Mashiro Chronicle

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孤独という影 【『約束の夏、まほろばの夢』りんかルートプレイ感想<ネタバレ有り>】

『約束の夏、まほろばの夢』のネタバレ有り感想。ネタバレなしの感想はこちら

 

今回は全体でまとめて一つにするのではなく、りんかルートと陽鞠ルートでそれぞれ1本ずつ書く予定。ルートごとにテーマが異なるので、その辺りを意識して、ということで。

 

陽鞠ルートの感想はガラリと雰囲気が変わってかなり軽い感じになる見込み。ではりんかルート感想をば。

 


 

人間は他人と分かり合えない生き物なのかもしれない。分かり合う、とはなかなか曖昧な表現だ。しかし、たとえこの表現がどれほどぼやけたものであったとしても、私たちは納得してしまう。それは、あるいはこの言葉が曖昧だからこそ射程が広い、という可能性を示唆しているのかもしれない。そう、曖昧であるからこそ、言葉は幅の広い意味を獲得し、私たちは頭の中で、警句と様々な個人的体験を繋げていくことができるのだ。

 

そうであると承知した上で、もう少しだけ、「相手のことが分かる」あるいは「相手に分かられる」という言葉について考えてみたい。自分の思考や感情とまったく同じものを相手がつかみ取った、これを「分かる」としてみよう。すぐさま、これは不可能であると判断できる。私の哀しみとあなたの哀しみは全く別個のものである。感情のような、明らかに個々人に属するものでなくとも、コミュニケーションの失敗はいたるところで起きる。そもそも、電話モデルを持ち出すまでもなく、コミュニケーションは送り手と受け手の二者がいなければ成立しないことは自明だ。であるならば、受け手側が与えられた情報を解釈する余地を完全になくすことはできない。むしろ、その解釈の能力こそ、人間が人間である証明のようにすら近年は扱われている。

 

送り手があらゆる形で発信した感情や思考、それは、通信の過程で変質せずとも、受容の段階で送り手の意思とはかけ離れたところへと飛んで行ってしまう。人間は、本質的に分かり合えない。もちろん、全てが全て間違って伝わっているわけではない。むしろ、人間は他人と同じものを持てない、同じにはなれない、とでも言っておいた方がいいかもしれない。

 

孤独の本質の一つはここにある。人間が孤独であるとは、親しい人が誰一人としていないという個人的な状況のことではなく、そもそも人間は理解者を得ない、というもう少し根の深い問題の方を指している。


だが、孤独にはもう一つの側面があることも、私たちは忘れてはならない。自分という存在は確固としたものであり続ける、という事実を捉えている側面を。


「自分は自分」という事実は、多くの人にとって楽観的に受け止められている。が、それは実は、自分はどうあがいても自分、という極めて厳しい現実を指す言葉なのである。人間は、他人とは決定的に異なる。


萩原朔太郎が日本語による口語自由詩を作り上げていた頃の文章に、こんなものがある。

 

(前略)人間は一人一人にちがつた肉体と、ちがつた神経とをもつて居る。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。
 人は一人一人ではいつも永久に永久に恐ろしい孤独である
 原始以来、神は幾億万人といふ人間を造つた。けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかつた。人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。(後略)

 

「序」『月に吠える』 出典:青空文庫

 

百年も昔から、詩人はきっちりと孤独の本質を見抜いていた。逆に言えば、私たちは百年の間さほど進歩しなかったということでもある。

 

萩原朔太郎は、この後、孤独をなぐさめる手立てとしての詩というアイディアを続けて展開していく。人間の感情を完全に表す限られた手段の一つである詩が、人々の心にどう寄り添うのか。北原白秋が巻頭に寄せた文章を併せて読むと、もう少しだけ孤独というものを理解してもらえるかもしれない。

 

とにかく、人間は他の誰とも違う存在として生を受ける。その上、冒頭で考察したように、私たちは他の誰とも違う存在として「個人的に」抱いた感情や思いを正確に伝達できない。すなわち、人間はそもそも個で生を受ける上に、個人個人が「分かり合う」手段もほとんど持ち得ていない。孤独とは、人間は他人とは違い、さらにその違いという壁を乗り越える手段がないという事実を示しているのだ。その孤独の真の意味に気づいた時、私たちは他の何よりも深い、根源的な哀しみを抱えるようになる。

 

では、もし、一人の人間の魂が別々の肉体に宿ったとすればどうだろうか。りんかルートで問題となるのは、この点である。

 

魂が別々の肉体に宿る、というのはどういうことだろう。たとえば、100でいっぱいになる器に魂が入っていると考えてみよう。そのうちの幾ばくかを他人の魂が占めている、と考えることもできる。だが、この発想は危険だ。もし仮にそうだとすれば、りんかルート中で巫女が言っていたように、巫女の魂の大部分がりんかに宿っていたとすれば、巫女の魂が回収された後のりんかの器はどうなってしまうだろう。りんかは、空蝉のごとき存在になってしまいかねない。器の大きさや魂の総量が人によって異なるのではないか、という指摘も十分に検討し得るが、数百年もの間転生を繰り返した巫女の魂の総量と、今この一回を生きているりんかの魂、どちらがより大きそうか、ということに思考が回ると、どうしても唸り声をあげてしまう。

 

巫女が言っていたことを信じるのであれば、そして、魂が回収される結末が示唆するとおり、巫女の魂とりんかの魂は別のものである。巫女とりんかは別人なのだ。これまで転生を繰り返した巫女が魂を分割した結果、りんか(おそらくreincarnationから取った名前であろう)は巫女を受け継ぎながらも、巫女とは違う存在として生まれることになった。では、確かにりんかに宿っていた巫女の魂は、一体りんかのなんだったのだろう。

 

これまでの議論の前提となっていたことを振り返ってみると、魂を、あるいはその器を、一つの総体とみなしていることに気づかされる。つまり、魂か、あるいは魂の入るスペースはぴったり一つ分しかない、ということだ。当たり前のようだが、実は盲点に近い。魂を計量的に扱うとは、すなわち、魂が全体で一つであることを暗黙の了解としている。であるから、魂の周りに意識が向かないのだ。

 

一つの肉体に二つの魂が入っていたとしても(あるいは二つ分の魂の器があったとしても)、不都合はあるまい。中国や日本において、魂が一つであったかどうかというのはやや込み入った議論になる――たとえば、荒魂と和魂は別の魂か否か、や、魂魄の魄は広い意味で魂として数え得るか、など、めいめい大変に難しい議題だ。この稿では当たり前のように使っている魂という言葉の定義そのものにまで踏み込む話題なので、本来であれば深く掘り下げたい問題ではあるが、ひとまず置いておく。ここで私たちが考えているのは、あくまで『夏まほ』の中における魂の捉え方だからだ。

 

どちらにせよ、東アジアには、魂を複数保持し得るような考え方が育まれやすい土壌があることは確かだろう。インド的な転生観が持ち込まれてもなお、しぶとく生き続けたのだから。

 

幼馴染み5人の身体には、それぞれの魂の他に、巫女の魂も宿っていた。そう考えた方がすっきりするだろうか。この辺りはライターに直接聞かなければ分からない話だが、とにかくここではそれを前提で話を進める。

 

どのような形で魂が共存していたかは分からない。近年のエロゲ界の作品を見渡すと、たとえばゆずソフトの『千恋*万花』では、癒着したものの十分に切り離し可能な何かとして描かれている。茉子の中に狗が入り込んだ時が顕著だ。『夏まほ』では、茉子が夢の中で狗と会話したシーンに符合する描写は存在しない。ただ、幼いりんかが巫女としての自分を見出しただけである。したがって、魂が共存していたからといって、巫女の精神が容易にりんかの中に侵入できたかどうかは、判断がつかない。

 

とはいえ、大切な魂を分けたのだから、そうそう簡単に心という機能が復活されても困る。どのような形で魂が宿っていたにせよ、とにかく、りんかの身体の中には、りんかの魂とは区別できる形で、巫女の魂の最も重要な部分が宿っていたことは確かだろう。

 

そう考えると、仮に巫女の魂が分割されたとして、その欠片を宿した子供たちは巫女と完全に同一な人物とはみなし得ない。あくまで、元は一つだったある人物の魂が宿っているだけで、その肉体を支配する魂はまた別個のものだ。

 

これはかなり重要なポイントだ。りんかルートのクライマックスで、巫女が語っていたことを思い出してみて欲しい。巫女は、5人は自分の分身であると言及した上で、魂の分割が招いたものは虚しさであったと述懐する。彼女が明かしたもう一つの事実、呼応する魂と必然性のある幼馴染み関係というのもまた面白い話題なのだが、それも脇に置いておこう。ここで話題にしているのは、分身という考えの方だ。

 

仮に分身だったとしても、(りんかと陽鞠はさておき)微細な欠片しか授からなかった他の3人は、明らかに巫女の魂とは別の何かが色濃くにじみ出ていたはずだ。りんかと陽鞠にしても、上の思惟を踏まえると、十分に巫女とは別の存在であると認識し得る。りんかと巫女を区別できるのであれば、孤独だったのは、りんかではなく巫女だったと言えるのではないか。

 

しかし、実際にりんかは故郷を離れる。孤独だったのは巫女の魂であったが、別離を選択したのは(行動の主体が巫女であるかりんかであるかはさておき)りんかの身体だった。

 

ここで、冒頭長々と書いてきた議論を思い出してみると、孤独であるとは、周りに自分を理解してくれる存在がいない、ということから生起するものではなく、本質的に、ある人は他者とは異なる存在としてしか生きられないという事実から生まれてくるものである、ということだった。自分の感情は理解されないし、それ以上に正確に感情を伝える術すらほとんどない。伝えられない以上、共有のしようがない。人間はかくして単位としてしか生きられない。これが、孤独の哀しみの根源だ。

 

したがって、人間は誰でも孤独である。しかし、自分が孤独であると気が付くタイミングについて考えると、これは人によって異なる。

 

りんかは、幼い頃から巫女である自分を認識していた。他の誰かとは異なる、巫女としての自分。他の誰かには担えない、巫女としての責務。そうした「巫女」という特殊な境遇が、彼女に自分が他の人間とは違うという意識をもたらしたとして、なんら不思議ではない。人間は皆孤独だが、りんかはその孤独であるという事実にかなり小さい段階で気が付いてしまった。言い換えれば、りんかは半ば必然的に、幼少期から孤独の哀しみと向き合わなければならなかったのである。

 

十分に成長した私たち大人でも、孤独の哀しみは背負うに余りある。その小さい身体で向き合うことなど、あまり考えたくはない。りんかが全てを捨てて逃げ去ったのも納得である。

 

孤独は、あまりにも深く重たい現実だ。だからこそ、人は特効薬を必要とするのだともいえる。萩原朔太郎はそれを詩の領域とみなしたのは上述のとおりだ。巫女は、最初は友情にそれを求め、(上の議論を踏まえるならば)誤解と言ってもいいような早とちりの末、作戦が失敗であったと認識した。

 

対して、りんかと、そして最終的には巫女が見出した答えは、恋であって愛だった。厳しい見方をすれば、恋も愛も、孤独を根治させることはできない。孤独は、人間が人間である限りつきまとう影である。人間が人間をやめない限り、恋も愛もただの一時しのぎに過ぎない。

 

しかし、それでもよいのだと、私は思う。萩原朔太郎も、同じ文章の中で、詩は「なぐさみ」であると言い切っているではないか。あるいは、恋はともかくとして、詩も愛も、その土台の重要な部分に共感を含んでいる。そう考えても、決して詩だけが孤独への薬ではあるまい、という上向きの気持ちが芽生えてくる。恋も愛も詩も、孤独な人間が孤独を受け入れた上でその傷を癒す手立てなのだろう。

 

そう思えば、りんかルートはまことにハッピーエンドだった。そして、りんかルートがハッピーエンドであると認識すればするほど、恋からも愛からも、そして詩作の能力からもかけ離れた位置にいる自分の存在が虚しくなり、私はまた部屋の隅ですすり泣くのである。

 

 

出典:萩原朔太郎(1917),月に吠える. 底本は青空文庫による. 元ページはジャンプ先