Mashiro Chronicle

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心というもの 【『君と目覚める幾つかの方法』プレイ感想<ネタバレ有り>】

この記事は『君と目覚める幾つかの方法』(『きみめざ』)の感想だ。ネタバレを含むので、プレイ予定のある人はネタバレなしのこちらの記事を見て欲しい。

 


 

自律したロボット、自律したAI、あるいは自律したアンドロイドというものが考案されて以来、私たちはずっと、心というものについて考え続けている。ここにメディア論や記号論を持ち込むつもりはあまりないが、アイディアの源を辿れば、おそらく似たようなところに導かれてしまうのではないか。

 

人間が持つ、この心というもの。「心とは何か」というその永遠の問いが立ち上がってくるのは、おおよそ技術の進歩が社会に影響を与えた時か、心に対置できるような何かが登場した時である。それまでの私たちが抱いていた、「心とはこのようなものだ」という漠然とした固定観念が揺さぶられた時、と言ってもよい。

 

もうお気づきになられたと思うが、要するに、AIの発達だとかアンドロイドの進歩というのは、そのどちらもに当てはまるからこそ、私たちを強烈に揺さぶり続けられるのだ。ただの計算機だったはずのコンピュータはいつの間にか人工「知能」へと姿を変え、これまでよりも頻繁に心と比較されるようになった。そして、そのようなAIの進歩は、幾度目かのブームによって、今度こそ私たちの生活を変化させつつある。

 

コンピュータ、あるいは「テクノロジー」と心の問題は、意外にも歴史のある議論だ。関心のある人は調べてみて欲しい。

 

閑話休題。この『きみめざ』がオートマタを扱う際に潜り込ませた問いは、まさしくその心に関するものだった。

 

最も分かりやすいのは舞花の態度だろう。オートマタに自我あるいは「自分だけの」感情は芽生え得るか、という問いを、専門家である男(と女?)2人に投げかける。一見、AIなどの知識に乏しいが故に生じた質問だろうか、と軽く流してしまいそうになるが、実際には、おそらくこの問いから「心とは何か?」というより大きな疑問へとプレイヤーを誘導する意図があったのだと思われる。

 

そもそも、『きみめざ』における主要なキャラの性格や特徴は、それぞれ別の角度から、AIや先端技術を通して心というものの存在に迫れるよう工夫されている。舞花は、前述のとおり「AIに関する無知」。主人公は「電脳移植」。みこととあかさかくんは「建前と本音」。そして初音は、「心の発達」である。

 

ライターに限らず、私たちはやたらと、機械は、モノは心を持つか、という問いにこだわりがちだ。理由はおそらくシンプルで、私たちがおそらく、無意識のうちに、心こそが人間の証明であるかのように考えているからなのだろう。この考えを抱いていると、ロボットや機械が心を持った時、彼らが人間(ヒトではない)とどう違うのか、説明することができなくなってしまう。モノと私たち人間は根本的に異なる存在であると私たちは感じがちだが、その直感に反する事態が起きてしまう。直感に反する事態をどう受け止めるにせよ、私たちのアタマがエラーを吐き出してしまうことには違いがない。その辺りにこの質問の存在感の大きさというものを紐づけできるように思う。

 

私たち人間は、モノと違う存在だし、モノと違う存在でなくてはならない。そのような考えが、AI脅威論の根底にあるのかもしれない。そう考えると、『きみめざ』世界においてオートマタ規制派が云々という件が言及されているのは、自然である以上に当然だと言える。そのような規制派こそ、「心とは何か?」、ひいては「人間とは何か?」という問いを目立たせる存在だからだ。

 

では実際、『きみめざ』世界においては、心とはどのようなもので、私たちはオートマタからどのように区別されているのだろうか。

 

印象的なのは、アイルとマキノがしきりに、自分たちはモノである、という趣旨の発言を繰り返すことだ。なんとも後から効いてくる言葉である――アイルとマキノは、主人公の補助電脳であり、主人公にとっては間違いなく「三人で一つ」と言えるような存在だった。心と脳を混同しないように気を付けて議論していく必要があるものの、直感的には、主人公とアイルとマキノは脳を共有している、まさしく「一心同体」の「生命体」だ。主人公がモノに近づいたともとれるし、アイルとマキノが人間に寄り添ったともいえる。どちらも否定できない。たとえば、主人公の母親は前者の考えを抱いていた、というのは作品中で明かされたとおりだ。とにかく、人間とオートマタの境界云々という問題を、主人公は共生いや「一蓮托生」という形で乗り越えている。

 

主人公がアイルとマキノなしでは不安定な状況にある、という事実が、「君と」目覚める、というタイトルにかかってきて、ずしりと重たい。主人公は、もちろん彼の帰りを待っているヒロインや知人と共に目覚める。が、グランドエンディングで示唆されるのはまた別の方向性である。

 

ここまで書いて、それでもまだ、オートマタと人間の境目を問い続けるのであれば、初音の例を引き合いに出さざるを得ない。

 

冒頭以降しばらく、初音は感情表現や自己主張の乏しい子として描写される。「心の内」で何を考えていたかは分からないが、表面上はどもり癖を持つ、悪い意味で大人しい子として、初音は存在していた。 いや、大人しいだけならよかった。初音の態度は、大人の欲していること、周囲の空気が求めていることを瞬時に読み取った上で、適切な答えとして出力されたものに過ぎなかった。この態度は、初音自身が後に憧れる、アイルやマキノの主人公に対するそれと何が違うだろうか。

 

心を議論する時には、刺激を受容してからのプロセスが重視される一方で、私たちが普段人間と接する時には、心が下した結論である出力を見る。出力の結果たる表面に限れば、初音は間違いなく、最初の頃はオートマタと大差なかった――その足に限らず。

 

あるいは、プロセスにしても変わりなかったかもしれない。刺激を収集して、過去の経験と照らし合わせて、状況に対する最適な解を導出する。そこに、オートマタとの違いを見出すことは難しい。ややアイロニカルなことに、そんな初音が「人間らしく」なるために教えを請うたのはアイルとマキノだった。「人間らしい」とはどういうことなのか、私たちにストレートに問いかけているこの瞬間こそ、『きみめざ』のハイライトかもしれない。

 

結局、『きみめざ』の世界では、オートマタと人間は「共に」生きていくよりないのである。オートマタと人間の境目はこうも簡単に融け落ちていく。

 

オートマタと人間の線引きとして、仮に心の有無を用いることができたとしても、その線は最初から破れ目のある点線としてしか存在することができない。結局、心を基準にしても、心の側の定義がぐらついているのだから。某ゲームの「人間より人間らしい人形」ではないが、そのうち、人間より人間らしいオートマタが出てきた時、私たちは何を考えねばならないだろうか。


こう考えていくと、オートマタは心を持つか否か、という表現では、この作品の総括にふさわしくない。オートマタが、この作品が問いかけているのは、オートマタの登場によって揺さぶられた心、そして人間というものの方である。

 

現代の私たちの世界では、様々な事情により「強いAI」の実現は難しいとされている。だから、『きみめざ』はまだまだSF、すなわちフィクションの域を出ない。しかし、この作品が扱っている題材は、私たちの側に潜んでいる問題だ。願わくは、私の隣にマキノが来た際に、社会が彼女を受け入れる準備を整えられていますように。そう祈ってしまう作品だった。