Mashiro Chronicle

長文をまとめる練習中 割となんでも書く雑食派

(あるいは)失われた時を求めて: 『ライザのアトリエ2 ~失われた伝承と秘密の妖精~』プレイ感想〈微ネタバレあり〉

このエントリは、2020年12月3日にコーエーテクモ(ガストブランド)から発売された、『ライザのアトリエ2 ~失われた伝承と秘密の妖精~』(以下『ライザ2』)のプレイ感想だ。未プレイの人にも極力配慮しているが、どうしてもシナリオの中身に触れざるを得ない箇所もある。できる限りネタバレだと分からない形で書いていくが、読む際にはその点ご理解いただきたい。

 


 

君を離さない。

たとえ、この力を失っても――

 

いいキャッチコピーだ。これが、

 

ばいばいアトリエ。

この冒険を、ずっと忘れない。

 

などという怪物級の謳い文句を引っ提げてきた作品の続編でなければ、もっとずっとインパクトを感じていただろう。

 

『ライザ2』は、スマッシュヒットを飛ばした『ライザのアトリエ ~常闇の女王と秘密の隠れ家~』(以下『ライザ(初代)』)の続編として世に出た都合、様々な点で前作と比較される宿命を背負っていた。その最も大きなところが、おそらくこのキャッチコピーに関するあれこれだろう。

 

実際、『ライザ(初代)』のキャッチコピーは、ビデオゲームに付けられるものとしてはおよそ満点だった。キャッチコピーに求められる要素は多々あるが、「ターゲットとしている層に届く」といった一般論や、ウェブページ訪問数など計量可能な要素ではなく、今日のビデオゲームに付けられるキャッチコピーの大まかな方針として大事なところは、このくらいだろう。

 

  • SNSで流し見をされても、ティザー動画やスクリーンショットと共にぱっと目を惹く
  • ビデオゲームのなんらかの要素や売りどころを要約できている
  • プレイした後にプレイヤーが拡散したくなる

 

もちろん、街頭広告用なのかネット広告用なのか、はたまた作品全体のために用意されたものなのかで、重視されることは随分変わる。しかし、恣意性を持ってこの3つを並べたのには理由がある。というのも、これは別の表現で代替可能だからだ。

 

  • 短いが意表を突く言葉の並び
  • 設計/開発コンセプトの活用
  • プレイしなければ分からない伏線やギミックとの繋がり

 

こう書いてみれば、『ライザ(初代)』のキャッチコピーがなぜ優れていたか、言葉で説明できるだろう。まず、「ばいばいアトリエ。」という言葉の並びがいい。シリーズお決まりの要素を逆方向に活用していて、前半部だけでもキャッチコピーとして十分に戦っていける。ひらがなとカタカナの使い分けも絶妙で、声に出しても文字にしても大丈夫だ。

 

だが、『ライザ(初代)』がそのキャッチコピーと共にもてはやされたのは、後ろ2つの要素をきっちり組み込んでいたからではなかろうか。『ライザ(初代)』は、その開発コンセプトが、おそらくいわゆる「エモさ」に近い概念にあったと思われる。たとえば、ホームページのイントロダクションにはこう書かれている。

 

大人になる前の彼女たちが、

自分にとって

大切なものを見つける物語。

 

ライザのアトリエ ~常闇の女王と秘密の隠れ家~ URL:

https://www.gamecity.ne.jp/atelier/ryza/ 最終閲覧2020年12月11日

 

「大人になる前」=思春期の、それも特に「彼女たち」=少女をメインに、「大切なものを見つける物語」を展開する。これは、近年の特に(少女あるいは美少女)ポップカルチャーで有力な手法だ。ひと昔前なら、こういう説明は小学生向けの映画に使われていたかもしれない。ただ最近は、もう少し、たとえば死語になりつつある「空気系」に近い作品や、一部百合アニメで使われる例をよく見かける。

 

こういう作品の感想を書く時、最近は「エモい」という便利な表現を使いがちだ。だいたい、この「エモさ」というのは、十代の男女の変化、彼女たちが感じる時間の流れ、出会いと別れ、ふれ合いと訣別、そういうものを追体験する時に浮かび上がってくる。

 

そういう考えに接近している作品のキャッチコピーが「ばいばい」「冒険」「忘れない」なのだ。大変濃縮されている。

 

その上、このキャッチコピーには、「『ライザのアトリエ』に付けられたものだったにも関わらず、主人公たるライザのために用意されたものではなかった」という隠し味が仕込まれていた。これはむしろ、ライザ以外のキャラクターが放つことで、ライザとその周りの人々の抱いた感情をプレイヤーに実感させる。オタクというのは、こういう仕込みが好きで好きでたまらない生き物なのだ。これはもう、キャッチコピー勝ちと言って差し支えない。

 

翻って、続編の『ライザ2』はどうだったか。

 

君を離さない。

たとえ、この力を失っても――

 

これも、短い割に目を惹くいいキャッチコピーだ。アトリエシリーズに多少なりとも興味を持っている人が「あれ?」と思う要素に溢れている。前作が「出会いと別れ」を主題に据えていたにも関わらず、続編は「離さない」ときた。その上、「力を失う」だ。よもやライザが錬金術のスキルを失うわけがない。それではゲームが崩壊してしまう。いや、もしかしてその「よもや」なのか。妄想は止まらない。

 

実際にはどうだったか。結論から言えば、『ライザ2』は、おそらく『ライザ(初代)』の正統な続編であるという点が相当意識されていた。それは、コンセプトに限らず、それを実現する方法という面でもそうであったし、ゲームシステムにおける種々の要素のブラッシュアップという面でも言えることだ。

 

『ライザ2』で焦点になるのも、『ライザ(初代)』とある面で同様に、時間だった。しかし、それに対するアプローチを若干変えている。『ライザ2』でまず語られるのは、前作から作中で経過した3年という時間だ。物語は、『ライザ(初代)』から3年、王都で学問を究めるタオから、島にただ一人残ったライザへ招待状が送られるところから始まる。この手紙――古代の遺跡とその伝承を求めるタオの要請――によって、止まっていた歯車が回り出す。

 

3年あれば、人間は変わる。長らく会っていなかった人にとって、時間とは空白だ。その空白の間に、何があったのか。どうして今こんな姿になっているのか。タオもライザも、あるいは3年前の冒険を知る他の人も、お互いに空白を抱えている。その空白を埋めるべく、どこか焦りを見せながら、キャラクターたちは、太古の歴史を刻み込んだはずの、伝承という〈失われた時間の痕跡〉を共に探し始める。

 

その空白の間、キャラクターたちは何をしていたのか。ライザにとっては、試練と困難の日々だったかもしれない。錬金術の研究は行き詰まり、島では先生の真似事をする立場になった。ただ暴れていればいいだけの日々は去り、実家の農作業も、島での役回りも、全てこなさなければならなくなった。それでも、この3年の間に感じた成長もあっただろう。物語冒頭から広々としたマップを駆け回り、やたら質のいい錬金武器を生み出す続編のライザは、島の中で「こっちじゃない」「あっちじゃない」と言っていた3年前のライザとはまるで別人だ。

 

そんなライザに昔そのままの関係を求めるクラウディアの姿が生々しい。クラウディアにとってただ一人の親友であったライザとは、もう3年も会っていない。その上、この後また共に生きていける保証も全く無い。クラウディアは、ずっと、3年前の冒険、その続きを求めていた。商売人としてのクラウディアではなく、ライザの親友としてのクラウディアにとって、この3年間は〈失われた時〉そのものだっただろう。その3年間を取り戻すべく、そして、3年()を取り戻すべく、クラウディアは再びライザの冒険に加わる。

 

他のキャラクターも、クラウディアほどではないにせよ、やはり空白を埋めたがっている。戦闘では、3年前よりもよほど連携が取れるようになった。分かりやすくなった戦闘システムでは、過剰なほどにアクションオーダー(連携要求)が上手くいく。スキルを使えば、ぐっと動きが良くなったカメラが、次から次へと放たれる連携攻撃を捉え、画面を彩る。敵を一体倒せば、すぐさま次のターゲットを取り囲む。その上、無茶なアクションオーダーが姿を消した。まるで、3年前のキャラクターたちは、相手のことなど考えず、ただひたすら自分の都合ばかり優先させていた、と言わんばかりだ。

 

でき過ぎなほど息ぴったりの前作キャラクターたちを、遠巻きに見つめる双眸がある。パトリツィアだ。ライザとタオの間柄を疑い、クラウディアとライザの懐旧に巻き込まれるパトリツィアは、そこにいることそれ自体によって、ライザたちに3年という時間の経過を突き付ける。しかし同時に、プレイヤーは、パトリツィアの目を通じて、ライザら前作キャラクターたちが〈失われた時〉を取り戻しているという事実を知るのだ。パトリツィアがライザたちの会話に加われないという状況が、変わらなかった、あるいは取り戻された友情を、他の何よりもずっと分かりやすく示している。

 

こうして〈失われた時〉をひと時ばかり取り戻したライザたちは、やがて、〈失われた時間の痕跡〉を集めきり、再び異界の大物と対峙する。これを打ち倒したライザに訪れる、ビタースウィートな決断の瞬間。ライザはまた、取り戻したはずの〈時〉を手放していく。これが私の成長だと言わんばかりに。

 

そしてこここそが、おそらく多くの人が困惑したであろう要素だった。

 

君を離さない。

たとえ、この力を失っても――

 

このキャッチコピーは、ライザのこうした軌跡とどこかで矛盾している。ライザは、何かを「離さなかった」わけではないし、彼女の持つ全ての「力を失った」わけでもない。これは混乱する人もいるだろう。

 

しかし、『ライザ(初代)』を思い出して欲しい。前作のキャッチコピーは、別にライザ本人のことを言っているわけではなかった。むしろ、『ライザ(初代)』は、ライザ以外のキャラクターたちのことを指していたのである。『ライザのアトリエ』は、決してライザただ一人のための物語ではない。その実、

 

大人になる前の彼女たちが、

自分にとって

大切なものを見つける物語。

 

ライザのアトリエ ~常闇の女王と秘密の隠れ家~ URL:

https://www.gamecity.ne.jp/atelier/ryza/ 最終閲覧2020年12月11日

 

「彼女『たち』」とちゃんと言っているのである。

 

その意味で、『ライザ2』は正しく『ライザ(初代)』の後継者だった。前作に比べ、物語がより複線的になっている。ライザ以外のキャラクターにまつわるサブエピソードは大幅にボリュームアップし、あと一つ匙加減を間違えれば群像劇になるというところまで膨らんだ。

 

クリアしたプレイヤーの混乱は、単に、キャッチコピーを回収する要素、キャッチコピーを回収し得るキャラクターの正体が結末で分かりやすく示されなかった、という事情で発生したに過ぎない。そしておそらく、その分かりにくさは、開発側が意図的に用意したものだ。

 

確かに、『ライザ2』には、回収されていない要素がいくつかある。物語の進行上、描ききらなくても良いものであることは確かなのだが、しかしそうは言うものの、たとえばフィーという〈秘密の妖精〉が、結局異界の生物である以上になんだったのか、それは仄めかされる程度でしか判明していない。さらに、顔見せ程度でしか出てきていないキャラクターも、湖の底にいる。繰り返すが、こうしたキャラクターたちについては、物語の進行上描かずともなんとかなる要素は何から何までカットしてある。同じことだが、物語に必要な最低限の要素は全て描かれている。

 

私の中でよぎった直感は、「この『ライザ2』はトリロジーの第2作かもしれない」だ。この直感は、エンディング後のフィーの描写でより強くなった。あの時、フィーはどこにいたのか。それはプレイヤーに一切提示されない。つまり、それは少なくとも、『ライザ2』を(・・・・・・・)プレイ(・・・)している(・・・・)段階の(・・・)プレイヤーには(・・・・・・・)必要のない要素だということだ。逆に、たとえそうであっても、フィーがああいう風に動いている、という描写は、『ライザ2』に入れる必要があった。それは物語の進行上(・・・)必要な最低限の要素に含まれていたのである。これがたとえば、フィーが異界で元気にやっている描写だったならば、それは物語の後始末(・・・)として必要な要素だった。しかし、そもそも、『ライザ(初代)』の背景を借りるならともかく、『ライザ2』本編中、実は異界の風景自体一切出てこない。あれほど異界の話をしておいて、ゼロ。これは大変に不思議なことだ。

 

何より、ライザリン・シュタウトには、クーケン島をなんとかするという大仕事が残っている。このままでは、ライザも、開発スタッフも、空島を嘯いたどこぞの漫画の登場人物と同じだ。幸いなことに、アトリエシリーズは3作を基本構成としてきたから、まだ1本余裕がある。半年後、『ライザのアトリエ3』(『ライザ3』)が発表されても、私はたぶん、驚かないだろう。嬉しくは思うが。

 

もしかすると、この『ライザ2』のキャッチコピーは、『ライザ3』が発売されたその時、十全に回収されるのかもしれない。ならば、『ライザ2』の時点での分かりにくさにも納得がいく。

 

 

 

――果たしてそうだろうか。

 

いや、そうではない。未来に可能性を投げかけずとも、『ライザ2』の中で、キャッチコピーは回収されているのではないか。

 

そう。いるのである。姿も形も無いというのに、キャッチコピーを完全に回収し得るキャラクターが。そのキャラクターは、「力」どころか姿も形もいずれ失ってしまうと分かっていながら、一度は(・・・)失った(・・・)はずの(・・・)《時間》を取り戻すことで、「君」を離さなかったのである。『ライザ2』は、「失われた伝承」を取り戻す作業の中で、それを確かに、ライザへ、プレイヤーへと伝えようとしている。

 

キャッチコピーは、少なくとも確実に、『ライザ2』の内部でも回収されきっていた。これはなかなか愉快な話だ。ここに気が付くと、『ライザ2』の物語に仕込まれた複線性が本当はどこに向かっていたのかも分かる。『ライザ2』は、3年前の冒険を経験したキャラクターたちと、3年前からの変化を象徴するキャラクターたちの「今」によって複線になっていただけではなく、時空間が完全に分断された誰かによっても複線が敷かれていたのである。

 

いずれにせよ、この答え合わせは、多分、近い将来できるだろう。『ライザ2』だけで完結しているという態度ならば、『ライザ2』に対するフォローは蛇足でしかない。そうでないならば、きっとどこかで、またライザの物語が始まる。その答えが示されるまでは、DLCを楽しんでおこうか。こんな形で物語に深みが増した、と喜んでいるのは、きっと、私だけではないに違いない。

 

 

(了)