしたい。主人公はなぜ特班の存在を伝えようとするのだろうか。良心の呵責――一番シンプルな答えはこれだろう。千咲ルートの最後のような、秘密を抱えていることに良心が耐えられなくなり、秘密そのものを解消していくような動きを見せつけられると、ますますこの解で満足してしまいがちだ。

 

だが、ここで問題にしたいのは、なぜ良心は主人公を責めるのか、ということの方だ。

 

茉優ルートにおいては、物語の要請、と捉えることもできなくはない。そうでなければ事態は解決へと進んでいかないのだから。しかし、それでもあやせルートの最後の引っかかりを消すことはできない。

 

そんなことを考えていると、ふとある言葉が浮かび上がってくる。

 

「負けを認めた以上……ア、アナタはもう私のものなんだからね?」

 

「その代わり……私をあげる」

 

あやせとの告白シーンからの抜粋だ。お互いがお互いを所有しあうような関係はロマンスの極致ともいえるだろう。誰しもが目指す理想の形の一つだ。

 

だが、自分が相手のものである時、どのような論理で秘密を抱えることを正当化できるだろうか? 人権だとかなんだとかというものを一切抜きにして、単純に字面だけを眺めていると、その答えが見えなくなってしまう。

 

逆に言えば、自分が秘密を抱えている限り、自分は相手のものではない。自分だけが持っている自分が存在している。そんな状態を、主人公は肯定できるだろうか。

 

答えはもう、分かりきっている。要するに、この主人公はとてつもないロマンティストだったということだ。それこそ、自分のすべても相手のすべても、お互いの共有財産にしてしまうくらいには。

 

一番大切な事実は、そんなロマンティストたる主人公を、私たちはプレイアブルキャラクターとして与えられた、ということだ。このことが何を意味するのか、あまり深く書く必要はないだろう。あるいは、ゆずソフトそのものがロマンティストなのかもしれない。そんなことを考えた一作だった。

 


 

引用:『RIDDLE JOKER』(2018)、ゆずソフト