Mashiro Chronicle

長文をまとめる練習中 割となんでも書く雑食派

マルチメディアと歌: はじめ・なか・おわり【楽曲オタクAdvent Calendar 2021】

2021年も待降節がやってきた。つまり、楽曲オタクAdvent Calendarの季節だ。

 

adventar.org

 

お邪魔し始めて3年目ともなると、そろそろ、わたしが楽曲オタクじゃない云々という件も煩くなってきた。楽曲オタクなんかではないわたしがこの企画に入り浸っている理由は、一昨年や去年の記事を読んでいただければすぐ分かってもらえると思う。

 

uncount-shark.hatenablog.com

uncount-shark.hatenablog.com

 

今年は何を書こうかな。11月の半ば、この企画をやると耳にして、少し考えた。少し。わたしにとっては少しのつもりだったのに、いつの間にか、テレビの主役が野球からスケートに変わっていた。袋から取り出したチューハイは、夜風に当たり、冷蔵庫いらず。

 

書くことが無かった、というより、まとまらなかった。テーマなんてかっこいいものは見当たらない。去年のわたしは、いったいどうやってまとめたんだろう。読み返してみて、気づいた。感覚的にしか分からないはずのものを、がんばって理屈につなげようとしている。コラムとコラムのつながりはぼやけ、かろうじて、タイトルだけが全体を支えている、いかにも不格好な記事だ。それでも、言葉のひとつひとつに手探りの跡が見えて、やるじゃない、そう思ってしまった。去年のわたしは、えらい。

 

今年のわたしに、同じことをやる根性は無さそうだ。諦めがつくと、少しだけ気が楽になった。ただの感想文でもいい。そういえば、このAdvent Calendarを企画したなまおじさんも、似たようなことを言っていた気がする。初心に帰って、筆のおもむくまま、メジャーどころの音楽について話してみようと思う。

 


 

I はじめ・なか──Hello,Again~昔からある場所~ - Tales of ARISE ver.-/絢香(『Tales of ARISE』第2OP)

 

 

今年、一番聞いた曲はなんだろう。音楽配信サービスが、勝手にお知らせしてきた。そういえば、あちらこちらでこの話を耳にする。これも、音楽の聴き方、楽しみ方が少しだけ変わった証なんだと思う。プログラムが、わたしたちの聴き方をリードして、取りまとめまでしてくれる。何を聴けばいいのやら、チャートを見ても分からなくなったとき、心強い。その裏で、なんでも聴きたいときには、少しもどかしい。どっちが強いのか。ほんのわずか、もどかしさの方がたくましいかもしれない。

 

なんて言っているけれど、わたしの場合、気の利いたプログラムに頼る前から、なんとなく答えに気づいていた。一応、答え合わせはしてみたけれど、何も変わらない。やっぱりね。言いながら、絢香の「Hello,Again~昔からある場所~ - Tales of ARISE ver.-」を流し始めた。

 

普通、1年で一番聴いた曲を上から数えるともなると、年の頭にはもうリリースされていたものが有利に決まっている。けれどわたしには、8月の終わり──タイアップ先のゲーム『Tales of ARISE』が発売されたのは、もっと後ろの9月──に現れたこの曲を一番聴いた、なんて、なんの役にも立たない自信があった。というのも、この曲は、今のところ1番しか無いのだ。2番以降は、無い。だから、もし他の曲も同じ時間だけ聴いていたとしても、流した回数は、こちらの方が多くなる。短い分だけ再生数がかさ増しされるから、きっとこの曲だろうな。プログラムの落とし穴を付いた気になって、ちょっとだけご満悦。

 

この曲には1番しかない。そう言い切れる理由は、実のところカバーソングだから。1990年代後半に活躍したバンド、My Little Loverの代表曲を、絢香が令和に歌い直したもの。これは、そういう曲だ。

 

 

My Little Loverのオリジナルは、とても歌いやすい。歌の流れはスムーズで、突っかかるように音を刻む、複雑なところなんて無い。サビの頭で音の並び方が変わるけれど、よく前後になじんでいる。サビの終わりだけが、ほんの少し難しい。そこ以外は、メロディがふっと口をつく。歌いやすい、割と明るいバラードだ。いろんな人に愛されてきた理由が垣間見える。

 

絢香のものは、気持ち半歩分だけ、低い。歌い出しは少し寂しく、サビはふんわりになった。ダイナミックなキアロスクーロに、わずかばかり、細かく、にじんだ影が挿し込まれたような気がする。こういう曲は、難しい。歌いやすさは変わらないのだけど、歌う人を推し進めてくれる何かが、一つ、消えてしまっている。それだけで、とても難しい。

 

それに、踏み込みが深い。流れの読み取り方を変えている。丸ごとゆったりとさせて、余計な助走を付けず、一歩目をぐっと踏みしめる。そういうかんじ。元の曲が持っていたポップさは、流れにあった。歌いやすさも、そう。ゆっくりとした歌には、それなりの歌い方が必要になる。絢香のカバーは、いろんな意味で重たいバージョンだ。

 

はたしてその重たいアレンジはゲームにぴたりとはまっていたのだから、ものづくりは難しい。この曲は、挿入歌というより第2オープニングだった。和解と決裂、挫折と再起、そして、かけがえのない出会いと今生の別れ、全てをかみ締めたアルフェンやシオンら6人は、自分たちの願いを叶えるまぎわまでたどり着く。しかし、そのもくろみは、ギリギリのところで崩れ去ってしまう。この世のからくりと、立ち向かうべき定めが絡まり合い、世界が6人のやすらぎを許さない。とりわけ、自分の気持ちはおろか、相手の気持ちすら分かっていながら、すれ違いを続けなければいけない2人──シオンとアルフェン──は、本当に苦しい。その苦しみの向こう側にある光、もう一つの物語が、水平線の果て、空の彼方から、立ち上がり始める。物語の新しい始まりに、正統派の重たいアレンジと、アウトロの抜けていくようなイメージが、よく似合う。わたしは、静かな感動を覚えた。

 

それだけに、わたしは、歯がゆさも覚えたものだ。第2オープニングは、映像も音楽も、素晴らしい。一方で、この静かな感動は、これまでの、最初の物語をきちんと乗り越えてきた人にしか分からないものだった。この第2オープニングの出来が、第2オープニングの配置が完璧である分だけ、まだプレイしていない誰かに見せることなど、できなかった。作り手や売り手も、そのことを分かっていたのだと思う。絢香が第2オープニングとエンディングを歌う。ここまでは表へ出しているけれど、第2オープニング自体は、少なくともインターネット上では、公にしていない。きっと、誰にとっても、宣伝には使えないものだった。

 

はじまりでありながら、はじまりでないもの。第2オープニングが背負った定めは、その曲の完成度が高ければ高いほど、ひとまとまりとしてのマルチメディア作品がそれによって輝けば輝くほど、重くのしかかってくる。それでもきっと、『Tales of ARISE』に触れた多くの人は、わたしと同じ、静かな感動を覚えたに違いない。なんといっても、音楽配信サービス上で一番再生されたのは、感覚ピエロの第1オープニングでも、絢香が歌ったエンディングでもなく、この第2オープニングなのだから。ああ、そういえば、この曲の再生回数にはからくりがあるのだった。フルなら平等に比べられたのだけれど。そう思うにつけても、早くフルサイズで聴きたい。

 

ここまで書いたところで、そもそも最初からフルサイズで配信されていたら、わたし自身こんなに流さず、ブログで紹介することも無かったのだ、と気が付いて、またもどかしくなった。オープニング全てが無理なら、せめて曲だけでも。そういう気持ちが芽生えていなかったわけではないけれど、やっぱり、取り掛かりは欲しい。そう思うにつけても、業の深い名曲だ、なんて、感じてしまう。いや、名曲とは、業の深いものなのかもしれない。

 


 

II なか・おわり──はなればなれの君へ & はなればなれの君へ(reprise)/Belle(中村佳穂)(『竜とそばかすの姫』劇中歌・エンディング)

 

 

2021年は──ウイルス騒ぎで去年出せなかったものが押し寄せてきた、という悲しい理由もあり──いい劇場用アニメがたくさん公開された。もちろん、いい音楽を楽しめるものも多い。『サイダーのように言葉が湧き上がる』は、never young beachの主題歌が爽やかだった。秋になって颯爽と現れた『アイの歌声を聴かせて Sing a Bit of Harmony』は、ミュージカルフィルムとしての作りが巧みで、老いも若いも楽しめるだろうな、と思わせてくれる。12月に公開された中編『ARIA The BENEDIZIONE』は、ナンバリング付きのサウンドトラックをリリースした。これで、シリーズ4枚目。Choro Club妹尾武の相性は抜群で、今回も劇伴を堪能させてもらった。

 

いいフィルムには、いいシーンがある。今名前を出したようなアニメは、全部が品良くまとまっていて、観終わった後の感覚が心地良い。けれどたまに、両の眼をぐっと開かせるような、強烈なワンシーンに触れたくなるときがある。もう一度言っておくと、品良くまとまっているアニメが悪いわけではなくて、むしろ普段は、その方がいい。たまに、そうでないときがある、というだけ。

 

問題は、その「たまに」というタイミングがいつなのか、強烈なワンシーンに出会ってからでないと分からない、というところ。むしろ観終わってから、「ああ、ひょっとしたら今、わたしはとんでもないワンシーンを求めていたのかもしれない」と感じるものなのだ。コンテンツにたくさん触れているのは、そういう一瞬を逃したくないから。こういうとかっこつけみたいだけれど、間違っているわけでもない気がする。

 

その一瞬がやってきたのは、この夏。ちょうど、『竜とそばかすの姫』という映画を観終わった後、振り返ってみて、わたしは刺激を求めていたんだ、そう気が付いた。

 

『竜とそばかすの姫』は、『時をかける少女』で有名な細田守が、ディズニーの『美女と野獣』を作るつもりで完成させたアニメ……といわれている。実際、アイディアの種自体は『美女と野獣』にあったのだと思う。明らかなオマージュがいくつか見えたので、そこに間違いは、たぶん、無い。

 

ディズニーが作ったアニメ『美女と野獣』について、今さらわたしから付け足すべきことなんて無いだろう。3D的なカメラワークを使ったディズニーの代表作で、ミュージカルフィルムとしても指折りの知名度を誇る大作だ。サウンドトラックも、いろんな場面で使われている。

 

 

ディズニー版のアニメ『美女と野獣』は、真実の愛を知らない野獣が、美女との触れ合いを通じて少しずつ心を開いていく、という筋書きだ。途中、いけすかない敵役が登場したり、周りに愉快な仲間たちがいたり、と、キャラクターの配置も王道ど真ん中をひた走っている。一番有名なシーンは、部屋をぐっと広く使ったダンスシークエンスだろう。今見ても、本当に凄い。

 

その超有名作『美女と野獣』を目指すにあたり、『竜とそばかすの姫』では、ディズニーで仕事をしたアニメーターを呼び寄せている。それくらい、ディズニーを強く意識していた。

 

ところが、細田守という人は、何を作っても最後は自分のカラーが出る監督だから面白い。21世紀、というか、2021年、令和3年の今、『美女と野獣』を作ったらこうなるだろう──そういう思いが監督にはあったかもしれない。しかし、それを描くとき、どうしても、あらゆるものを見聞きし、呑み込むことで作り上げてきた、細田守という人しか持ちえない価値観が出てきてしまう。まったく正しい意味での作家性が、良くも悪くも、細田守にはある。

 

細田守が『竜とそばかすの姫』を作るにあたり、すず=Belle役に抜擢されたのは中村佳穂だった。まず、ここがもう面白い。選んだのは監督なのか音楽プロデューサーなのか、はたまた他の誰かなのか、そこはさっぱり分からないけれど、あの中村佳穂を選んだのだ。穢れが無いだとか、頑張っているだとか、そういう言葉で表せるほど、生やさしい人ではない。パワーの塊のような人だ。一度聴けば絶対に忘れない声をしている。観る前から、わたしはがぜん、楽しみになった。

 

公開されてから数日、新宿の映画館で、チケットを買った。『サマーウォーズ』を思い出させる始まりから、いきなり、すず=Belle=中村佳穂の歌が響く。どう始めるのか想像も付かなかったから、少し驚いた。

 

そこから先、物語はやりたい放題進んでいく。お家芸でもある、思春期に入った女の子男の子の駆け引き、甘酸っぱい恋愛が、抜群のテンポでどんどん進む。恐ろしいほど挑戦的な長回しすら、さも簡単なテクニックのように現れ、コメディの材料になっていく。それだけ引っ張っておいて、野獣の正体はすず=Belleと色恋沙汰を繰り広げた相手ではない。もう『美女と野獣』のロマンス要素はどこへ行ってしまったのやら。

 

2つ、理由を考えた。一つは、細田守が『美女と野獣』のオマージュを通して描きたかったものは『美女と野獣』ではなかった、というもの。もう一つは、細田守の中で、分かりやすいロマンス要素は『美女と野獣』の本質ではなかった、というもの。どちらか分からないまま、映画は佳境に入った。

 

すずが、Belleというアバターを脱ぎ捨てていく。進んでむき出しになったすずは、群れるアバターの前で、歌を紡ぐ。あの、聴けば絶対に忘れない声だ。つられて、多くのアバターが歌い出す。わたしも、歌わなければいけない気がした。けれどすずは、ここにいる、自分のために集まってくれた誰かのために歌ったのではなく、どこかにいる、自分を信じていない獣のために歌ったのだった。凄く、インターネットっぽい。そう思った。なるほど、ここがディズニーの『美女と野獣』と違ったのか。

 

しかし、わたしの素人考えは、まさに早とちりだった。歌い終わり、すずは、誰の力も借りないまま──あえていえば、技術の力だけを借りて、山奥の田舎から大都会東京へと駆け出す。閑静な住宅街の中、坂の途中で、野獣を演じた男の子と向き合った。その男の子の背後から、マッチョな父親が近づく。すずの力強い目が、刺さった。少年に暴力をふるっていた父親は、拳の下ろし先を無くし、何も言わぬまま、家へと去っていく。わたしは、唖然とした。

 

美女と野獣』を終わらせるため、細田守が物語のけじめとして映しとったシーンは、正義を振りかざす男への制裁でもなければ、分かりやすいロマンスなどでもなく、マッチョな家族がイエの外で静かに壊れていく様だった。そんなことがまかり通るのか。まかり通ったのだ。最後の5分か10分か、時の進みすら忘れさせるようなそのシークエンスは、あまりにも完璧だった。

 

エンドロールが流れ始める。わたしはまた、細田守がこの映画で撮りたかったものについて考えた。考えてみれば確かに、母を亡くし、踏み込んでこない父との距離感が微妙な女子高生と、母が徹底して描かれない、マッチョな父親のもとで育った少年、という構図は、かなり練られている。その女子高生は、いい友人と近所の人に見守られながら、インターネット上でアバターを作り、幾万ものフォロワーを従えるようになった。そこで不遇の少年と出会い、母の選んだ生き方を悟り、自分もまた、母と同じように、かけがえのないものを脱ぎ捨てていく。少年のイエを住宅街のど真ん中で壊した女子高生は、自分を支えてくれた幼なじみの男の子や、近所のおばさん、そして、父と向き合う。

 

細田守は、今『美女と野獣』を作ることに、どんな意味を見出したのだろう。たぶん、田舎のにぎやかな大家族を描いた『サマーウォーズ』の頃とはぜんぜん違うものを抱えていたはずだ。本人に聞いたわけでもないのに、いらない確信を持ってしまう。気づけば、Belleというディズニー的なメディアを脱ぎ捨てたすず=中村佳穂が、クライマックスとほとんど同じ曲を歌っていた。挿入歌は何個もあったけれど、あのクライマックスの後のワンシーンを挟み込むなら──物語のなかとおわりを作るなら、この曲しかない。納得すると、わたしは静かに、その力強い声へと耳を傾けた。

 


 

III おわり・はじめ──One Last Kiss & Beautiful World - Da Capo Version/宇多田ヒカル(『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』ED)

 

 

エヴァンゲリオンが、終わった。どんな終わり方だったか、あまりにも綺麗に畳んだので、うまく思い出せない。途中、「新世紀(Neon Genesis)」という言葉すら拾うものだから、思わず劇場で噴き出しかけてしまった。

 

終わり方は、思い出しづらい。中身は、どうだったろう。父と少年の、やたらスケールの小さい親子げんかだった気もする。愛すべき人を失った男の物語だった気もする。そういえば、彼女と彼女候補が入り乱れ、最後には母と嫁が出てきた。この調子では、どうにも、中身を思い出すのも難しそうだ。

 

たった一つだけ、はっきりと覚えていることがある。エンディングを聴いたとき、目を見開いた。聴き終わったとき、確かな衝撃が残ったのを感じた。この衝撃は、どこかで受けた記憶がある。新宿をさまよい、サンドイッチ屋で牛乳を飲みながら、その糸を手繰り寄せた。『ラーゼフォン 多元変奏曲』という映画の最後、坂本真綾の「tune the rainbow」を聴いたとき、確かに同じ衝撃があった、気がする。

 

 

物語の最後、物語にとって決定的な曲が流れると、そう思うのだろうか。少し考えてみて、やっぱり違う、ということになった。劇場版『ラーゼフォン』のとき、坂本真綾はもう、1990年代から地続きになっていた2000年代の、そのさらに向こう側にいた。「プラチナ」を歌ったときの抜けるような透明さはどこかへ行き、今までとは違う透き通りをもって、「tune the rainbow」を歌っている。年を重ねたから。そういうのは簡単だ。その年の重ね方、年月の捉え方が、鋭い。たぶん、わたしたちより、一歩だけ、早かった。もしかすると、映画そのものまで、一歩先へと送り出していたのかもしれない。

 

宇多田ヒカルの「One Last Kiss」と「Beautiful World - Da Capo Version」も、これと同じような気がする。サウンドは、とてもいい。音の数は少ないけれど、軽くなく、チープでもない。入っては消えていく楽器たちが、静かに重なり合いを作っていく。ボーカルの響かせ方も、ぼんやりしたところとシャープなところの取り合わせが正確だ。音数の少ない曲は、こういう細かいところの出来が目立つ。普段聴くものの、一歩先、かもしれない。詞もいい。意外なものを歌いたいものへときっちり結び合わせていて、新鮮。詞が歌になる秘訣も知っている。いいところしかない。

 

けれど何より、声が良かった。ハスキー、といえばいいのだろうか。分からない。言葉をのせているはずの声なのに、言葉にしづらい。この声が、私に静かな衝撃をもたらした。

 

この衝撃は、他の誰かに伝わらないかもしれない。思いながら知り合いに話すと、やっぱり、宇多田ヒカルの話にはならなかった。だいたい、そこからエヴァンゲリオンの話へとすぐ飛んでいってしまう。わたしは、宇多田ヒカルの話というか、エンディングの話がしたかった。

 

話はできない割に、世間では「One Last Kiss」をよく耳にした。御茶ノ水のつけ麺屋で流れ始めたときには、つい噴き出しそうになったくらいだ。あまりにも前後に流れた曲と違いすぎる。それでいて、「Beautiful World - Da Capo Version」が続かないので、どうにも尻切れトンボ。配信版ですら、ギリギリまで曲と曲の間を詰めてあったのに。あれは、2つで1つの曲なのだ。

 

なかなか人と上手に話せない中、ある日、母と会った。見てないけど、エヴァンゲリオン、田舎でも流行ってるよ。会うなりに、母は切り出してきた。わたしの趣味など、一から百まで知られている。母なりに気を使った話し出しだったのだろう。もう上映終わっちゃったんだけど。付け足すように母が笑う。

 

「良かったよ」と切り返すと、母は付き合い程度に興味を持ってくれたようだった。ただ、中身について話す気になれなかったうえ、そもそも、話をよく思い出せなかった。諦め半分、「宇多田ヒカルのエンディングが特に」と言うと、意外にも乗ってきたので、驚き。「いつもあんまり聴かないけど。10年くらい前に歌ってた、やっぱりエヴァンゲリオンの」「『序』のやつ?」「そう。あれは良かった」。母が褒めたので、また驚いた。そもそも「Beautiful World」を覚えているなんて、思ってもいなかったから。

 

声はだいぶ違うけど、今回のエンディングにも使われてたよ。伝えると、母は笑った。

 

「どうせ、お母さんみたいな声になったんでしょう」

 

じゃあ聴かないとね。なぜかドキリとした私を横目に、母は「じゃあ」の意味も説明しないまま、わたしの先を歩き始めた。

 

お母さんというのは、藤圭子のこと。どのくらい似ているのか、そのときは比べることもできなかった。ただ、ドキリとした。一度も聴いていないはずなのに図星を突いている気がして、少し、怖い。

 

改めて聴き比べてみる。藤圭子は演歌で活躍した人だから、歌い方はだいぶ違う。けれど、演歌以外の音源を聴くと、「One Last Kiss」や「Beautiful World - Da Capo Version」の低いところに、ほんのわずか、面影がある。なんの。説明できない。雰囲気と言ってしまうと、もうおしまいだ。やっぱり、言葉をのせているはずの歌声なのに、言葉で尽くしづらい。

 

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』から10年弱。どうしても、人は年を取る。その中で、生き方が変わり、隣にいる人が変わり、そして、自分が変わっていく。凄くシンプルなことなのだけれど、たまに、人と少し違う年の重ね方をする人がいて、そういう人が、わたしたちの一歩先に行くのかもしれない。もしかすると、その奥底にあるのは、消し切れない血のつながりをあらわにさせる何か、なのだろうか。ひょっとしたら、何かが終わるときに向かうべきはじまりの場所、なのかもしれない。

 

そこまで考えたとき、ふと、エヴァンゲリオンがどういう話だったか、思い出した気がした。観終わった後、いや、聴き終わった後の深い感動は、どこから来たものだったのか。どうして新しいエヴァンゲリオンの最後に「Beautiful World」が流れたのか。『序』から14年、その時をくぐり抜けた宇多田ヒカルが、エヴァンゲリオンという物語そのものの鏡像になった気がした。

 


 

書き終わってみると、案外勝手にテーマなんてものが浮かび上がってくるから、不思議なものだ。やたら静かに感動しているのは、パンデミック騒ぎの中、知り合いと喋りながら帰ることも減り、マスクの裏でじっと黙っている時間が増えたからかもしれない。別に、悪いことではない。たまには、静かに感じ入る時間があってもいいのだと思う。

 

とはいえ、静かな感動をずっと自分で抱えているのももったいない。皆さんもぜひ、このAdvent Calendarをいい機会に、いろいろ語ってみたらどうだろうか。

 

この記事を読んだあなたに、待降節の静かな奇跡が舞い降りますように。願って、今年の締めとしたい。

 

 

 

(了)