Mashiro Chronicle

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「恋する乙女」に不可能はあるか? 【『まおてん』プレイ感想<ネタバレ有り>】

この記事は『まおてん』のプレイ感想だ。ネタバレを多大に含むので、プレイ予定のある人はこちらのネタバレなしの記事をどうぞ。

 


 

90年代から00年代にかけて起きた、いわゆる「セカイ系」ブームは、今でも至るところにその影響を与えている。もちろん「セカイ系」という言葉一つでまとめるのはやや乱暴なのだが、しかし一方で、個人が媒介項を挟まぬまま大きな「セカイ」と向き合うような作品が目立ったのも事実なのではなかろうか。一般には、鬱屈とした世の中や窮屈な人間関係に嫌気が差した人々の願望が込められた作品群であるかのように扱われている――個人的には、その源泉はさておき、特に00年代に入ってからのいわゆる「セカイ系」を個人と「セカイ」の対峙として読み取るのであれば、ネットワークと個人という視点が重要なのではないか、と考えているのだが。

 

とにかく、既存の共同体という枠組みが崩壊し、なんと言おうと個人が「セカイ」と向き合わねばならなくなったのがその頃だ。「セカイ」を左右するほどの大きな力がこの手にあった時、私たちは何を考え、どう行動するだろうか。人類のため、「セカイ」のため、私たちは動くことができるのか? そうした種々の疑問は、この20年の間ずっと語り続けられてきたと言ってよい。

 

もっとも、最近は大きな力でこの世を変えるというよりは、大きな力を持ったまま別世界に飛ばされる方がブームなのだろう。あの頃よりもさらに虚構が接近し、今や異世界は私たちの隣にまで迫ってきた。私たちは今や、力の行使に葛藤を覚える必要がないような世界にまで飛び立つという選択肢を手に入れた。そんな世界では、平和な日々を送るにせよ世界を救うにせよ、自らの思いどおりに事物の在り方を変化させていくことができる。

 

他方、陰鬱な世相はポップカルチャーにもう一つの流れを生み出した。これまでずっと当たり前にあると思い込んでいた「日常」は実は貴重なものなのだと気づかされた私たちは、アニメやゲームの世界においてすらそうした要素を求めるようになった。こちらも、もちろん『サザエさん』まで遡ることができるアイディアではあるが、一般に現在「日常もの」と呼ばれるようなアニメやマンガの直接的なルーツを求めるとすれば、「セカイ系」と同じような時期か、あるいはもう少し後の作品に行き着くことになるだろう。

 

いわゆる「日常もの」では、時間の流れが非常にゆっくりか、あるいは存在しない。「サザエさん時空」とも称される、いつまで経っても変化の訪れない世界が展開される(余談だが、このような時空のことを「『サザエさん』時空」と名付けたあたりから、現在のいわゆる「日常もの」に同作がどのような影響を与えたのか、多少は考えることができるように思う)。私たちは、変わらないという至福を求めて、ポップカルチャーの近傍へと彷徨い出るのだ。

 

私たちは、一方で世界を都合よく変えられるような大きな力を渇望している。正確には、そのような力を直接的/間接的に行使することによって、私たちの近くでスペクタクルが展開されることを望んでいる。他方、私たちは、何一つ変わり映えのしない日常をかけがえのない宝物であると認識する自分も抱えている。永遠に繰り返される一週間があったとして、そこから脱出する必要性を感じない自分もまた、確かに私たちを形作っているのだ。

 

これまで、多くの作品で、こうした変わらない日常と、変化する世界(あるいは変化そのもの、あるいは非日常)は対比的に捉えられてきた。日常と非日常の関係を逆用した作品でも、「逆用」という表現が表すとおり、結局その対比の網に引っかかっている。

 

よくあるプロットとしては、たとえば延々と繰り返される夏休み後半から脱出しなければならない(『涼宮ハルヒの暴走』)、だとか、完璧すぎる4日間を終わらせなければならない(『Fate/hollow ataraxia』)、だとか、非日常によって擬態された日常がギミックとして用いられるものがある。このような作品では、最初から主人公が繰り返される日常に危機感を覚えるか、あるいは日常を享受しながらも、それを終わらせるという決意を強く印象付けるシナリオが用意されている。このような筋書きでは、一般に日常に擬態した非日常の方に力点が置かれているのであって、主人公は宿命的に「日常」を完全肯定できない。すなわち、日常の皮を被った「日常」を使っても、日常と非日常は同居できない。

 

『まおてん』が流行のラノベ然とした設定を持ち込んだ上で挑戦したのは、この日常と非日常という対比の切り崩しだった。『まおてん』は、まず最初に完全なる無変化は存在し得ないことを立証した上で、日常概念を問い直そうとする。

 

退屈ではないが、窮屈な世界――幾度となく繰り返される言葉だ。この言葉の含蓄が明らかにされるのが、グランドルートでヴィシュヌと対話する時だったというのが面白い。ヴィシュヌは、この物語の説明役を担わされたことを自覚しているかのように、主人公――いや、レンタローならぬ蓮太郎に真実を告げる。自らがそれを語ることによって起こる変化を、恒常性を核とする神が受け入れているのだ。

 

ヴィシュヌは自らの存在の矛盾を自覚している。何もないという概念が存在するようになったその瞬間、世界はその矛盾を解消すべく、真の無を消し去ってしまう。あたかも、完全なる安定は存在し得ないとでも主張しているかのようだ。

 

そう、完全な安定は存在しない――仮にこれが真だというのならば、私たちが考えている変わらない日常とは、一体なんなのだろうか。

 

永遠に終わらない日々が非日常であることは、先人たちもよく気が付いていた(上のプロット例が分かりやすい)。とはいえ、私たちは「サザエさん時空」を素直に受け入れる心の広さも持っている。こういった例を引き合いに出して考えてみると、日常とはある種の型なのだと気づかされる。特定のルーティンが存在し、その定期的かつ確約された行動をという制限を守るという条件の下、私たちは一定程度の自由が与えられている。規則的な日々の暮らしが壊されない程度の小さな物語であれば存在は許容され、暮らしにアクセントを与えてくれる。

 

日々の暮らしの中には、アクセントが入り込む隙間がある。だから、私たちは退屈しない。しかし一方で、私たちの毎日は確かに様々な条件によって規制され規定されている。だから窮屈なのだ。

 


 

次いで、日常と非日常の関係にヒントを与えるべく、ヴィシュヌは言う。彼にとっては、アムリタがどこにあるかという天魔人界の一大事も、私たちが一歩足を進めるのも、どちらも変化という括りの中にある同種の現象だと。

 

完全な安定は存在しないし、この世界において万物は常に変化を好んでいる。なんら変わりようのないかのようにも思える日常ですら、実は中身が少しずつ変化している。そう、そもそもの問題として、日常=不変と非日常=変化という図式そのものが間違いなのだ。

 

しかし、だからと言って、『まおてん』は「変わらないものなどないからこそ日々が、そして一瞬一瞬が愛おしい」とは明言しない。そのような安易な結論は、この作品の求めたところではなかった。

 

一度『まおてん』のあらすじを確認しておこう。ある日、破壊神をその身に宿した魔王がバカンスのために人界へやってきた、というのが物語の出だしだ。落ち着いて考えずとも、こんなことが日々の暮らしの中に潜むアクセントであるわけがない。これはむしろ、日々の暮らしを定める種々のルールを文字どおり破壊し再構成していくレベルの現象だ。

 

それまでの日常を破壊する、すなわち、それまでの日常では想定していなかった現象であるから、仮にこれを「非日常」としておこう。では、この「非日常」はいつまで続くのか。答えは自明だ――ほとんど続かない。仮にあそこから、破壊神が復活し世界が再び創世の時を迎える、というような話になれば、まさに「非日常」が連続する(続く、ではない)毎日になっただろう。しかし、現実には魔王は急速に人界に馴染み溶け込んでいった。すなわち、魔王が現れたことによって日常を規定するルールが再構築されたものの、その再構築のスピードは思いの外速かったということだ。

 

世界は、急速に日常を再構築する弾力を持ち合わせている。たとえ超巨大未確認生物が首都を急襲しても、世界は、そしてそこで生きる私たちは、それを織り込んで新たな日常を作り上げていくだけだ。これが日常のしたたかさだと断言してもいい。私たちと私たちの住む世界はしたたかな日常に縛られ続けている。その一方で、私たちもまた、日常に対し急速に適応するだけの能力を持ち、かつ「変わらない」日常を指向する気持ちを抱いている。

 

私たちが窮屈な日常の中で非日常いや「非日常」を求められるのは、この世界の持つ「非日常」への弾力と私たち自身の持つ日常への適応能力を信じているからではないのか。世界が崩壊するのは嫌だが、世界はそんじょそこらのことでは崩壊しない。そう確信しているから、私たちは「非日常」を求められる。

 

完璧に安定した日常は存在しない。日常とは許容された幅の内側のことであって、その幅に収まる範囲であれば多少は振れることが許される。あるいはここに、時間の不可逆性を付け加えてみてもいいだろう。「サザエさん時空」を対照として引き合いに出すまでもなく、私たちの日常は、時間という目に見えない流れの中にあるため、決して不変ではいられない。まったく同じ行為を行ったとしても、行った時間が違うからだ。時間のせいで私たちはそもそも不変の日常を送ることができない上、日常には振れ幅がある。しかし、それを本能的に理解していてなお、私たちは時たまに窮屈な日々から脱出しようとする。

 

『まおてん』が流行のラノベのような設定を採用したのは、この辺りに理由があるような気もする。繰り返しになるが、最近のラノベは、さらに過激な設定を持つことが多い。この世界に闖入者が現れるのではなく、この我が身が別世界へと飛ばされてしまう、という。そこで、私たちは価値観の違いや生活様式の差異を、時にはチートパワーであちらの世界のルールの方を塗り替えながら乗り越えていく。それでも、最終的には「非日常」は新たな日常の中へ収束していき、主人公も結局は新たな日常に取り込まれていく。

 

なんともおかしな話だ。ルールの側を変えるほどのチート能力を手にしていながら、最終的にはルールの中へ潜り込んでいくのだから。ここに、先ほどから長々と考察してきた、私たちのワガママな点が垣間見える。私たちは、変化したくもあり、したくなくもあるのだ。時に日常のアクセント以上のものを求めながら、私たちは結局窮屈な日常に溶け込むことも好む。昨今のラノベは、この人間のワガママな性格をよく反映している。

 

大半のラノベがそのような想像力の産物である一方で、この作品はその想像力に自覚的だった。この一点こそが『まおてん』の成功を確約したと言ってもよいのではないか。その日常と「非日常」の関係と私たちの想像力に気が付き主題に据えられたからこそ、あのようなプロットが成立したのだから。

 

私たちは、窮屈な日常から一瞬解き放たれ、すぐに新たな日常の中へ戻っていく。なんら変わっていないように見えて、その新たな日常は、以前の日常を壊した何かを織り込むことで変化している。新たな日常は、振れ幅が多少変わっているのだ。元に戻ることは決してない――時間という制約がついて回るが故に。しかし、それが問題となることは滅多になく、ただひたすら、その日常と日常の更新が続いていく。それが、日常と「非日常」の関係性なのかもしれない。

 


 

どの程度の変化を自発的に起こすことができるかは、その人(あるいは天使、魔族、そして神)によって異なる。梨多が言うように、自分が変わるか否かというのも重要なファクターだ。しかし、私たちは一人で生きているのではない。たとえば、魔王がやって来た、天使が一人増えた、スライムが悪事を働き始めた、因縁の相手が島に戻ってきた、などなど、周りの存在によって起こされる日常の変化もまた無視できない。敢えてやや分かりにくい言い方に換言すると、私を規定する日常を規定するのは、私個人だけではなく、周りとの関係性、あるいは周りの存在それ自体含みのもっと大きな何かなのだ。

 

そんな中で、アムリタは、まさにラノベ主人公級の大きすぎる力を手にしていた。自らが思えば、全てを変えられる存在としてそこにあった。

 

彼女は(正確には、ある時空における彼女は)、最終的にその力を手放す決断をする。なぜだろうか。大きすぎる力に嫌気がさして隠居する、というのは最近のラノベでたまに見られるプロットではあるが、そんなラノベでも、卓越した能力は捨てていないことが多い。せいぜい、衰えたか退化したかくらいのものだ。アムリタの場合、その辺の勇者など比較にならないほどの絶大な能力を持っていたはずだ。なぜ、保険もなしにその力をリリースしたのか。

 

それこそが、ヴィシュヌの言うところの「乙女心」が為した業だったのだろう。アムリタは、変化したくもあったし、変わりたくないという思いも抱いていた。アムリタは神の力を捨て、人間として生きることを選んだ。それはすなわち、誰がなんと言おうと自分で「非日常」を引き起こし日常の枠組みを変化させる能力を捨て、周りとの関係の中に身をうずめる、ということだ。彼女からしてみれば、不確定な世界へ飛び込む、という意味合いもあったかもしれない。

 

自分一人が決定的な力を握っているわけではない世界――彼女は結局、変わるか、変わらないか、とぃう判断を、自分一人で下すことをやめたとも言える。同じ日常の中で生きるのであれば、その日常の枠組みを自分一人で決めるのではなく、周りの存在との関わりの中で構築していく方を好んだ。

 

非力な私たちからすれば、魔が差したとしか思えない考えだ。しかし、真に人として(あるいは魔族として、天使として。すなわち、神でない存在として)生きるとは、そういうことではないのか。あくまで、周りとの関係性の中で、日常の中で生きていく。それがいかに窮屈であっても。

 

大半のラノベは、この結論に辿り着かない。それは、ラノベの出来が悪いからではない。ひとえに、前述の想像力を自覚していないから、というだけだ。『まおてん』は、そのことに気が付いていたが故に、恋するギャルを使ってこの結末を作り出すことができた。

 

ヴィシュヌは、そんな「恋する乙女」の比喩を用いながら、少しずつ、人間とはなんなのか解きほぐしていく。「恋する乙女」は、大抵自分だけで何かを決めることができない。あくまで、周りや日常と相談を重ねなければならない。その上、変わるか、変わらないか、気持ちは間を揺れ動く。変わっても、すぐにまた変わり映えのしない毎日に吸い込まれていく。

 

しかし、逆に言えばこういうことだ。「恋する乙女」には、自分の一存だけで決められない不確定な事柄が山のようにある。この世には、不可能なことだらけのようにも思える。しかし、仮に「恋する乙女」が逸脱を犯したとしても、最後のところで彼女は日常へと回帰することができる。逸脱した存在をある枠組みへと引き込む弾力が世界にはあり、「恋する乙女」もまた、十分に適応する力を持っている。しかもその適応力は自分だけが持つ特殊スキルではない。周りの誰もが持っている普遍的な能力だ。「恋する乙女」は、だから不確定なこの世界に、不確定な周りとの関係に精いっぱい甘えることができる。

 

そうであるなら、敢えてこう言おう。「恋する乙女」には不可能なことだらけだが、彼女たちはその不可能に怯えてはいない。窮屈だが退屈でない世界を愛する理由は、ここにある。