Mashiro Chronicle

長文をまとめる練習中 割となんでも書く雑食派

詞について考える待降節2020【楽曲オタクAdvent Calendar 2020企画】

このエントリは、なまおじさん(@namaozi)主催、【楽曲オタクAdvent Calendar 2020】用の記事だ。わたし個人としては2019に続き2度目の参加となる。

 

2020年の締めくくりに、優れた楽曲オタクたちが次から次へと音楽を紹介してくれる。音楽に興味がある人もそうでない人も、よければ下のリンクから他の記事も読んでみて欲しい。

 

    --楽曲オタクAdvent Calendar 2020(公式)

    

adventar.org

 

 

Index

 


 

0 (self-)Introduction

 

まずは、去年と同じように懺悔から入りたい。

 

実を言うと、わたしは楽曲オタクではない。楽曲オタクとはなんぞや――難しい問題だ。正直、自称できるほど自信があれば、誰でも楽曲オタクなのだろう。問題は、わたしにその自信が無いというところにある。

 

わたしが去年、このAdvent Calendarに参加した理由は、知己のめがねこ(@srngs_meganeko)が記事を執筆していたからだった。今年、そのめがねこは、掛川さん(@eomg_)の同人サークル、魚座アシンメトリーの新譜に作詞で参加した。

 

    --「side by side」/魚座アシンメトリー

 

pisc-n-asym.booth.pm

 

ちなみに、Advent Calendar企画の主催であるなまおじさんは作曲で参加。掛川さんご本人も逆に、Advent Calendar企画へ2年続けて記事を卸している。

 

彼らは音楽を聴いている量も作っている量も桁違いだ。わたしの中で楽曲オタクとはこういう人たちのことを指す。

 

翻って、わたしはあまり音楽を聴いていないし、主体性を持って音楽活動に取り組んでいるわけでもない。そういうわけで――少なくともわたし自身のうちにおいて――わたしは楽曲オタクではない。

 

ただ、わたしは某中堅ビジュアルノベル開発企業にアルバイトとして勤めていて、都合、BGMやボーカル曲の制作/製作などにわずかながら関わっている。そういう人によって書かれた記事が1本や2本あってもいいだろう、という甘い考えのもと、2020年もこのAdvent Calendar企画への参加を決めたのだった。

 

というわけで、去年と同じく、〈音楽を《作る》〉〈音楽を《聴く》〉の二大要素に、〈音楽を《使う》〉というものを加え、これら3つの視座を場面場面で交代させながら話を進めていきたい。去年の【サントラ】に代わるテーマは、【詞】。自分で言うのもなんだが、極めて恣意的なテーマ設定だ。メジャーどころが多い割に統一性の無い選曲……のように見えて実は、ということである。わたしの氏素性を知らない皆さんでも楽しんでもらえる記事にはなっていると思うので、そこはご安心を。

 

相変わらず前置きが長い。では、そろそろ本編へ*1

 


 

Ⅰ 音楽を《作る》──詞の具体、詞の抽象

 

1 そばかす/JUDY AND MARY

 

 

その昔、こんなことを思った。どうして世のレビューには、作曲や作詞の技法に踏み込んだものが少ないのだろう、と。実際には、単にわたしがそういうライナーノーツや解説に触れていなかっただけなのだが、しかし、世間一般の人向けに書かれた文章に限ってみると、やはり技術に焦点を当てたものが少ない気もする。とりわけ詞については、詳しい解説は詳しい解説で、どこか〈細かい〉技術の話から遠ざかっている印象もある。

 

最近ようやく、どうして少ないのか、どうして世間の目から離れたところにしかそういう〈メモ書き〉が残されていないのか、その理由の一つがなんとなくわかってきた。世間の人は、技術で音楽を聴かない。彼らは、もっと直感的で――作り手にとっては残酷なことだが――素直に音楽と接する。そういう人にとって、技術の話は小難しい上に本質的でないように感じられて、音楽体験の邪魔にしかならない。

 

翻って、作っている側からすると、その手の〈細かい〉技術の話はもうとっくの昔に飲み干してしまっている。〈わかっている〉ことをいちいち口に出すのは面倒くさい。よほど見事な出来でないとそこに言及する意味がないし、そこまで見事なら、少なくとも同業者間であれば、言わなくても通じる。結果として、特に詞については、なかなか技術的な話を見かけないのであった*2

 

その意味で、JUDY AND MARYの詞もやはり、〈細かい〉技術の話があまり為されない。実際、JUDY AND MARYの詞において、そういう〈細かい〉技術の話題は重箱の隅でしかないと思う。

 

では、JUDY AND MARYの美味しいところはどこなのか。わからない。手探りだ。JUDY AND MARYは参照点になりがちなアーティストで、「ジュディマリっぽくお願い」「ジュディマリっぽく作りました」という案件は世に溢れている。だが、作曲や編曲の方はさておき、詞について、〈ジュディマリっぽい〉の合意は雰囲気で形成されている。しかも大抵の場合、実は全員違う解釈をしていました、というオチが待ち構えている。

 

頻繁に指摘されるのは、〈女性的〉というところ。しかし、〈女性的〉とはなんなのか、そこに踏み込んだ文章はあまり見ない。説明しづらいのだ。この「そばかす」も、凄く(女の子らしくもありつつ)〈女性的〉だ。わたしもそう思う。一方で、〈女性的〉とはなんなのか、それは説明できない。

 

言われてみれば、まだ〈女の子らしい〉の方がわかりやすい気もする。ただ、これにしても、ぬいぐるみだとか角砂糖だとか、そういうイメージの単語を並べればなんとかなる話ではない。それっぽくはなるのだけれど。ここで躓いていては、〈女性的〉などおし広げて説明できるはずもない。

 

困った。1曲目からこの惨状だ。仕方なく、聴いていて一番〈女性的〉だと思った部分を書き並べてみた。

 

おもいきりあけた左耳のピアスには ねぇ

笑えない エピソード

 

そばかす/JUDY AND MARY Lyrics: YUKI

 

この、近すぎる身体へのまなざし。これこそが、その辺に転がっているオスには逆立ちしても書けない詞なのかもしれない。あり得ないほど近い、具体的なエピソードが、普遍を獲得している。この奇跡が、〈女性的〉なるものの源なのだろうか。いや、もしかしたらこれは、〈詞〉のもたらす妙の源かもしれない。朧気ながら、そんなことを思った。

 

***

 

2 Champagne Supernova/Oasis*3

 

 

日本に生まれた日本語遣いが英語で詞を書く。これはもう、それだけで一大事業だ。言うまでもないことだが、日本語と英語はぜんぜん違う。びっくりするほど違うのだ。ちょっと英語ができるからと調子に乗って英語詞を書くと、全く上手くいかない。学校では教えてくれないトラップがそこら中にあって、しかも、英語ネイティブスピーカーはそのトラップを意図的に踏み抜いてくることすらある。日本で生まれ育ったわたしに、そんな細かな押し引きのミソは全くわからない。

 

どういう洋楽を聴いたら英語の詞がわかるようになるのか――よく聞かれる質問だが、そんなものわたしが知りたいくらいだ。母音の長短、強勢、リンキング……別に、英語の詞は脚韻だけでできているわけではない。脚韻を無視していいわけでもない。

 

こんなことをうっすら思いながら、Oasisの2ndを聴いていたら、ふとある考えがよぎった。世間体で言えば兄弟仲が凄まじく、日本では狭い意味での音楽やサウンドの話ばかりされるユニットだが、実はOasisの詞は正統派かもしれない。

 

Wake up the dawn and ask her why

A dreamer dreams she never dies

Wipe that tear away now from your eye

 

Champagne Supernova/Oasis Lyrics: GALLAGHER NOEL THOMAS

 

響きが群を抜いていい。メロディのリズムパターン――弱拍と強拍の組み合わせ――に言葉が上手く乗っている。

 

だけれどもやはり、Oasisの詞の魅力は、この響きの裏側にある、普通の人より数段高いところで歌っているくせに、世界を270度くらい捻った角度から見ているような言葉の並びだと思う。わたしとあなた、その双方を冷めた言葉と熱い文脈で捉えきっている。抽象さ加減も絶妙だ。引用箇所に限らず、内容面でのレトリックは豪快だが、どこかで具体に繋がっている。

 

そんなことを職場で言ったら、上司から、「いやOasisの魅力は曲だよ。詞なんて、英語だから何言ってるかわかんないし」と返されたのだった。英語に限らず、詞とは案外、その程度のものだ。

 

それでもわたしは、Oasisの詞の、このひねくれた根性が好きで好きでたまらない。1990年代もてはやされた〈クール〉な英国音楽の神髄は、ここにあるのではないか。なんと言っても、そのひねくれたものの見方は、時に誰かを救いあげるかもしれないのだ。3rdアルバム収録の「Stand By Me」を聴いていたとき、そう思った。

 

 

There is one thing I can never give you

My heart will never be your home

 

So what's the matter with you?

Sing me something new

Don't you know, the cold and wind and rain don't know

They only seem to come and go away

 

Stand By Me/Oasis Lyrics: GALLAGHER NOEL THOMAS

 


 

Ⅱ 音楽を《聴く》──流行とわたし

 

3 私たちはまだその春を知らない/AiRBLUE

 

 

2020年は、ライブコンテンツ、ライブカルチャーにとって不幸な1年だった。春先からライブというライブが中止になり、アニメやゲームの世界、あるいはその周りで確立しつつあったライブ文化はひとまずの休止を余儀なくされた。

 

このシングル「beautiful tomorrow」は、コロナウィルスの流行拡大が本格的に騒がれ始めた頃に出たものだ。メディアミックス企画『CUE!』、そのメインラインを構成する1枚でもある。

 

当初、表題曲「beautiful tomorrow」をなぞる形で、5月に「Hello, beautiful tomorrow!」なるライブイベントを開催予定だった。わたしも、そのチケット争奪戦に備えるべく、このCDを縦積みした。残念ながらこのイベントは中止になったが、感染症騒ぎが小休止となった11月、代替ライブイベント「See you everyday」が川崎で開催されたのだった。 

 

このシングルのリリース当初、『CUE!』の追っかけからいわゆる楽曲オタクまで、その注目は表題曲よりもむしろカップリング「私たちはまだその春を知らない」の方に注がれていた。楽曲オタクが注目したということは、たぶん、凄く流行に敏感な曲づくりだったのだろう。詞の方も、この数年ほどなんとなく耳にする、〈エモさ〉=別離、特に若い頃の時間への意識(あるいは無意識)にきっちり焦点が合っている。

 

いつか一人一人になる時に

どんな色が 見えるのだろう

君が急に 私に 聞いた

 

私たちはまだその春を知らない/AiRBLUE Lyrics: SHILO

 

そもそも『CUE!』自体、新人声優を集めたコンテンツということを除けば、セールスポイントはこの〈エモさ〉への意識だった。実際、わたしもそこに惹かれて始めた……わけではないが、追い続けた理由の一つはそこにある。

 

しかし、正直な話をすると、この曲を初めて聴いたとき、わたしは困惑した。これがライブで流れたとき、わたしがどんな反応をするのか、さっぱり想像できなかったからだ。曲の〈エモさ〉ばかりが際立っていて、ライブに向かないのではないか。そんな不安がちらついた。

 

季節は流れ、この曲がライブで初めてかかったのは、春どころか秋の終わりだった。明らかに5月のライブで掛けることを念頭に置いた曲ではあっただけに、11月のライブでは流せないのではないか、と思っていたのだが、『CUE!』の「See you everyday」といえば、そんな問題が吹き飛んでしまうような――観客の想定はおろか、期待すら遥かに超える熱量で作りこまれた――とんでもない代物と化していた。

 

結論を言ってしまえば、前述の不安は杞憂だったということだ。いや、11月のライブには確かに向いていなかった。ありあまる熱量が「私たちはまだその春を知らない」を全く別の曲へと変貌させてしまったからだ。それに、延期に延期を重ねた末のライブという特別感が、ライブそれ自体を物語へと仕立て上げてしまった結果、幸か不幸か、ライブの中にこもる〈エモさ〉が楽曲単体のそれを軽々越えてしまったのである。さらにさらに、夜公演でのTVアニメ化発表パンチだ。これで「私たちはまだその春を知らない」一つの感想を長々と書け、と言う方が無理な相談だろう。

 

それくらい、ライブの熱量はすさまじかった。一番驚いたのは、Bird*4の「にこにこワクワク 最高潮!」。

 

 

CD音源版を聴いた人は、別の意味で驚くかもしれない。これのどこに熱さがあって、どこにライブ向きの要素があるのか。むしろ(・・・)その疑問の(・・・・・)うちにこそ(・・・・・)、わたしのひっくり返った理由がある。げに、ライブカルチャーは素晴らしい。

 

***

 

4 ヒトリゴトClariS

 

 

わたしはだいたい流行から周回遅れなので、何かを聴くのは大抵ブームが過ぎ去ってから。2020年も、今さらFlipper's Guitarの1stを聴き直してみたり(まさしく英語で詞を作る大事業!)、なんとか話題についていこうと「A LONG VACATION」を流してみたり*5、なんとも言えない微妙な流行の追いかけ方をしている。

 

実を言うと、声優ソングなど広義アニソン*6についても似たような感じで、「23時の春雷少女」*7を聴いたのはリリースされてから3ヶ月後のことだった。

 

ClariSも、本当ならそうなる運命だったのだが、何があるかわからないもので、様々な因果の糸が絡み合った結果、なんとシングル「アリシア/シグナル」はリリース直後に聴いたのだった。

 

 

これには、ちょうどその頃、たまたま『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』なるTVアニメを見ていたから、という理由もある。 

 

そのアニメのEDだったClariSの「アリシア」、そしてアニメそれ自体に対しては、同じ感想を抱いた。これは、2010年代に芽生えたなにがしかの総決算なのではなかろうか。新しい曲、新しいアニメに触れていて、流行を――こう書いてみると、わたしがこの言葉を使うのもなかなかおかしな話だが――そう、流行をちゃんと意識しているな、とも思うのに、どこか懐かしい気もする。

 

実際、流行を追っているだけでなく、「アリシア」は詞としてもチャレンジングな曲だ。

 

夜の路地裏 静かな公園

駅の雑踏 心の隙間

 

アリシアClariS Lyrics: 毛蟹

 

連想ゲーム的にものを並べ立てていく詞は案外リスキーで、積極的に採りたい作戦ではない。そもそも、詞どころか詩の世界でも難しい技法だ。歌詞の世界でぱっと思いつくところでは、坂本真綾の「うちゅうひこうしのうた」あたりが成功例だろうか。それでも、「なんでこんなものが並んでいるのかわからない」という意見は耳にしたことがある*8

 

 

閑話休題。流行にも敏感で、チャレンジ精神にも富んだこの曲を聴いて、わたしはどうして、懐かしさを覚えたのだろう。これも感覚的な話で、理由なんてどこにもないのだが、歌詞を眺めていて、感じ入るものがなかったわけではない。

 

流れて行く前に

消えて行く前に

知らない未来があるのなら

 

誰かの描いた

シナリオじゃなくて

手を繋いだままで進める

私たちの道 見つけたい

 

アリシアClariS Lyrics: 毛蟹

 

なんとなく、このメタ設定を前提にしたような詞に、2010年代、その始まりを告げた『魔法少女まどか☆マギカ』本編、そしてそのアイディアの源流としての2000年代美少女ゲームカルチャー、さらに1990年代、あるいはそれ以前のTVアニメを連想したのかもしれない。

 

そのとき、では、美少女的な内容ではなく、今「アリシア」を歌っているClariSそれ自体の源流はどこにあるのだろう、と思って手探りに聴きあさった結果辿り着いたのが、「ヒトリゴト」だった。

 

2010年代、流行に乗り、栄華を極めたようにも思われたClariSだったが、ご存じのとおり、実際にはメンバーの入れ替わりなど色々あった。その意味で、今のClariSとしては、この辺りが一つ、何かの源だったのではないだろうか。

 

ヒトリゴトだよ 恥ずかしいこと

聞かないでよね

キミノコトだよ でもその先は

言わないけどね

 

ヒトリゴトClariS Lyrics: ケリー

 

この詞の素晴らしいところは抑制にある。冒頭「ヒトリゴトだよ」「キミノコトだよ」とメロディラインに対してほぼ完璧な音の当て方をした割に、これはここ1回ぽっきりしか出てこない。そもそも「ヒトリゴト」という言葉自体、曲中もう1ヶ所でしか使わないのだ。これは聴かせ方の妙。この詞はまさしく「ヒトリゴト」だった。

 

しかし、知名度の面でも楽曲の評価のされ方の面でも「ヒトリゴト」が有力なのは間違いないとして、なぜわたしがこの曲に引っかかったのか、という疑問は残っている。これも、理由はわからない話だ。ひょっとしたら、わたしの中で、『エロマンガ先生*9がやはり、2010年代の一つの節目のように思われたからかもしれない。『月刊少女野崎くん』『NEW GAME!』あたりから派生したアニメ版『エロマンガ先生』のライン*10と、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』から連なるライトノベル版『エロマンガ先生』のライン*11が交差しているのも、そう感じた理由の1つだろう。

 

こうして並べてみると、ClariSというのは、まさに2010年代の寵児だった。証人と言ってみてもいいかもしれない。そしてその2010年代というのは、それ以前から繋がる流れの中にあってのものだった。流行に疎いわたしがClariSだけは聴いていた、という事実も、そう思うと、なんとなく示唆深いもののような気がしてくる。気がしているだけ、というのがオチ。

 


 

Ⅲ 音楽を《使う》──音楽に触れる時・場

 

5 だんご3兄弟/速水けんたろう茂森あゆみ*12

 

music.apple.com

 

世に誰もが知っていると喧伝される曲は数多あれども、この曲ほど本当に誰でも彼でも知っている曲は少ないだろう。今さら何か新しい発見があったわけでもなく、「凄いね」としか言いようがない。

 

だんごとタンゴを掛けたというのは有名な逸話だ。いや、そもそもこの発想自体非凡なのだが、語り尽くされていてやはり長々書くべき話ではない。書けることがあるとすれば、それはわたしの、極めて個人的な感覚でしかない*13

 

この曲に初めて触れたのは、年齢がバレるネタだが、幼い時分だった。当然何を言っているのか全くわからず、詞を全て覚えていたわけでもなく、途切れ途切れで、格好のつかない、至って中途半端な歌・のようなものが、わたしの手元にあった。

 

「こんど生まれてくるときも」。

 

わたしが「だんご3兄弟」以外にフレーズとして覚えていたのは、実にこの1ヶ所だけだった。あとは、「次男」だとかなんだとか、歯抜けに単語だけが残っていて、そこ以外はふんふんふんとラララ~で飛ばしていた記憶がある。

 

どうしてそこだけ覚えていたのか、理由はわからない。しかし、子どもが歌に触れるとは、そういうことなのかもしれない。理由があって覚えたはずのものすら消え、最後に残るのは、理由もなく覚えてしまったもの。まことに恐ろしい限りだ。

 

今年、ひょんなことから、数十年ぶりに「だんご3兄弟」の詞と向き合う機会があった。いや、まともに向き合ったのは、人生で初めてかもしれない。

 

こんど生まれてくるときも

ねがいは そろって 同じ串

できればこんどは

こしあんの 

たくさんついた あんだんご

だんご

 

だんご3兄弟/速水けんたろう茂森あゆみ Lyrics: 佐藤雅彦・内野真澄

 

この詞に盛り込まれた諧謔み、リズムのキレの良さ、そうした巧さは、何一つ幼いわたしの手元に残らなかった。しかし、その巧さが際立てた前向きな哀しみは、わたしの深いところに刻まれている。「こんど生まれてくるときも」。この願いは、誰のものだったのだろうか。子どもが保育所でこの歌を歌うとき、子どもに(・・・・)保育所(・・・・)この歌を(・・・・)歌わせる(・・・・)とき(・・)――それはすなわち、この曲を使うとき――何を思うのだろうか。そんなよしなしごとを考えるようになったのは、ひとえに、わたしが年を取ってしまったからなのだろう。

 

***

 

6 空の青さを知る人よ/あいみょん*14

 

 

 

非凡な出だしだ。ひと目、好きになった。

 

この冒頭は相当練ったか、あるいはそうでなければ、この冒頭ありきで曲を作ったのだと思う。そうでなければ、あそこまで長く、2番の歌い出しを1番に重ねなかっただろう。しかし、わたしが好きになったのは、音の重なりではなく、これでもかと言うほど強い言葉を冒頭も冒頭で使うセンスの方だった。これが売れているアーティストなんだなあ、などと、月並みな感想を抱いたものだ。

 

この曲は、2019年公開の同名アニメ映画『空の青さを知る人よ』の主題歌だった。脚本は岡田麿里。思春期の少年少女と「喪失」を題材にした、いかにも岡田麿里、という作品だ。

 

実のところ、わたしの中でこのアニメ映画は予告編で終わっている。本編を見ていない、ということではなく、単に予告編で完結してしまっているのだ。2019年秋前後、わたしはやけくそのようにアニメ映画を鑑賞し続けていた。その中で、「空の青さを知る人よ」を使ったアニメ映画のPVに何度も何度も触れた。感想は、「曲のインパクトが強すぎる」。PVの完成度も作品も素晴らしかったが、それをあいみょんの勢いが上回っていた。そのように、思われた。

 

実際この曲は歌う側泣かせで、シンガーソングライターでもなければ歌いこなすのに相当な苦労がいる。その理由は、ひとえに2番サビ後のパートに尽きる。

 

同じ言葉の繰り返しというのは、歌う側に解釈の余地が与えられすぎるので、なかなか狙ったところに着地しない。たとえば、単語を一つ重ねるごとにクレッシェンドを掛けてもいいし、後ろに熱を保留して、淡々と歌い上げてみてもいい。前者の方が局所的な盛り上がり重視で、後者の方が〈怖く〉なりがちな雰囲気重視だと思う。この曲の場合、音源版は後者。重い。

 

あいみょんの歌というのは、この曲に限らず、特に初期のものについて言えば、〈重い〉という形容がぴったりくる。単に詞が重いのではなく、その解釈が重たさを保証しているのだ。そういう意味で、この「空の青さを知る人よ」は、あいみょんの重たさが売れている勢いに乗って空まで突き抜けてしまった曲、なんて言えるかもしれない。いわく、運動エネルギーは速さの2乗と質量に比例するらしい。そんなエネルギーに満ち満ちた曲をぶつけられては、とでも言えようか。PVを作る側、EDを用意する側となっては嬉しい悲鳴なのだが。こんな曲を実際に主題歌として使ってから、「良すぎる曲は作品に重た(・・)すぎる(・・・)」などと言ってみたいものだ。

 


 

終わりに──美少女ゲームと詞

 

7 PART 2/???(imoutoid

 

maltinerecords.cs8.biz

 

わたしがその傍らにいる美少女ゲーム業界は、言ってしまえば、この世で最もキッチュなものを作っている世界だ。シナリオも絵もBGMも主題歌も、全て全て〈いい感じに〉〈気持ちいい〉、あるいは、〈いい感じに〉〈気持ち悪い〉方へ向かっていく。もちろん、〈いい感じに〉〈売れる〉方へ流れることもある。

 

詞はどうだろうか。〈いい感じに〉なりきっていないのは関わる人間の力量不足だとして、そもそも、その詞から何か意味を見出すことなどできるだろうか。できるかもしれないし、できないかもしれない。作る側はいくらでも仕掛けを仕込める代わりに、全く動作しなくても文句は言えない。「自分はこういう意図で作ったんだ」といくら騒いだところで、結局は通俗の極みにあり、場合によっては自分勝手の極みですらある。

 

ただ、ごく稀に、そのキッチュなものが、自分のキッチュさを何一つ否定しないまま、清新で、エモーショナルで、ノスタルジックで、同時に激しい叫びになるときがある。それがそこにあることの奇跡性をもって、自らのキッチュさを超克してしまうときがある。それは言い換えれば、全く人間的である。

 

imoutoidのアルバム「ACGT」に収められた「PART 2」を聴くと、必ずそう思う。連続も余韻も否定した電子の音の中で、詞は狂い、曲は踊る。しかし、その不連続のうちに、わずかながら、言葉が屹立している。その叫びは、今でも常に新しいものとして、人間のもののごとく、わたしのうちに忍び込んでくる*15

 

わたしが美少女に、美少女ゲームに、美少女ゲームの詞に求めたものは、この類の奇跡性だったかもしれない。そんなことを思いながら、待降節に入った今日もわたしは、奇跡からほど遠い、全く俗な何かのために働いたのだった。

 


 

皆さんがここにあって、このエントリを読んでくださった奇跡(・・)に感謝して。皆さんにも奇跡が舞い降りんことを願いながら、今年もクリスマスを待ちたい。

 

来年も、良い音楽と出逢えますように。

 

 

(了)

 

*1:なお、記事中詞を幾つか引用している。はてなブログでは、JASRAC管理楽曲について部分的に歌詞掲載が可能である。本ブログでは、ガイドラインに則って歌詞を引用していることを予めお断りしておく。また、作詞者表記などは、JASRACの運営する検索エンジンJ-WIDでの検索結果に依っている。そのため、一般的な表記と異なる場合がある。

*2:最近、ヒップホップやラップの文化が日本にも定着し始めて、詞の響きなど〈細かい〉技術についての話題も見かけるようになった、気がする。

*3:J-WIDでの表記は全て大文字。個人的な感覚と公式ホームページ、ストリーミングサービスなどでの表記を鑑み、ここでは先頭のみ大文字とした。

*4:『CUE!』のコンテンツの中で結成された、4人組のユニット。ちなみに、AiRBLUEは16人全員でのユニット名。

*5:「A LONG VACATION」は、1981年にリリースされた、大滝詠一によるスタジオ・アルバム。Tr. 1の「君は天然色」が2020年夏放映のTVアニメ『かくしごと』EDに採用され話題になった。

*6:わたしは、アニメで実際に用いられた曲を狭義アニソン、それよりもう少し緩く、いわゆる声優ソングやキャラクターソングまで含めたグループを広義アニソンと勝手に呼んでいる。この辺りをしっかり固めておかないと、話が混乱してしまいがち。

*7:2020年6月にリリースされた、鬼頭明里の1stアルバム「style」収録曲。作詞作曲・田淵智也UNISON SQUARE GARDEN)、編曲・やしきん、と、楽曲オタクを狙い撃ちにしたかのようなクリエイター陣で話題となった。

*8:「うちゅうひこうしのうた」について言えば、さらに、「なんで最後に『ラララ~』と言葉を捨てているのかわからない」という意見も頂戴したことがある。「ラララ~」やハミングで通すのもそれはそれでリスクを負っている、ということだ。

*9:ClariSの「ヒトリゴト」がOPだった、2017年放映のTVアニメ。

*10:エロマンガ先生』の監督である竹下良平氏は、山崎みつえ氏監督『月刊少女野崎くん』で演出として台頭した。藤原佳幸氏監督『NEW GAME!』でも副監督。ちなみに、『NEW GAME!』も『月刊少女野崎くん』も動画工房の制作。同じく動画工房が制作した2018年のアニメ『多田くんは恋をしない』(監督・山崎みつえ、副監督・藤原佳幸)では、竹下良平氏をネタにしたと思われるシーンがある。

*11:いずれも原作・伏見つかさ、イラスト・かんざきひろTwitterの公式は合同で、TVアニメの制作もA-1 Picturesが主力。

*12:実際にはコーラス参加のアーティストもいるが、JASRACの運営する検索エンジンJ-WIDの表記に従っている。

*13:そもそもこのエントリ自体、そういう個人的な感覚の塊だ、というご指摘は正しい。

*14:この曲は著作権まわりに厳しいので、歌詞の引用を控えている。

*15:この曲それ自体については、imoutoidによる自作解説が詳しい。

 

blog.livedoor.jp

 

自作解説中、この言葉がやたら脳裡にこびりついている。

 

鬱者は式に行けない。

 

歪んだ青年期を送る僕へ、僕による、僕の為の、諦めと開き直りに満ちた音楽。ターゲットは自分。

 

引用元: 前掲ブログ

 

「PART 2」を聴いていると、ボーカルと他の音の区別すら曖昧になっていく、ある意味量子的な音楽の中で、断絶と共に「卒業」という言葉が顔を覗かせる。「THECEREMONY」とはなんだったのか。今となってはわからない話だ。

 

早逝したimoutoid本人については、彼やtofubeatsとも親交のあったimdkmが音楽ナタリーに記事を寄せている