Mashiro Chronicle

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【試論】ビジュアルノベルにおける「全体」序説: 『TrymenT』について

ライプニッツ記号論の端緒を紡いでから数世紀、人類は未だ、一つの記号体系への統一に向けた苦闘の最中にある。要するに、表現の形式によってメッセージそれ自体が変質する、といった、もはや古臭さを感じさせるような議論から――皮肉なことに――脱却しきっていない。これは、認知云々以前の話である。

 

特に、マルチメディアを駆使する「作品」において上記の事実は深刻かつ本質的な問題と化するのだが、実際のところ、特に商業的な利益を目指すようなプロジェクトにおいて、この問題は所与の前提の前に忘れ去られている。すなわち、形式が先立っており、その後構造などが固まるパターンが圧倒的に多く、「そのメッセージに最も適した形式」が検討されるケースはほとんど無い。

 

しかしながら、形式がある程度固まっている状態であろうとも、その内側において最善を目指す努力は当然為されるべきである。むしろ、そこにこそクリエイティビティもクリティックも姿を現すと言ってよいはずなのだが、とりわけビジュアルノベルの近傍においては、どちらもそこへ向かっていない。この理由としては、個々の要素の創作と議論に終始する界隈の風潮や、キャラクターを重視し過ぎる制作フローが挙げられるだろう――いや、いずれも尊重すべき議論や慣習であり、さらに言えば、結局そこに辿り着くのであるが、ここで主張したいのは、その前段階としてのマルチメディアのマルチ性に関する話題があまりにも看過され過ぎている、という実態の方である。

 

以下、具体例を挙げ、形式に向き合っていたはずの作品がなぜいつの間にか形式に裏切られていたかを短いながらに検証していくことで、ビジュアルノベルにおける個々のメディアの繋がりについて考えていきたい。敢えて大言壮語を吐けば、これはビジュアルノベルの「全体」に関わる議論、その嚆矢である。

 

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2020年の初め、『TrymenT』なる全年齢向けの作品がリリースされた。これはニュートラルな意味で「問題作」である。実態としては『Re: LieF』の全年齢向けリブート版と言うべき企画であるが、シナリオの内容には相当のブラッシュアップが施されている。CG面での洗練も素晴らしい。

 

ではなぜ「問題作」なのかといえば、これが形式の面で相当の――相対的に、だが――挑戦をした作品だったからである。その「問題」性それ自体に関して善悪の価値判断はしない。なぜならば、その挑戦は、シナリオ側から見れば半ば必然的に挑まざるを得ないものであり、まさに上述の意味でクリエイティビティが発露した結果現れたものであったからだ。

 

ただ、「問題作」らしく、体験版の段階で面食らうプレイヤーも相当多いと思われる。まず、シナリオの文体が三人称で一貫している。これは通常のビジュアルノベルではまず考えられないことだ。普通、ビジュアルノベルはなんらかの視点人物を用意し、そのキャラクターに状況の説明や心情の吐露の一切を任せる。対して、『TrymenT』は、視点人物を一切放棄し、徹底的に三人称の視点を貫く。その形式上のこだわりは相当強く、たとえば(三人称視点ではなく)三人称小説で見られるような、「XXは嬉しく思った」といった、キャラクターの心情を解説するような文もそのほとんどが排除されている。もちろん、「XXは嬉しそうに飛び跳ねた」といった、動作の修飾を兼ねた形での表現は頻出するが、それでも通常の一人称視点ビジュアルノベルに比べると相当の規制を自らに課したと言えよう。

 

また、エピソード間の繋がりに関してもかなりの工夫が施されている。エピソードごとに(視点人物ではなく)中心人物が頻繁に切り替わる上、そもそも時空間が全く連続していない。時間も空間もバラバラに切り離された状態で個々のエピソードは進行し、それらがパッチワーク状につなぎ合わせられていくことで、シナリオの全体像を提示する形式を採用しているのだ。あるいは、モザイク画的、と言ってもよい。個々のエピソードの解像度は、近視的にはかなりのものがあるものの、それがシナリオの流れの中でどこに位置しており、どのような意味を持たされているのか、それは特にゲーム開始当初全くと言っていいほど明らかにされない。

 

このような文体とシナリオ構造に関する工夫は、『TrymenT』の企画者/シナリオライターがおそらくは描きたかったであろう何かから計算すれば当然のものであった。ここではそれを仮に《メッセージ》としておく。この《メッセージ》には、これもおそらくだが、有史以来相当の数の人間がチャレンジしてきた。その中で採られてきた代表的な手法としては、なんらかの特徴ある人物一人に焦点を当てる、というものが挙げられる。また、同じようで実は違うのだが、なんらかの特徴ある人物一人の《視界》にひたすらこだわる、という手段も採用されてきた。だが『TrymenT』は、そうした技法を敢えて採用しなかった。その理由は、この《メッセージ》が根本的に抱える「全体性」にある。前述したような二つの技法は、それを通じて《メッセージ》の抱えるひずみや矛盾を露呈させる際に極めて有効なのだが、《メッセージ》全体を描くのに適しているとは言えない。むしろ《メッセージ》は、それら数多の矛盾を抱え込みながら未だ「全体性」を保持し続けている。

 

ではどうすればいいのか。すぐに思い浮かぶのは、上述の作戦を数の面で拡張し、「できる限り多様な登場人物を提示し、そのいずれもについて綿密に描き込む」という手である。だが、十九世紀に活躍したどこぞの大文豪ならともかく、普通このような手法は成功しない。成功した事例はそれこそ片手で数え上げられるだろう。これを狭義の群像劇とすると、次に候補となるのは、広義の群像劇である。なんらかの事件(群)について、それに関わる人々がどのような行動を取ったのか、その行動の結果事件はどのように動いていったのか、を描写していく手法だ。事件に対する距離をサンプルとなる登場人物ごとにばらけさせることで、事件の多様な側面を描いていくことができる。『TrymenT』がやりたかったのはこちらであろう。

 

だが『TrymenT』はここでもう少し考えこむ。果たしてそれだけで《メッセージ》を描ききれるのだろうか。《メッセージ》が全であるのは、空間的に、というだけでなく、時間的にもそうなのではないか。それを描写するためには、《メッセージ》の時間的連続性を露呈させる必要がある。逆説的だが、そのためには、《メッセージ》の時間的連続を一度解体する必要があった。考えてみれば、《メッセージ》はそもそも矛盾を大量に孕んだものであった。それを認めつつ、まだらながらに連続であること――連続の中に断絶があること、あるいは、断絶の中に連続があること――を示すには、時系列を切り刻んだ上で、それを最後に綴じ合わせるしかない。なるほど、考えれば考えるほど、『TrymenT』は相当に真面目な作品だと分かる。

 

ここに至って、『TrymenT』はシナリオについてかなりのクリエイティビティが注がれた作品であると結論づけられよう。しかしそれは、『TrymenT』が別の意味で《問題作》である理由でもある。空間的時間的に不連続なエピソード群を描写するにあたり、『TrymenT』は視点‐文体を徹底した三人称に設定せざるを得なかった。この必然性は、同じような構造のシナリオを一人称で描くとどうなるか想像してみれば理解できるだろう。そもそも、広義の群像劇に仕立て上げたかった理由は「一つの側面からでは描ききれないものがある」であった。その上で、数多の「一人の視点」によって群像劇を構成してしまうと、最後に提示したい《メッセージ》がいずれの視点から観測されたものなのか分からなくなってしまう。あるいは、特定の視点から見た《メッセージ》に終始してしまうだろう。それならば、最初から視点を特定の誰かに固定させておいた方が良い。こうして、『TrymenT』は、個々の人物の心情にも潜り込むことなく、ひたすら外面を観察する三人称の文体を貫徹させることとなった。

 

問題は、それをシナリオ以外の要素が理解できていたか、という点にある。例として立ち絵芝居、スクリプトを取り上げてみたい。これも、体験版を紐解けばすぐ分かる話であるが、『TrymenT』の立ち絵芝居は相当「工夫」されている。各キャラクターの立ち絵におけるポージングがまず「工夫」の一つだ。文体の三人称に合わせる形で、特定の誰かに対して正面を向くことなく、それぞれのキャラクターが画面内で向き合えるよう設計されている。

 

ただ、この「工夫」は多くの人が想定しているよりだいぶ難しい問題を孕んでいる。というのも、これは演劇的な構図までしか取ることができないからだ。そう、『TrymenT』の立ち絵芝居とはただしく芝居なのである。映像の世界とその近傍では、画面の向こう側にいるプレイヤーの視点をカメラになぞらえがちだが、ことビジュアルノベルに関してはそうとは言えない。カメラであれば、比較的任意に画作りを行える。しかし、ビジュアルノベルは、その素材の量及び質の制約から、立ち絵芝居において設定可能な画の範囲が定まっている。簡単な例を挙げると、背景素材で全く想定していない空間は描写できない。また、人物を立ち絵素材で予め設定された角度以外から映すこともできない。こうした制約は、立ち絵や背景の素材数、また任意に画作りを行えるイベントスチル(いわゆるCG)の数をとにかく増やすことで緩和できるが、実際問題商業制作において無限に近い素材数は要求し得ない。すると、立ち絵芝居は必然的に演劇へ接近していく。

 

『TrymenT』の場合、さらに災難だったのは、三人称の視点を貫徹しなければならなかった点であろう。『TrymenT』は立ち絵素材の数に関して言えば相当恵まれている方であるが、たとえば同じ素材量でも、一人称視点を設定できた場合、振り向き立ち絵などを用意することで、より簡単に空間的な奥行きを表現し、かつ、「演劇らしさ」を低減できた。

 

ここで、ビジュアルノベルが演劇になってはいけない、と主張したいわけではない。意図的に演劇へ近づけていきたいのであれば、こうした効果はむしろ積極的に狙っていくべきであろう。ただ、『TrymenT』に関して言えば、《メッセージ》それ自体がある種のリアリティを要請している都合、これが芝居であると悟られてはいけなかった。もちろん、演劇であってもリアリティは担保し得るが、ここで指摘したいのは、そのような斜め正面を向き合う構図で必然的に生じる中央の「隙間」によって、キャラクターの言動が相対する別のキャラクターだけでなく、「隙間」を埋めるべき存在たるプレイヤーに向かっても放たれている、少なくともその効果が副次的に生じてしまっている、という点である。それによって、『TrymenT』は本来狙うべきリアリティから離れてしまったのではないか。筆者の疑問はまずここにある。ビジュアルノベルの画面に映るものが真にカメラ的であれば、これは生じ得ない問題であった。

 

ビジュアルノベルの立ち絵芝居やスクリプトにおける、画作りの角度に融通が利かない、という制約は、しかし、これよりもさらに大きな問題を『TrymenT』にもたらしている。それは、シナリオで徹底されていたはずの三人称視点の崩壊、という形で露呈している。

 

筆者は、『TrymenT』のゲーム(あるいはビジュアルノベルとしての『TrymenT』)それ自体に初めて触れた際、言いようのない違和感を終始覚えた。このシナリオは、常に三人称で進行している。それは間違いない。三人称にせざるを得なかった理由も分かる。だが、終始三人称の文体で進行するビジュアルノベルに慣れない以上に、『TrymenT』のもたらすエクスペリエンスに慣れなかった。この作品は、どこかでバランスを失っているのである。

 

その理由は、敢えて誤解を招く表現を用いれば、スクリプターの直感に求められる。普通、立ち絵芝居や背景の操作を担当するスクリプターは、自らが「気持ちいい」と思うような進行に仕立て上げる。そして、だいたいの場合、それはディレクターやプロデューサーなど、然るべき役職の人間によるチェックを通る。この「気持ちいい」に従っていればよい、という規範を「快楽原則」と言う。究極的なことを言えば、この「気持ちいい」を完全に把握しきっている人間がスクリプトを担当すれば、その作品は唯一無二のものになる。そこに矛盾も狙っていない違和感も一切生じないからだ。

 

アニメの絵コンテなどでは、たまにこの「気持ちいい」を極め尽くしたような人間が現れることもあるのだが、実際問題、ビジュアルノベルスクリプターでその領域にまで到達している人を見かけたことが無い。ただ、それにはビジュアルノベルにおけるコスト面での制約も関係しているので、ほとんどの場合あまり強くは言えないところだ。

 

その点、『TrymenT』のスクリプトはリッチで、いかにも「工夫」に満ちている。まず、画面が保っていない、という時間が無い。「画面が保つ」という表現も、かなり直感的なものだ。スクリプトの実作業においては頻出の単語であるが、その実、「やっていて冗長に感じる」「動きがなくて寂しい」など、スクリプターやチェック担当者の様々な主観的評価を一言に集約した表現である。

 

『TrymenT』がスクリプトで頑張らざるを得なかった理由は幾つか推測できる。一つには、シナリオがあまりに淡々と三人称の文体で進行するため、エピソードの内部において緩急を付けにくかった、という事情があるだろう。『TrymenT』のシナリオは、再三繰り返しているように、テクスト面では相当徹底された作りになっており、基本的に地の文では動作しか表現されない。また、込み入った状況を客観視点から冷静に描くため、キャラクターの熱量を伝えにくい。その帰結があの短く切られた文である。

 

もう一つには、似たようなことだが、この作品が《メッセージ》第一主義に陥るあまり、「ここが盛り上がりどころ」とプレイヤーに提示しづらかった、という点も挙げられよう。これはエピソード内部に限らず、エピソード間での比較についてもそうである。先に述べたように、特に前半、『TrymenT』は確信的にエピソード群をバラした上で提示している。要するに、エピソードとエピソードの間の繋がりを全く見せていない。そのため、プレイヤーはどうやっても、順を追うだけでは、盛り上がりの予兆を感知できないのである。

 

エピソードの内部ではテクストで徹底的に熱を削ぎ、エピソードとエピソードの隙間も大きく見せる。これではいかにも「画面が保たない」。キャラクターの立ち絵を配置する前から、それこそ直感で理解できる。

 

スクリプターが苦肉の策で採ったアイディアは、とにかく黒や白を前景に配置し、画面に映る背景を絞る、というものであった。これは相当に強力な手法で、普通乱発はしない。というより、する必要が無い。それほど「画面が保たない」状況に追い込まれるケース自体滅多に無いからだ。だが『TrymenT』はこれを多用した。普通、黒挿し・白挿しといえば、「シネスコ」と称される、上下に細く入るもののみを指すが、『TrymenT』はそれに限らず、とにかくあらゆる種類の黒挿し・白挿しを採用している。左半分のみ映す、右半分のみ映す、上下の幅をさらに狭める、などなど、羨ましいくらいに手段が豊富だ。

 

ただ、この黒挿し・白挿しによる画面の変化は、部分的にスコープの効果を生むことがある。画面に表示される背景が制限されるので、事実上拡大しているのと同義なのだ。実際に背景を拡大した状態で黒挿し・白挿しを実装するケースも多い。そして、このスコープ、あるいはファインダー的効果こそ、『TrymenT』最大の誤算であった。

 

何度も述べているが、『TrymenT』はそのシナリオ構造からして三人称を貫徹する必要があった。そして、それは当然のことながら、シナリオだけでなくスクリプトや立ち絵芝居においてもそのようになるべく仕組まれていた。肯定的に捉えれば、「芝居」になることを覚悟で立ち絵のポージングに「工夫」を施したのであるとも言える。それもこれも全て、シナリオの要求に応えるためであった。

 

だが、そこで安易に黒挿し・白挿しを実装するとどうなるだろうか。たとえば、体験版中、中心人物ではないあるキャラクターが冷蔵庫を開けるシーンを見てみよう。直前まで引きの画でキャラクターの立ち絵もあったところ、冷蔵庫を開く件に至って、背景がアップになり、右半分に黒が挿入される。この瞬間、キャラクターの立ち絵も消える。こうすることで、背景全体では左半分に小さく描かれているだけの冷蔵庫のみが画面に映り、結果、プレイヤーの関心は冷蔵庫に惹き付けられる。それは間違いない。問題は、プレイヤーはこれを誰の視点と捉えるのか、というところにある。

 

作品の受け取り手側は、常に視点を一致させる先を求めている。それは神の視点を持った語り手かもしれないし、二人称で語られる「あなた」かもしれない。いずれにせよ、プレイヤーは誰かしらの視点に自らを滑り込ませることで、物語世界に没入しようとする。『TrymenT』はその点、徹底して「機械の目」で文章が進行していく。地の文は誰の心情も明示せず、動作とその結果を淡々と述べ続ける。プレイヤーはなんとかそれに納得してゲームプレイを進めていくのだ。

 

ところが、画の方はどうか。冒頭、プレイヤーと作品の間において、「これは三人称で進む物語なんだ」なるコンセンサスが得られていない状態で違和感を覚えるのはどうしようもない。これはシナリオ構造上どうしても発生するコストである。しかし、ある程度物語が進行してきた状態で、上記の例のように「一見誰かの一人称視界」に見える画作りが為された場合、どうなるか。しかもそれが、誰かとの重要な会話などではなく、冷蔵庫を開けるといったような、本来些細なはずの動作/描写で発生するとどうなるか。議論するまでもないことである。

 

すなわち、『TrymenT』は、普通絶対に大丈夫なはずの「快楽原則」に従ったところ、作品の仕上げの段階でコンセプトやコンセプトから導かれる演出プランが揺らぎ、結果として奇妙な違和感を常に与え続ける作品になってしまったのである。これは明らかに、《メッセージ》を表現する際ノイズになる。すなわち、《メッセージ》が変質している。もし仮に、『TrymenT』はなんとなく一人称っぽい、という感想を抱く人がいれば、それはシナリオ、特にテクストのせいではない。むしろ、シナリオをビジュアルノベルというメディア形式に落とし込む際発生したエラーに気を取られているのである。

 

このようなスクリプト上の問題は、普段滅多に前景化しない。大抵の場合、よほど無茶なことをしなければ物語はつつがなく進行していく。そのため、特に時間的制約が厳しい商業制作のビジュアルノベルでは、ベターな選択肢があるかどうかすら検討しないことも多い。

 

また、最初に検討したような視点の問題も、なかなか議論にならないところである。文学の歴史を紐解いてみると、こうした形式上の視点人物の問題は、実制作者=作家による創作論が土台となっている。その点、ゲームのシナリオライターによる創作論が活発になってきたのは、それで個人がマネタイズできるようになったここ数年のことであり、むしろこれからのフィールドである。

 

さらに付言すると、シナリオライターによるシナリオ至上主義、あるいは逆に、原画家・グラフィッカーによるイラスト至上主義の弊害もここに浮上してきている。このようなスクリプト上の問題、あるいは他にも、音響上の問題、システム/UI上の問題など、本来議論すべきことは山のようにあるにも関わらず、実際には、現場で決定権を握っている人がどのようなキャリアを持っているかによって、こうした問題のうち幾つかは等閑視されている。このような現象はアニメ産業でも観測されるが、少なくともアニメにおいては、監督やスタジオのカラーと言える水準で物事が収まっている。これには、予算や人員の問題の他、監督になるまでに積むべきキャリアの長さなども影響していると思われる。翻って、ビジュアルノベルは、比較的若い人でも決定権を入手できる代わりに、「全体」に対する視座を持ち合わせていないケースも多い。

 

個々の作品について、プレイヤーがどのように受け止めるか。作品の作り手側は、流石にそこまで管理できない。しかしながら、何かを発信する段階で生じ得るような「メッセージ」の変質を防ぐことはできる。そうした「メッセージ」の変質は、たとえば今まで見てきたように、マルチメディアを構成する一要素を「全体」に落とし込む際発生するものである。となれば、シナリオ至上主義だろうとイラスト至上主義だろうと、いやむしろ、何らかの要素について徹底したこだわりがあればあるほど、他の構成要素の勉強をしなくてはならない。仮にその勉強の上施された《工夫》でも解決し得ない課題に直面したとすれば、それは作品がビジュアルノベル自体に対して批評的と言えるレベルにまで到達した、ということである。本来「作品の品質が」と言う時に理想として掲げられる何かとは、このような意味で批評的なものではなかったか。冒頭、クリティックがクリエイティビティと同じところにある、と述べたのは、このような文脈を念頭に置いてのことであった。

 

 

(了)