Mashiro Chronicle

長文をまとめる練習中 割となんでも書く雑食派

人が恵みを受け取る時【『アメイジング・グレイス』プレイ感想<ネタバレ有り>】

この記事は、2018年11月に発売されたゲーム『アメイジング・グレイス』の感想を収めている。タイトルのとおり、ネタバレを含んでおり、かつ、このゲームは少しのネタバレが全てを台無しにしてしまう可能性を孕んでいるため、未プレイの人やプレイ中の人は特に注意して、引き返すか覚悟を決めて読み進めるか決めて欲しい。

 

例によって推敲途中だが、ご容赦願いたい。

 


 

Amazing grace! (how sweet the sound)

That sav'd a wretch like me!

I once was lost, but now am found,

Was blind, but now I see.

 

'Twas grace that taught my heart to fear,

And grace my fears reliev'd;

How precious did that grace appear,

The hour I first believ'd.

 

"Amazing Grace" 引用元:Cowper and Newton Museumホームページ URL:

http://www.cowperandnewtonmuseum.org.uk/amazing-grace/ 最終閲覧2018年12月5日. なお、リンク先の詩の底本はOlney Hymns, 1797, Book 1, Hymn 41.

 

 

英語圏を代表する讃美歌である「Amazing Grace」は、『アメイジング・グレイス』(ゲーム)中でも語られたとおり、18世紀にある牧師が自身の宗教人生上の転機を振り返りながら作詞したものだ。直訳すれば、「大いなる恵み」だろうか。

 

この11月に発売されたエロゲ、『アメイジング・グレイス』は、もちろん、この歌を踏まえて制作されたものだろう。この作品の魅力は、非常に練られたタイムリープもののプロットと、プレイヤーを引き込む独特の世界観だ。とはいえ、そうした世界観やプロットに、中世~近世までの西欧キリスト教社会が育んだ文化が影響を与えていることは間違いない。たとえば、作中でも示されたとおり、「街」の風景はイタリアルネサンスの中心地であったフィレンツェを模している(余談だが、このことは、フィレンツェに行ったことがある人であれば容易に気づくことができる)し、作中でモチーフとして効果的に使われる絵画も、大半はキリスト教関係の宗教画だ。

 

であるならば、この作品を振り返る上で重要なのは、そうしたモチーフや背後に潜むキリスト教文化が、どのように本編や作品の設定に影響を与えたか、である。ここまではいい。

 

問題は、そう口で言うのは簡単だが、実際にキリスト教西洋美術史の視点からものを言うのは相当大変だ、という事実の方である。そもそも、特にキリスト教神学は膨大な研究の蓄積を誇る分野であり、宗教的にも学問的にも素人が手を付けることができないフィールドなのだ。

 

ここでは、そんな無理を承知で、讃美歌「Amazing Grace」を手掛かりに『アメイジング・グレイス』という優れた作品を語ることに挑戦する。大変な困難が待ち受けていることは明らかだが、少々お付き合いいただきたい。

 


 

さて、冒頭で引用した「Amazing Grace」は、ゲーム中に収められたBGMで歌われた部分のみを示している。「Amazing Grace」を歌う、そこまではいい。問題は、この曲を「どこまで」歌うか、それから、「どのバージョンを」歌うか、というところにある。

 

作中でOPとEDを除いてコーラスが付いている曲はこの「Amazing Grace」だけなのだから、当然そこには意味があると深読みされることを、制作側は承知しているだろう。その上で、この「Amazing Grace」という大変よくできた歌詞を紐解いてみたい。

 

先ほど、「どのバージョンで」歌うか、が問題であると述べた。知られた讃美歌であり、かつポップミュージックやゴスペルの世界でも頻繁に持ち出されるこの楽曲は、オリジナル以外に幾つか改変版が存在する。果たして、念頭におかれていたのはどれだろうか。

 

ここで、『アメイジング・グレイス』ユネルートで、なぜ「Amazing Grace」の成立が語られたかを考えてみると、「祈ることの大切さ」という言葉が引っかかる。上述のように、この「Amazing Grace」は、ある牧師の個人的な経験を踏まえて作成されたものである。この事実が作中で語られた、ということは、その経験と、経験に裏打ちされた存在である歌詞が重要である、という解釈に繋がってはこないだろうか。そう考えると、やはりオリジナル版を振り返ってみたくなる――BGMで用いられた1番と2番はどのバージョンでもほぼ共通しているため判別がつかないのだが、ここではそのような理由から、オリジナル版について述べる。

 

作中で翻訳が示されたのは、一番の3行目と4行目である。シンプルな英文であり、何が書かれているかは分かりやすい――直訳は、作中にあるとおりだ。案外「am found」の解釈が難しいのだが、本筋から逸れるのでここでは検討しない。ここから、主人公がユネの祈りへの姿勢へとその思考を羽ばたかせていく。

 

では、手が付けられていない2番はどうであろうか。拙いながら、訳を試みる。

 

恵みこそ私の心に恐れを教えたのであり、

かつ恵みが私の恐れを和らげた。

いかに尊い恵みが姿を現しただろうか、

私が信じ始めたその時に。

 

 

※「Amazing Grace」は知られた楽曲で、邦訳も多数存在する。この訳は筆者が独自に試みたものだが、万一既存の訳と被っていた場合はご指摘くださると幸いです。以下この記事中に示す訳については全て同様。

 

この2番の詩を見ると、「grace」=「恵み」とは、私たちが普段想像するような恵みとは少し違うことに気づかされる。神から施される「恵み」とは、決して楽しいもの嬉しいものばかりではない。推測するに、恐らく、これは作詞者がキリスト教に帰依したきっかけによるところが大きい一節なのだろう。つまり、作詞者は、自身が生命の危機に直面したことそれ自体をも、神からの「恵み」と捉えている。「私が信じ始めたその時」に降りて来た「恵み」は、その前の苦難とワンセットなのである。神は、信仰への道筋を恵んでくださった、と表現してもいいだろう。

 

本来、1番の「Was blind, but now I see.」もこの文脈で理解されるべきである。この文脈にあってこそ、余計に「祈ることが大切」という結論が重要になってくるのだから。ここまで考えて初めて、『アメイジング・グレイス』はかなりしっかりとした解釈の上に成り立っていることが分かる。

 

だが、この記事はここで満足しない。さらに奥へと踏み込んでみたい。

 

上で掲げた疑問のうち、「どのバージョン」ということについては、今までの文章で筆者の見解を述べた。以降では、もう一つの疑問、「どこまで」について考えていく。

 

実のところ、オリジナル版の「Amazing Grace」は、2番までで終わっているわけではない。その続きがある。同じサイトから、以降の引用を試みる。

 

Thro' many dangers, toils and snares,

I have already come;

'Tis grace brought me safe thus far,

And grace will lead me home.

 

The Lord has promis'd good to me,

His word my hope secures;

He will my shield and portion be,

As long as life endures.

 

Yes, when this flesh and heart shall fail,

And mortal life shall cease;

I shall possess, within the vail,

A life of joy and peace.

 

The earth shall soon dissolve like snow;

The sun forbear to shine;

But God, who call'd me here below,

Will be for ever mine.

 

引用前に同じ

 

 

注目したいのは3番と6番だ。まず、6番の1行目を見てみたい。筆者が雑に訳すると、「大地はじきに雪のように崩れ去る」だ。なるほど、『アメイジング・グレイス』におけるアポカリプスの描写は(間接的に)ここから取っていたのかもしれない。間接的に、というのは、賛美歌が聖書の表現の影響を受けているのは当然なので、聖書から引いたにせよ、賛美歌から引いたにせよ、見た目上はどちらからも影響を受けたように見える、ということだ。

 

筆者は当初、アポカリプスではなく地獄の描写を援用したのかと思っていた。現在のキリスト教世界における地獄イメージは、中世(初期ルネサンスフィレンツェで完成したものであり、かつ『アメイジング・グレイス』がフィレンツェを意識していることは、上述のように明らかだったからだ。だが、この見解は改めた。というのも、中世キリスト教世界観を完成させたのは絵画ではなく文学だったからだ。無文字社会を重要な設定としている今作において、いかに「後に」『神曲』などの文学で示された世界観が絵画や彫刻に影響を与えたにせよ、それを直接引くことはしないだろう。

 

さて、肝心の3番に移りたい。冒頭「既に多くの艱難を乗り越えて来た」と始め、次いで、「恵み」が「私(me)」を「safe thus far」まで運んでくれたという。「安全」で(それ故に)「遠い」ところまで運んでくれる「恵み」――『アメイジング・グレイス』に照らし合わせると、なかなか示唆的である。仮に、「恵み」が「街」を、主人公たちを「safe」である「遠く」=12月25日の向こう側へと運んでくれたのだとすれば、次の一節は益々意味有りげなものへと変貌する。「やがて恵みは、私を『家』まで連れていってくれるだろう」。この「home」が何を指すか、難しいところだ。歌詞全体の流れを踏まえると、「信仰」というあるべき場(姿)への回帰、或いは神の下(=死後の王国)と言ってみたくなる。聖書では、そのような使われ方は少ない。そもそも、多数ある英語訳のどのバージョンで「home」が使われていたか、そしてその「home」はギリシャ語やヘブライ語のどの言葉の翻訳なのか、検討しなくてはならない。ここでは紙面の都合そのようなプロセスを無視しておく。一言指摘すると、旧約聖書中「コレヘトの言葉」で使われる「home」は、おそらく死後の世界のことを指しているが、それ以外についてはなんとも言えない。

 

とにかく、「home」という語については議論の余地がある。肝心なのは、『アメイジング・グレイス』においては、「home」が本当に家族或いは家を指しているかもしれない、ということだ。「街」にいた子は皆、親から離れて生活していた。それを踏まえた上で、アフターのあるキャラ4人のうち半分で帰省の描写があった、という事実を振り返ってみると、もしかしたらこの辺りが効いているエピソードだったのかもしれない、という気もしてくる。

 

とはいえ、そもそも「safe thus far」が『アメイジング・グレイス』の中でどのように扱われたかも定かではない。上では、あたかも当然のように「12月25日以降の世界」とした。これは、実はぼかした表現だ。アフターを見れば分かるとおり、実はどのキャラとの人生を選択しても、12月25日の向こう側を「safe」に迎えることができる。もちろん、これこそが「grace」であると捉えることも十分に可能だ。いや、むしろ、「これも『恵み』の形だよね」とでも言った方がいいかもしれない。

 

こういう表現をすると気づく人も多いだろう。アフター4ルートのうち、明らかに2ルートは、ハッピー全開な世界に進んでいない。キリエやコトハと共に歩む世界は、幾ばくかの悔恨を残した。この溢れるノーマルエンド感が、果たして制作側の意図したものだったか、という問題が残る。

 

その答えが、雑にまとめた「Thor' many dangers, toils and snares」にあるかもしれない。「danger」はシンプルに「危険」、「toils」は難しいところだが「労苦」としておこう。では、「snares」はなんと訳すべきか。現在の日本におけるスタンダードな聖書訳である新共同訳を参照すると、「罠」「網」といった語で示されている。つまり、この一節では、「多くの罠を乗り越えて」「安全な遠くまで来た」と言っているのだ。「罠」……深読みしたくなる単語だ。そう思うと、「far」というのは、物語構造の一番奥、そこを指しているのかもしれない、という思考にも辿り着く。すなわち、あらゆるトラップを抜け、犯人を突き止め、崩壊を本当に止めたその先。そここそが「far」なのではなかろうか。だからこそ、サクヤとユネはハッピーエンドなのだ。

 

とはいえ、この物語をやって、サクヤよりユネが印象に残った、という人を探すのは難しいかもしれない。その意味で言えば、ユネとサクヤも決してイーブンではなかった。サクヤはメインシナリオ中で相当目立つ告白シーンをもらったのに対し、ユネは本当に結末も結末という部分まで待たねばならない。そう考えると、むしろ逆に、見せ場の分かりやすいサクヤよりも、ユネの方がやはりこの物語の本筋なのだろう、という結論に落ち着く。思えば、ユネルートに進むのは大変だ。他のヒロインとのルートは、「このヒロインとのルートに進む」という前向きな選択で進入できるのに対し、ユネルートは、常に否定的な選択肢を選び続けなければならない。「運命を受け入れない」「キスをしない」などなど。そうした選択肢一つ一つが「罠」だというのならば、極めて婉曲的な描き方ではあるが、ユネこそがセンターヒロインだと言えるだろう。手の込んだ作品だ。

 


 

最後に、「罠」の他に「危険」「労苦」も含めて、「艱難を乗り越え」という語から連想した話をして、この感想を〆たい。

 

こう思ったことはないだろうか。なぜ神は、信じる者たちをいじめるような行為に手を染めるのか。もちろん、作中バベルの塔の逸話で若干触れられたとおり、神はそもそも、自分で選んだノアの子孫にブチギレるというよく分からない性質を持っている。とはいえ、あれは神に対し不敬だったからで、自らを信じる者たちに対して、となると、少し話が違う。

 

冒頭、「Amazing Grace」は、「恵み」を単なるハッピー全開お気楽なものとは捉えていない、という話をした。あれもあれで、信仰の端緒というものが鍵となっているので直接的に用いることはできない。とはいえ、参考にはなるだろう。

 

聖書の中で最も知られた一節に、次のようなものがある。

 

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

 

コリントの信徒への手紙 一 10.13 訳は新共同訳.

 

 

乗り越えられる試練しか与えない。この、極めて前向きな解釈こそ、「恵み」を理解する鍵ではなかろうか。

 

ここの「試練」という言葉は、英語では「Temptation」となっている。日本語に直すなら「誘惑」だ(ギリシャ語と英語の対訳をいろいろと参照したが、「trial」の意味合いもあるようなので、「試練」でも正しい)。多くの他の結末、妥協という「誘惑」を乗り越えた主人公には、きっとこの言葉も真に迫ったものとして聞こえるだろう。

 

そういえば、主人公は決して、神の奇跡だけに頼らなかった。主人公が街だけでなくユネをも救うことができたのは、ひとえに主人公が機転を利かせ、最後の最後で赤リンゴと青リンゴのギミックを使い切ったからだ。神は、黄金のリンゴは、主人公たちを選んだのではない。曰く、神は乗り越えられる試練しか与えない。ならば、最初から「逃れる道」=正解が用意されていたとしてもおかしくはない。主人公が最後の最後に正解を選んだのだ。

 

神が真に祝福したのは、ユネの真摯な祈りではなく、その祈りを胸に決して誘惑に屈さなかった主人公ではなかっただろうか。そう思うと、消極的な選択をし続けなければならないユネルートが真の解決編である、という先に述べた結論が、いよいよ私たちの前に迫ってくる。メリークリスマス、シュウ。ハッピーバースデイ、ユネ。曰く「神の視点」たるプレイヤーからも、せめて精一杯の祝福を。

 

(了)