Mashiro Chronicle

長文をまとめる練習中 割となんでも書く雑食派

マルチメディアと歌: はじめ・なか・おわり【楽曲オタクAdvent Calendar 2021】

2021年も待降節がやってきた。つまり、楽曲オタクAdvent Calendarの季節だ。

 

adventar.org

 

お邪魔し始めて3年目ともなると、そろそろ、わたしが楽曲オタクじゃない云々という件も煩くなってきた。楽曲オタクなんかではないわたしがこの企画に入り浸っている理由は、一昨年や去年の記事を読んでいただければすぐ分かってもらえると思う。

 

uncount-shark.hatenablog.com

uncount-shark.hatenablog.com

 

今年は何を書こうかな。11月の半ば、この企画をやると耳にして、少し考えた。少し。わたしにとっては少しのつもりだったのに、いつの間にか、テレビの主役が野球からスケートに変わっていた。袋から取り出したチューハイは、夜風に当たり、冷蔵庫いらず。

 

書くことが無かった、というより、まとまらなかった。テーマなんてかっこいいものは見当たらない。去年のわたしは、いったいどうやってまとめたんだろう。読み返してみて、気づいた。感覚的にしか分からないはずのものを、がんばって理屈につなげようとしている。コラムとコラムのつながりはぼやけ、かろうじて、タイトルだけが全体を支えている、いかにも不格好な記事だ。それでも、言葉のひとつひとつに手探りの跡が見えて、やるじゃない、そう思ってしまった。去年のわたしは、えらい。

 

今年のわたしに、同じことをやる根性は無さそうだ。諦めがつくと、少しだけ気が楽になった。ただの感想文でもいい。そういえば、このAdvent Calendarを企画したなまおじさんも、似たようなことを言っていた気がする。初心に帰って、筆のおもむくまま、メジャーどころの音楽について話してみようと思う。

 


 

I はじめ・なか──Hello,Again~昔からある場所~ - Tales of ARISE ver.-/絢香(『Tales of ARISE』第2OP)

 

 

今年、一番聞いた曲はなんだろう。音楽配信サービスが、勝手にお知らせしてきた。そういえば、あちらこちらでこの話を耳にする。これも、音楽の聴き方、楽しみ方が少しだけ変わった証なんだと思う。プログラムが、わたしたちの聴き方をリードして、取りまとめまでしてくれる。何を聴けばいいのやら、チャートを見ても分からなくなったとき、心強い。その裏で、なんでも聴きたいときには、少しもどかしい。どっちが強いのか。ほんのわずか、もどかしさの方がたくましいかもしれない。

 

なんて言っているけれど、わたしの場合、気の利いたプログラムに頼る前から、なんとなく答えに気づいていた。一応、答え合わせはしてみたけれど、何も変わらない。やっぱりね。言いながら、絢香の「Hello,Again~昔からある場所~ - Tales of ARISE ver.-」を流し始めた。

 

普通、1年で一番聴いた曲を上から数えるともなると、年の頭にはもうリリースされていたものが有利に決まっている。けれどわたしには、8月の終わり──タイアップ先のゲーム『Tales of ARISE』が発売されたのは、もっと後ろの9月──に現れたこの曲を一番聴いた、なんて、なんの役にも立たない自信があった。というのも、この曲は、今のところ1番しか無いのだ。2番以降は、無い。だから、もし他の曲も同じ時間だけ聴いていたとしても、流した回数は、こちらの方が多くなる。短い分だけ再生数がかさ増しされるから、きっとこの曲だろうな。プログラムの落とし穴を付いた気になって、ちょっとだけご満悦。

 

この曲には1番しかない。そう言い切れる理由は、実のところカバーソングだから。1990年代後半に活躍したバンド、My Little Loverの代表曲を、絢香が令和に歌い直したもの。これは、そういう曲だ。

 

 

My Little Loverのオリジナルは、とても歌いやすい。歌の流れはスムーズで、突っかかるように音を刻む、複雑なところなんて無い。サビの頭で音の並び方が変わるけれど、よく前後になじんでいる。サビの終わりだけが、ほんの少し難しい。そこ以外は、メロディがふっと口をつく。歌いやすい、割と明るいバラードだ。いろんな人に愛されてきた理由が垣間見える。

 

絢香のものは、気持ち半歩分だけ、低い。歌い出しは少し寂しく、サビはふんわりになった。ダイナミックなキアロスクーロに、わずかばかり、細かく、にじんだ影が挿し込まれたような気がする。こういう曲は、難しい。歌いやすさは変わらないのだけど、歌う人を推し進めてくれる何かが、一つ、消えてしまっている。それだけで、とても難しい。

 

それに、踏み込みが深い。流れの読み取り方を変えている。丸ごとゆったりとさせて、余計な助走を付けず、一歩目をぐっと踏みしめる。そういうかんじ。元の曲が持っていたポップさは、流れにあった。歌いやすさも、そう。ゆっくりとした歌には、それなりの歌い方が必要になる。絢香のカバーは、いろんな意味で重たいバージョンだ。

 

はたしてその重たいアレンジはゲームにぴたりとはまっていたのだから、ものづくりは難しい。この曲は、挿入歌というより第2オープニングだった。和解と決裂、挫折と再起、そして、かけがえのない出会いと今生の別れ、全てをかみ締めたアルフェンやシオンら6人は、自分たちの願いを叶えるまぎわまでたどり着く。しかし、そのもくろみは、ギリギリのところで崩れ去ってしまう。この世のからくりと、立ち向かうべき定めが絡まり合い、世界が6人のやすらぎを許さない。とりわけ、自分の気持ちはおろか、相手の気持ちすら分かっていながら、すれ違いを続けなければいけない2人──シオンとアルフェン──は、本当に苦しい。その苦しみの向こう側にある光、もう一つの物語が、水平線の果て、空の彼方から、立ち上がり始める。物語の新しい始まりに、正統派の重たいアレンジと、アウトロの抜けていくようなイメージが、よく似合う。わたしは、静かな感動を覚えた。

 

それだけに、わたしは、歯がゆさも覚えたものだ。第2オープニングは、映像も音楽も、素晴らしい。一方で、この静かな感動は、これまでの、最初の物語をきちんと乗り越えてきた人にしか分からないものだった。この第2オープニングの出来が、第2オープニングの配置が完璧である分だけ、まだプレイしていない誰かに見せることなど、できなかった。作り手や売り手も、そのことを分かっていたのだと思う。絢香が第2オープニングとエンディングを歌う。ここまでは表へ出しているけれど、第2オープニング自体は、少なくともインターネット上では、公にしていない。きっと、誰にとっても、宣伝には使えないものだった。

 

はじまりでありながら、はじまりでないもの。第2オープニングが背負った定めは、その曲の完成度が高ければ高いほど、ひとまとまりとしてのマルチメディア作品がそれによって輝けば輝くほど、重くのしかかってくる。それでもきっと、『Tales of ARISE』に触れた多くの人は、わたしと同じ、静かな感動を覚えたに違いない。なんといっても、音楽配信サービス上で一番再生されたのは、感覚ピエロの第1オープニングでも、絢香が歌ったエンディングでもなく、この第2オープニングなのだから。ああ、そういえば、この曲の再生回数にはからくりがあるのだった。フルなら平等に比べられたのだけれど。そう思うにつけても、早くフルサイズで聴きたい。

 

ここまで書いたところで、そもそも最初からフルサイズで配信されていたら、わたし自身こんなに流さず、ブログで紹介することも無かったのだ、と気が付いて、またもどかしくなった。オープニング全てが無理なら、せめて曲だけでも。そういう気持ちが芽生えていなかったわけではないけれど、やっぱり、取り掛かりは欲しい。そう思うにつけても、業の深い名曲だ、なんて、感じてしまう。いや、名曲とは、業の深いものなのかもしれない。

 


 

II なか・おわり──はなればなれの君へ & はなればなれの君へ(reprise)/Belle(中村佳穂)(『竜とそばかすの姫』劇中歌・エンディング)

 

 

2021年は──ウイルス騒ぎで去年出せなかったものが押し寄せてきた、という悲しい理由もあり──いい劇場用アニメがたくさん公開された。もちろん、いい音楽を楽しめるものも多い。『サイダーのように言葉が湧き上がる』は、never young beachの主題歌が爽やかだった。秋になって颯爽と現れた『アイの歌声を聴かせて Sing a Bit of Harmony』は、ミュージカルフィルムとしての作りが巧みで、老いも若いも楽しめるだろうな、と思わせてくれる。12月に公開された中編『ARIA The BENEDIZIONE』は、ナンバリング付きのサウンドトラックをリリースした。これで、シリーズ4枚目。Choro Club妹尾武の相性は抜群で、今回も劇伴を堪能させてもらった。

 

いいフィルムには、いいシーンがある。今名前を出したようなアニメは、全部が品良くまとまっていて、観終わった後の感覚が心地良い。けれどたまに、両の眼をぐっと開かせるような、強烈なワンシーンに触れたくなるときがある。もう一度言っておくと、品良くまとまっているアニメが悪いわけではなくて、むしろ普段は、その方がいい。たまに、そうでないときがある、というだけ。

 

問題は、その「たまに」というタイミングがいつなのか、強烈なワンシーンに出会ってからでないと分からない、というところ。むしろ観終わってから、「ああ、ひょっとしたら今、わたしはとんでもないワンシーンを求めていたのかもしれない」と感じるものなのだ。コンテンツにたくさん触れているのは、そういう一瞬を逃したくないから。こういうとかっこつけみたいだけれど、間違っているわけでもない気がする。

 

その一瞬がやってきたのは、この夏。ちょうど、『竜とそばかすの姫』という映画を観終わった後、振り返ってみて、わたしは刺激を求めていたんだ、そう気が付いた。

 

『竜とそばかすの姫』は、『時をかける少女』で有名な細田守が、ディズニーの『美女と野獣』を作るつもりで完成させたアニメ……といわれている。実際、アイディアの種自体は『美女と野獣』にあったのだと思う。明らかなオマージュがいくつか見えたので、そこに間違いは、たぶん、無い。

 

ディズニーが作ったアニメ『美女と野獣』について、今さらわたしから付け足すべきことなんて無いだろう。3D的なカメラワークを使ったディズニーの代表作で、ミュージカルフィルムとしても指折りの知名度を誇る大作だ。サウンドトラックも、いろんな場面で使われている。

 

 

ディズニー版のアニメ『美女と野獣』は、真実の愛を知らない野獣が、美女との触れ合いを通じて少しずつ心を開いていく、という筋書きだ。途中、いけすかない敵役が登場したり、周りに愉快な仲間たちがいたり、と、キャラクターの配置も王道ど真ん中をひた走っている。一番有名なシーンは、部屋をぐっと広く使ったダンスシークエンスだろう。今見ても、本当に凄い。

 

その超有名作『美女と野獣』を目指すにあたり、『竜とそばかすの姫』では、ディズニーで仕事をしたアニメーターを呼び寄せている。それくらい、ディズニーを強く意識していた。

 

ところが、細田守という人は、何を作っても最後は自分のカラーが出る監督だから面白い。21世紀、というか、2021年、令和3年の今、『美女と野獣』を作ったらこうなるだろう──そういう思いが監督にはあったかもしれない。しかし、それを描くとき、どうしても、あらゆるものを見聞きし、呑み込むことで作り上げてきた、細田守という人しか持ちえない価値観が出てきてしまう。まったく正しい意味での作家性が、良くも悪くも、細田守にはある。

 

細田守が『竜とそばかすの姫』を作るにあたり、すず=Belle役に抜擢されたのは中村佳穂だった。まず、ここがもう面白い。選んだのは監督なのか音楽プロデューサーなのか、はたまた他の誰かなのか、そこはさっぱり分からないけれど、あの中村佳穂を選んだのだ。穢れが無いだとか、頑張っているだとか、そういう言葉で表せるほど、生やさしい人ではない。パワーの塊のような人だ。一度聴けば絶対に忘れない声をしている。観る前から、わたしはがぜん、楽しみになった。

 

公開されてから数日、新宿の映画館で、チケットを買った。『サマーウォーズ』を思い出させる始まりから、いきなり、すず=Belle=中村佳穂の歌が響く。どう始めるのか想像も付かなかったから、少し驚いた。

 

そこから先、物語はやりたい放題進んでいく。お家芸でもある、思春期に入った女の子男の子の駆け引き、甘酸っぱい恋愛が、抜群のテンポでどんどん進む。恐ろしいほど挑戦的な長回しすら、さも簡単なテクニックのように現れ、コメディの材料になっていく。それだけ引っ張っておいて、野獣の正体はすず=Belleと色恋沙汰を繰り広げた相手ではない。もう『美女と野獣』のロマンス要素はどこへ行ってしまったのやら。

 

2つ、理由を考えた。一つは、細田守が『美女と野獣』のオマージュを通して描きたかったものは『美女と野獣』ではなかった、というもの。もう一つは、細田守の中で、分かりやすいロマンス要素は『美女と野獣』の本質ではなかった、というもの。どちらか分からないまま、映画は佳境に入った。

 

すずが、Belleというアバターを脱ぎ捨てていく。進んでむき出しになったすずは、群れるアバターの前で、歌を紡ぐ。あの、聴けば絶対に忘れない声だ。つられて、多くのアバターが歌い出す。わたしも、歌わなければいけない気がした。けれどすずは、ここにいる、自分のために集まってくれた誰かのために歌ったのではなく、どこかにいる、自分を信じていない獣のために歌ったのだった。凄く、インターネットっぽい。そう思った。なるほど、ここがディズニーの『美女と野獣』と違ったのか。

 

しかし、わたしの素人考えは、まさに早とちりだった。歌い終わり、すずは、誰の力も借りないまま──あえていえば、技術の力だけを借りて、山奥の田舎から大都会東京へと駆け出す。閑静な住宅街の中、坂の途中で、野獣を演じた男の子と向き合った。その男の子の背後から、マッチョな父親が近づく。すずの力強い目が、刺さった。少年に暴力をふるっていた父親は、拳の下ろし先を無くし、何も言わぬまま、家へと去っていく。わたしは、唖然とした。

 

美女と野獣』を終わらせるため、細田守が物語のけじめとして映しとったシーンは、正義を振りかざす男への制裁でもなければ、分かりやすいロマンスなどでもなく、マッチョな家族がイエの外で静かに壊れていく様だった。そんなことがまかり通るのか。まかり通ったのだ。最後の5分か10分か、時の進みすら忘れさせるようなそのシークエンスは、あまりにも完璧だった。

 

エンドロールが流れ始める。わたしはまた、細田守がこの映画で撮りたかったものについて考えた。考えてみれば確かに、母を亡くし、踏み込んでこない父との距離感が微妙な女子高生と、母が徹底して描かれない、マッチョな父親のもとで育った少年、という構図は、かなり練られている。その女子高生は、いい友人と近所の人に見守られながら、インターネット上でアバターを作り、幾万ものフォロワーを従えるようになった。そこで不遇の少年と出会い、母の選んだ生き方を悟り、自分もまた、母と同じように、かけがえのないものを脱ぎ捨てていく。少年のイエを住宅街のど真ん中で壊した女子高生は、自分を支えてくれた幼なじみの男の子や、近所のおばさん、そして、父と向き合う。

 

細田守は、今『美女と野獣』を作ることに、どんな意味を見出したのだろう。たぶん、田舎のにぎやかな大家族を描いた『サマーウォーズ』の頃とはぜんぜん違うものを抱えていたはずだ。本人に聞いたわけでもないのに、いらない確信を持ってしまう。気づけば、Belleというディズニー的なメディアを脱ぎ捨てたすず=中村佳穂が、クライマックスとほとんど同じ曲を歌っていた。挿入歌は何個もあったけれど、あのクライマックスの後のワンシーンを挟み込むなら──物語のなかとおわりを作るなら、この曲しかない。納得すると、わたしは静かに、その力強い声へと耳を傾けた。

 


 

III おわり・はじめ──One Last Kiss & Beautiful World - Da Capo Version/宇多田ヒカル(『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』ED)

 

 

エヴァンゲリオンが、終わった。どんな終わり方だったか、あまりにも綺麗に畳んだので、うまく思い出せない。途中、「新世紀(Neon Genesis)」という言葉すら拾うものだから、思わず劇場で噴き出しかけてしまった。

 

終わり方は、思い出しづらい。中身は、どうだったろう。父と少年の、やたらスケールの小さい親子げんかだった気もする。愛すべき人を失った男の物語だった気もする。そういえば、彼女と彼女候補が入り乱れ、最後には母と嫁が出てきた。この調子では、どうにも、中身を思い出すのも難しそうだ。

 

たった一つだけ、はっきりと覚えていることがある。エンディングを聴いたとき、目を見開いた。聴き終わったとき、確かな衝撃が残ったのを感じた。この衝撃は、どこかで受けた記憶がある。新宿をさまよい、サンドイッチ屋で牛乳を飲みながら、その糸を手繰り寄せた。『ラーゼフォン 多元変奏曲』という映画の最後、坂本真綾の「tune the rainbow」を聴いたとき、確かに同じ衝撃があった、気がする。

 

 

物語の最後、物語にとって決定的な曲が流れると、そう思うのだろうか。少し考えてみて、やっぱり違う、ということになった。劇場版『ラーゼフォン』のとき、坂本真綾はもう、1990年代から地続きになっていた2000年代の、そのさらに向こう側にいた。「プラチナ」を歌ったときの抜けるような透明さはどこかへ行き、今までとは違う透き通りをもって、「tune the rainbow」を歌っている。年を重ねたから。そういうのは簡単だ。その年の重ね方、年月の捉え方が、鋭い。たぶん、わたしたちより、一歩だけ、早かった。もしかすると、映画そのものまで、一歩先へと送り出していたのかもしれない。

 

宇多田ヒカルの「One Last Kiss」と「Beautiful World - Da Capo Version」も、これと同じような気がする。サウンドは、とてもいい。音の数は少ないけれど、軽くなく、チープでもない。入っては消えていく楽器たちが、静かに重なり合いを作っていく。ボーカルの響かせ方も、ぼんやりしたところとシャープなところの取り合わせが正確だ。音数の少ない曲は、こういう細かいところの出来が目立つ。普段聴くものの、一歩先、かもしれない。詞もいい。意外なものを歌いたいものへときっちり結び合わせていて、新鮮。詞が歌になる秘訣も知っている。いいところしかない。

 

けれど何より、声が良かった。ハスキー、といえばいいのだろうか。分からない。言葉をのせているはずの声なのに、言葉にしづらい。この声が、私に静かな衝撃をもたらした。

 

この衝撃は、他の誰かに伝わらないかもしれない。思いながら知り合いに話すと、やっぱり、宇多田ヒカルの話にはならなかった。だいたい、そこからエヴァンゲリオンの話へとすぐ飛んでいってしまう。わたしは、宇多田ヒカルの話というか、エンディングの話がしたかった。

 

話はできない割に、世間では「One Last Kiss」をよく耳にした。御茶ノ水のつけ麺屋で流れ始めたときには、つい噴き出しそうになったくらいだ。あまりにも前後に流れた曲と違いすぎる。それでいて、「Beautiful World - Da Capo Version」が続かないので、どうにも尻切れトンボ。配信版ですら、ギリギリまで曲と曲の間を詰めてあったのに。あれは、2つで1つの曲なのだ。

 

なかなか人と上手に話せない中、ある日、母と会った。見てないけど、エヴァンゲリオン、田舎でも流行ってるよ。会うなりに、母は切り出してきた。わたしの趣味など、一から百まで知られている。母なりに気を使った話し出しだったのだろう。もう上映終わっちゃったんだけど。付け足すように母が笑う。

 

「良かったよ」と切り返すと、母は付き合い程度に興味を持ってくれたようだった。ただ、中身について話す気になれなかったうえ、そもそも、話をよく思い出せなかった。諦め半分、「宇多田ヒカルのエンディングが特に」と言うと、意外にも乗ってきたので、驚き。「いつもあんまり聴かないけど。10年くらい前に歌ってた、やっぱりエヴァンゲリオンの」「『序』のやつ?」「そう。あれは良かった」。母が褒めたので、また驚いた。そもそも「Beautiful World」を覚えているなんて、思ってもいなかったから。

 

声はだいぶ違うけど、今回のエンディングにも使われてたよ。伝えると、母は笑った。

 

「どうせ、お母さんみたいな声になったんでしょう」

 

じゃあ聴かないとね。なぜかドキリとした私を横目に、母は「じゃあ」の意味も説明しないまま、わたしの先を歩き始めた。

 

お母さんというのは、藤圭子のこと。どのくらい似ているのか、そのときは比べることもできなかった。ただ、ドキリとした。一度も聴いていないはずなのに図星を突いている気がして、少し、怖い。

 

改めて聴き比べてみる。藤圭子は演歌で活躍した人だから、歌い方はだいぶ違う。けれど、演歌以外の音源を聴くと、「One Last Kiss」や「Beautiful World - Da Capo Version」の低いところに、ほんのわずか、面影がある。なんの。説明できない。雰囲気と言ってしまうと、もうおしまいだ。やっぱり、言葉をのせているはずの歌声なのに、言葉で尽くしづらい。

 

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』から10年弱。どうしても、人は年を取る。その中で、生き方が変わり、隣にいる人が変わり、そして、自分が変わっていく。凄くシンプルなことなのだけれど、たまに、人と少し違う年の重ね方をする人がいて、そういう人が、わたしたちの一歩先に行くのかもしれない。もしかすると、その奥底にあるのは、消し切れない血のつながりをあらわにさせる何か、なのだろうか。ひょっとしたら、何かが終わるときに向かうべきはじまりの場所、なのかもしれない。

 

そこまで考えたとき、ふと、エヴァンゲリオンがどういう話だったか、思い出した気がした。観終わった後、いや、聴き終わった後の深い感動は、どこから来たものだったのか。どうして新しいエヴァンゲリオンの最後に「Beautiful World」が流れたのか。『序』から14年、その時をくぐり抜けた宇多田ヒカルが、エヴァンゲリオンという物語そのものの鏡像になった気がした。

 


 

書き終わってみると、案外勝手にテーマなんてものが浮かび上がってくるから、不思議なものだ。やたら静かに感動しているのは、パンデミック騒ぎの中、知り合いと喋りながら帰ることも減り、マスクの裏でじっと黙っている時間が増えたからかもしれない。別に、悪いことではない。たまには、静かに感じ入る時間があってもいいのだと思う。

 

とはいえ、静かな感動をずっと自分で抱えているのももったいない。皆さんもぜひ、このAdvent Calendarをいい機会に、いろいろ語ってみたらどうだろうか。

 

この記事を読んだあなたに、待降節の静かな奇跡が舞い降りますように。願って、今年の締めとしたい。

 

 

 

(了)

 

ボイチェンの行きつく先は女性声優のキャラ声なのか?: あるいは、ボイチェン初心者によるボイチェン初心者のためのつぶやき

隠すことでもないので公言しておくと、1ヶ月ほど前、2021年の3月上旬から、女声へのボイスチェンジ(いわゆる「ボイチェン」)にチャレンジし始めた。

 

理由は色々あるが、言ってしまえば、「興味があったから」だ。

 

特に最近、多くの人がボイチェンに興味を持ちやすい状況になっていると思う。VTuberの活動であったり、ボイスロイドや「ゆっくり」を使ったゲーム実況であったり、そういった動画や配信を見る機会が増えているからだろう。

 

そんな中で、2021年の5月12日、こんなツイートが世間で話題になった。

 

 

公式ホームページによれば、今は亡き「ハッカドール」の流れを汲んでいるというのだから、人によってはこの話を涙なしに語れないだろう。

 

この「VOICE AVATAR」に関する現時点での詳しいレビューは後に回すとして、ひとまず触ってみた感想をざっくりいうと、「楽しい」「実験段階」である。

 

しかし、個人的には技術以前の問題として「おや」と思うところがあった。上で貼った公式ホームページにはこう書いてある。

 

[これまでのボイチェン技術では]特定のキャラクターの声へと変換をする事はできず、また男性から女性に声を変換しようとしても、入力話者の声の男性らしさが残ってしまうなど、入力音声の特徴が変換した音声に残ってしまうという課題がありました。

※[]は引用者による注釈

VOICE AVATAR 七声ニーナ VOICE AVATAR 七声ニーナ (dena.ai) 最終閲覧2021年5月12日

 

果たして、「男性から女性に」声を変換しようとした時、「入力話者の」「特徴」が残ってしまうことは「課題」なのだろうか。そもそも、「特定のキャラクターの声」へと変えることがボイチェンの目的だったのだろうか。

 

この点について、少し考えてみたい*1

 

《わたしの声》、《誰のものでもある声》

 

結論からいうと、ボイチェンは1つの根っこから2つの幹が伸びている。1つは、あくまで《わたしの声》にこだわるボイチェン、もう1つは、《着脱可能な声》、もう少し軽くいえば、ファッション感覚で着替えられるような《誰のものでもある声》へのボイチェンだ。

 

いや、こういう言い方はよくないかもしれない。というのも、《わたしの声》へのボイチェンも、人によっては着替え感覚で使っているかもしれないからだ。というか、わたしがそうである。Discordでボイチャする時、気分によってボイチェンのあるなしを使い分けている。もちろん、そうでない人、そうでないがゆえに苦しんでいる人がいるというのは重々承知しているが、少なくともわたしはそうだ。

 

ここで言いたいのは、それでもなお、《わたし》にこだわる人がいる一方で、「誰かの声でもいいじゃない」という感覚の人もいる、ということの方である。

 

上で引用した七声ニーナの公式ホームページが指摘するように、現在のボイチェン技術は、入力話者、つまりボイチェンしようとしているわたしやあなたの声の特徴が残ってしまう。その特徴を限りなく潰していくことはできるが、それには相当細かい調整が必要になる。

 

しかし、それは裏を返せば絶対に《わたしの声》である、ということだ。他の人が真似しようとしても一朝一夕ではコピーしきれない《わたしの声》が、自分のコントロールできるところにある。これは、たとえばアイデンティティの議論などに簡単につなげられるだろう。そこにこだわりが生まれてくるのも分かる。

 

一方で、もっと軽く、《誰のものでもある声》でいいじゃない、と考えている人もいる。たとえば、ボイスロイドを使ったゲーム実況に慣れ親しんだ人はこのように考えるかもしれない。そうでなくても、ファッションについて考えてみれば、オーダーメイドでもない限り、わたしたちが普段着ている服はどこかで・誰かが・幾つも作ったものだ。それを何着か用意して、気分や目的に合わせて選んでいるのだから、声もそうだっていいじゃない――こういう風に捉えてみると、《誰のものでもある声》へボイチェンしたがる人がいる、というのもうなずける。それになんといっても、《誰のものでもある声》は有名声優の声、そうでなくても最低限可愛いと思える声にしてくれるのだから、色々試行錯誤して失敗する可能性は極めて小さい。

 

こうして、色んな人が使うことを前提とした《誰のものでもある声》へのボイチェンと、オーダーメイドの一張羅的な《わたしの声》へのボイチェンの2つが併存する状況が生まれたのだろう。どちらも《着脱可能な声》としての側面を持っているから、これはつまり、ボイチェンによって自分をどう見せたいのか、ボイチェンによって自分をどうしたいのか、という、自己呈示の問題であり、自己表現の問題だ。

 

この議論を踏まえると、七声ニーナのデビューは《誰のものでもある声》の商業化に向けた大切なステップと位置づけられるだろう。その意味で、七声ニーナの開発・運営スタッフにとって「入力話者」の「特徴」が残ってしまうことは、《誰のものでもある声》を目指す上で「課題」だったのである。これは、ボイチェンというもの全てについてではなく、ボイチェンの1つのアプローチにおいて「課題」だった、と言い換えられよう。

 

《わたしの声》を目指すこれまでのボイチェンと、《誰のものでもある声》を理想とする七声ニーナのようなボイチェン、その両方を受け入れ、育てていくことが大切である。

 

《わたしの声》を目指すボイチェンのやり方と課題

 

ボイチェンには、ざっくり分けて2タイプあることが分かった。では、それぞれのタイプのボイチェンにはどのような特徴があり、何が今課題なのだろうか。それを整理してみたい。

 

まず、《わたしの声》を目指すボイチェンについて考えてみよう。これには幾つかやり方がある。

 

  1. ハードウェアを使うやり方
  2. 既成のソフトウェアを使うやり方
  3. VSTを使うやり方

 

それぞれ順番に見ていこう。①のハードウェアを使うやり方は、マイクとパソコンの間にボイチェン用の機材を挟んでしまう方法だ。RolandのVT-4が代表例だろう。VTuberが使っているということもあり、人気の機材だ。

 

www.roland.com

 

ハードウェアを使ったボイチェンは、遅延が少なく、設定しなければいけないこともさほど多くないので、「とにかく配信したい」という人に向いている。その一方で、小回りが利かないため、機材と声の相性が悪いとどうすることもできない、という欠点がある。また、機材のトライアルがしづらいところも難点だ。

 

②の既成ソフトウェアを使うやり方は、フリーソフトなど「ボイチェンをするためのソフトウェア」をパソコンにインストールしてボイチェンする方法だ。代表的なソフトウェアは「恋声」だろう。

 

koigoemoe.g2.xrea.com

 

ハードウェアを使うやり方と違い、マイク周り以外はパソコン内部で完結しているところが特徴だ。また、③のVSTを使う方法に比べ、音楽機材の知識が無くても動かせる点が魅力。要求されるパソコンのスペックもやや低い。

 

ただし、この手のソフトウェアはリリースされてから時間が経過してしまっていることがあり、サポートを受けづらい。恋声もそうだが、開発それ自体がストップしてしまっているケースも見られる。また、ソフトウェアによっては音声を入力してからの遅延がキツく、配信に使えない場合も出てくるだろう。さらに、③にも共通することとして、一部の有料ソフトウェアは体験版が極めて使いにくい。そのため、無料のものはさておき、少し高いソフトウェアになると導入を躊躇ってしまうだろう。

 

最後の③VSTを使うやり方は、DAW(Digital Audio Workstation)などを駆使し、音楽用のエフェクト類を駆使することでボイチェンを実現する手法だ。自分の声に合わせて微調整をかけられるところが魅力的で、ある意味一番理想的なボイチェンの手段といえるかもしれない。また、ゲームの配信や録画によく使われるOBS Studioにそのまま挿し込むこともできる。こういう細かい取り回しが利くところもありがたい。

 

ネックなのはなんといってもハードルの高さ。要求される知識が他の2つに比べて圧倒的に多い。また、微調整をかけられる柔軟性とボイチェンが思いどおりにいかないリスクは表裏一体だ。さらに、場合によっては配信や通話のために極めて複雑な仮想回路を組まなければならず、ボイチェンそれ自体の調整以外にも挫折するポイントが多数ある。

 

ここまで、《わたしの声》にこだわるボイチェンを実現する手段についてざっくりまとめてきた。それぞれ一長一短で、トライアンドエラーが前提、といえるだろう。

 

しかし、この《わたしの声》を目指すボイチェンについて、トライアンドエラー以前のハードルや課題があることはあまり議論されていない。どのような課題があるのだろうか。

 

まず、ボイチェンとは本来、極めて総合的な実践である、という理解が重要だ。ボイチェンを真面目にやるためにはどのような知識や技術が必要だろうか。女声へのボイチェンをする際必見ともいえる、『あたらしい女声の教科書』を開いてみよう。

 

gid-mtf-guide.net

 

この文献は、ソフトウェアやハードウェアを使わずに(生物学的な)男性が女声を出す際必要な理論と実践、その双方についてまとめられた労作だ。中には、声というものの性質、男声と女声の違い、その違いの埋め方、機械を使った自分の声のチェック方法、といった内容が収められている。

 

この読み物に書かれている内容を正確に理解しようとすると、音響工学はもちろん、言語学社会学(特にジェンダー論)、解剖学、場合によっては音楽や声楽教育史の知識を身につけることになる。もちろん、そのような専門的な知識が無くても読んで実践していくことはできる。しかし、より丁寧に効果的なトレーニングを一人で積み重ねていくためには、相当な知識量が必要になってしまう。

 

こうした知識にアクセスできる人はどれくらいいるだろうか。もちろん、ボイチェンをやっているコミュニティに参加して知識を吸収する手段もあるが、そういうことが苦手な人もいるだろう。そうなると、独学でやっていくしかない。これには凄まじいコストがかかる。

 

また、女声から男声への変換についてカバーした文献があまり無いのも気がかりだ。確かに、(生物学的な意味での)女性はその声帯の特徴から出せる声の低さに物理的/生理的な限界がある。しかし、それをソフトウェアやハードウェアの利用によってある程度克服することも可能だ。(生物学的な)女性が自己表現として低いイケメンボイスを出して何が悪いのか。こうしたジェンダー非対称性も解消していく必要があるだろう。

 

この他、機材やソフトウェアにかかる金額負担といった経済的条件も課題として挙げられる。これらの課題を技術が解消していく上では、教育水準やセクシャリティによらず誰でも触れる機材・ソフトウェアであるという配慮が第一に求められよう。その上で、どこまで技術や内部での変換手法をブラックボックスに押し込むのか、といった判断を行っていく必要がある。

 

《誰のものでもある声》を目指すボイチェンのやり方と課題

 

ここまで、《わたしの声》にこだわるボイチェンについて詳細を眺めてきた。対して、《誰のものでもある声》を目指すボイチェンの技術は今どこまで進歩したのだろうか。ここでは、それを七声ニーナの詳細レビューから考えてみたい。

 

ひとまず、サンプルを用意したのでご関心のある方は聴いていただきたい。

 

「『大好き』って言ってほしい」


www.youtube.com

 

いい感じだ。わたしの活舌の悪さが若干マイナス方向に引っ張っているものの、十分といっていいのではないか。

 

問題は、このような場合だろう。

 

「ボイスチェンジというものは、本来極めて総合的な実践なのであって、そこには音響工学など様々な知識が要求される」


www.youtube.com

 

語彙レベルの問題と分節(や文節)の問題、2つの課題を抱えていることが明らかだ。このサンプルは、もちろん、①話し言葉ではほとんど使わないような単語、②文法的に微妙な表現、の2つをあえて仕込んだ文章を使った実験結果である。実際にはこうした表現も出てくるので、実用化にはもう少し時間がかかるといっていいだろう。

 

もちろん、ゆっくり実況が普及したように、これはこれで一つの日本語表現として受け入れられる可能性も大いにある。ただし、それが《誰のものでもある声》を目指すボイチェンの理想的な姿なのかどうか考えてみるべきではないだろうか。

 

こうした課題を解決するためにボイチェンをしたいあなたができることは、とにかくたくさん七声ニーナを使ってあげること。実際、公式ホームページでも開発者ブログでも、ガンガン使ってほしいと書いてある。これは、七声ニーナが機械学習(PyTorch)を使っているからだ。おそらく、あなたの生み出した七声ニーナサンプルをデータとして活用することで七声ニーナを改善していくのだろう。

 

また、実際に使う時には遅延も気になるところだ。今はリアルタイムでのボイチェンができない仕様になっているので、用途を考えると、しばらくは遅延の小さいボイチェン技術の開発にも投資をしていくのではないか。

 

将来的な展望としては、七声ニーナが上手くいけば、他の声優の方によるバージョンが出てくるのだろう。もちろん、他の企業が同じような技術を使って別のソフトをリリースする可能性もある。いずれにしても、様々な《誰のものでもある声》が出てくることで、正しく《着脱可能な声》、気分や目的に合わせて使う製品やボイチェンを変えられる状況が生まれる。

 

こちらの技術はまだまだ発展途上といっていい。もちろん、《わたしの声》のところで触れたように、男声に変えるためのソフトウェアについても考えていく必要がある。ソフトウェアの親しみやすさについては、操作が簡単で難しい知識がいらない、という工夫がなされていて、あとはどれだけリーチを伸ばせるか、というところが焦点になる。どう展開していくにせよ、技術的に未成熟であり、とにかくデータを欲しがっている時期なので、どんな些細なことであれ、七声ニーナに触れてあげることが大切だ。

 

終わりに

 

長々と語ってきたが、要点は簡潔に2つ。①ボイチェンには2つの方向性がある。②どちらの方向性の技術にもまだまだ課題があり、門戸の広いソフトウェアに仕立て上げた上で、遅延の小さい変換技術の実装が求められる。

 

どちらの方向性がいい悪いという話ではない。どちらも大事。両方あってのボイチェン文化、ボイチェンを使った自己表現なのではないだろうか。

 

それでは、皆さまも楽しいボイチェンライフを。

 

下はわたしが最近買ったボイチェン用VST。

 

www.minet.jp

 

 

 

 (了)

 

*1:3時間仕上げなので、文章や表現が行き届いていないのは許してね☆(美少女ボイス)

(あるいは)失われた時を求めて: 『ライザのアトリエ2 ~失われた伝承と秘密の妖精~』プレイ感想〈微ネタバレあり〉

このエントリは、2020年12月3日にコーエーテクモ(ガストブランド)から発売された、『ライザのアトリエ2 ~失われた伝承と秘密の妖精~』(以下『ライザ2』)のプレイ感想だ。未プレイの人にも極力配慮しているが、どうしてもシナリオの中身に触れざるを得ない箇所もある。できる限りネタバレだと分からない形で書いていくが、読む際にはその点ご理解いただきたい。

 


 

君を離さない。

たとえ、この力を失っても――

 

いいキャッチコピーだ。これが、

 

ばいばいアトリエ。

この冒険を、ずっと忘れない。

 

などという怪物級の謳い文句を引っ提げてきた作品の続編でなければ、もっとずっとインパクトを感じていただろう。

 

『ライザ2』は、スマッシュヒットを飛ばした『ライザのアトリエ ~常闇の女王と秘密の隠れ家~』(以下『ライザ(初代)』)の続編として世に出た都合、様々な点で前作と比較される宿命を背負っていた。その最も大きなところが、おそらくこのキャッチコピーに関するあれこれだろう。

 

実際、『ライザ(初代)』のキャッチコピーは、ビデオゲームに付けられるものとしてはおよそ満点だった。キャッチコピーに求められる要素は多々あるが、「ターゲットとしている層に届く」といった一般論や、ウェブページ訪問数など計量可能な要素ではなく、今日のビデオゲームに付けられるキャッチコピーの大まかな方針として大事なところは、このくらいだろう。

 

  • SNSで流し見をされても、ティザー動画やスクリーンショットと共にぱっと目を惹く
  • ビデオゲームのなんらかの要素や売りどころを要約できている
  • プレイした後にプレイヤーが拡散したくなる

 

もちろん、街頭広告用なのかネット広告用なのか、はたまた作品全体のために用意されたものなのかで、重視されることは随分変わる。しかし、恣意性を持ってこの3つを並べたのには理由がある。というのも、これは別の表現で代替可能だからだ。

 

  • 短いが意表を突く言葉の並び
  • 設計/開発コンセプトの活用
  • プレイしなければ分からない伏線やギミックとの繋がり

 

こう書いてみれば、『ライザ(初代)』のキャッチコピーがなぜ優れていたか、言葉で説明できるだろう。まず、「ばいばいアトリエ。」という言葉の並びがいい。シリーズお決まりの要素を逆方向に活用していて、前半部だけでもキャッチコピーとして十分に戦っていける。ひらがなとカタカナの使い分けも絶妙で、声に出しても文字にしても大丈夫だ。

 

だが、『ライザ(初代)』がそのキャッチコピーと共にもてはやされたのは、後ろ2つの要素をきっちり組み込んでいたからではなかろうか。『ライザ(初代)』は、その開発コンセプトが、おそらくいわゆる「エモさ」に近い概念にあったと思われる。たとえば、ホームページのイントロダクションにはこう書かれている。

 

大人になる前の彼女たちが、

自分にとって

大切なものを見つける物語。

 

ライザのアトリエ ~常闇の女王と秘密の隠れ家~ URL:

https://www.gamecity.ne.jp/atelier/ryza/ 最終閲覧2020年12月11日

 

「大人になる前」=思春期の、それも特に「彼女たち」=少女をメインに、「大切なものを見つける物語」を展開する。これは、近年の特に(少女あるいは美少女)ポップカルチャーで有力な手法だ。ひと昔前なら、こういう説明は小学生向けの映画に使われていたかもしれない。ただ最近は、もう少し、たとえば死語になりつつある「空気系」に近い作品や、一部百合アニメで使われる例をよく見かける。

 

こういう作品の感想を書く時、最近は「エモい」という便利な表現を使いがちだ。だいたい、この「エモさ」というのは、十代の男女の変化、彼女たちが感じる時間の流れ、出会いと別れ、ふれ合いと訣別、そういうものを追体験する時に浮かび上がってくる。

 

そういう考えに接近している作品のキャッチコピーが「ばいばい」「冒険」「忘れない」なのだ。大変濃縮されている。

 

その上、このキャッチコピーには、「『ライザのアトリエ』に付けられたものだったにも関わらず、主人公たるライザのために用意されたものではなかった」という隠し味が仕込まれていた。これはむしろ、ライザ以外のキャラクターが放つことで、ライザとその周りの人々の抱いた感情をプレイヤーに実感させる。オタクというのは、こういう仕込みが好きで好きでたまらない生き物なのだ。これはもう、キャッチコピー勝ちと言って差し支えない。

 

翻って、続編の『ライザ2』はどうだったか。

 

君を離さない。

たとえ、この力を失っても――

 

これも、短い割に目を惹くいいキャッチコピーだ。アトリエシリーズに多少なりとも興味を持っている人が「あれ?」と思う要素に溢れている。前作が「出会いと別れ」を主題に据えていたにも関わらず、続編は「離さない」ときた。その上、「力を失う」だ。よもやライザが錬金術のスキルを失うわけがない。それではゲームが崩壊してしまう。いや、もしかしてその「よもや」なのか。妄想は止まらない。

 

実際にはどうだったか。結論から言えば、『ライザ2』は、おそらく『ライザ(初代)』の正統な続編であるという点が相当意識されていた。それは、コンセプトに限らず、それを実現する方法という面でもそうであったし、ゲームシステムにおける種々の要素のブラッシュアップという面でも言えることだ。

 

『ライザ2』で焦点になるのも、『ライザ(初代)』とある面で同様に、時間だった。しかし、それに対するアプローチを若干変えている。『ライザ2』でまず語られるのは、前作から作中で経過した3年という時間だ。物語は、『ライザ(初代)』から3年、王都で学問を究めるタオから、島にただ一人残ったライザへ招待状が送られるところから始まる。この手紙――古代の遺跡とその伝承を求めるタオの要請――によって、止まっていた歯車が回り出す。

 

3年あれば、人間は変わる。長らく会っていなかった人にとって、時間とは空白だ。その空白の間に、何があったのか。どうして今こんな姿になっているのか。タオもライザも、あるいは3年前の冒険を知る他の人も、お互いに空白を抱えている。その空白を埋めるべく、どこか焦りを見せながら、キャラクターたちは、太古の歴史を刻み込んだはずの、伝承という〈失われた時間の痕跡〉を共に探し始める。

 

その空白の間、キャラクターたちは何をしていたのか。ライザにとっては、試練と困難の日々だったかもしれない。錬金術の研究は行き詰まり、島では先生の真似事をする立場になった。ただ暴れていればいいだけの日々は去り、実家の農作業も、島での役回りも、全てこなさなければならなくなった。それでも、この3年の間に感じた成長もあっただろう。物語冒頭から広々としたマップを駆け回り、やたら質のいい錬金武器を生み出す続編のライザは、島の中で「こっちじゃない」「あっちじゃない」と言っていた3年前のライザとはまるで別人だ。

 

そんなライザに昔そのままの関係を求めるクラウディアの姿が生々しい。クラウディアにとってただ一人の親友であったライザとは、もう3年も会っていない。その上、この後また共に生きていける保証も全く無い。クラウディアは、ずっと、3年前の冒険、その続きを求めていた。商売人としてのクラウディアではなく、ライザの親友としてのクラウディアにとって、この3年間は〈失われた時〉そのものだっただろう。その3年間を取り戻すべく、そして、3年()を取り戻すべく、クラウディアは再びライザの冒険に加わる。

 

他のキャラクターも、クラウディアほどではないにせよ、やはり空白を埋めたがっている。戦闘では、3年前よりもよほど連携が取れるようになった。分かりやすくなった戦闘システムでは、過剰なほどにアクションオーダー(連携要求)が上手くいく。スキルを使えば、ぐっと動きが良くなったカメラが、次から次へと放たれる連携攻撃を捉え、画面を彩る。敵を一体倒せば、すぐさま次のターゲットを取り囲む。その上、無茶なアクションオーダーが姿を消した。まるで、3年前のキャラクターたちは、相手のことなど考えず、ただひたすら自分の都合ばかり優先させていた、と言わんばかりだ。

 

でき過ぎなほど息ぴったりの前作キャラクターたちを、遠巻きに見つめる双眸がある。パトリツィアだ。ライザとタオの間柄を疑い、クラウディアとライザの懐旧に巻き込まれるパトリツィアは、そこにいることそれ自体によって、ライザたちに3年という時間の経過を突き付ける。しかし同時に、プレイヤーは、パトリツィアの目を通じて、ライザら前作キャラクターたちが〈失われた時〉を取り戻しているという事実を知るのだ。パトリツィアがライザたちの会話に加われないという状況が、変わらなかった、あるいは取り戻された友情を、他の何よりもずっと分かりやすく示している。

 

こうして〈失われた時〉をひと時ばかり取り戻したライザたちは、やがて、〈失われた時間の痕跡〉を集めきり、再び異界の大物と対峙する。これを打ち倒したライザに訪れる、ビタースウィートな決断の瞬間。ライザはまた、取り戻したはずの〈時〉を手放していく。これが私の成長だと言わんばかりに。

 

そしてこここそが、おそらく多くの人が困惑したであろう要素だった。

 

君を離さない。

たとえ、この力を失っても――

 

このキャッチコピーは、ライザのこうした軌跡とどこかで矛盾している。ライザは、何かを「離さなかった」わけではないし、彼女の持つ全ての「力を失った」わけでもない。これは混乱する人もいるだろう。

 

しかし、『ライザ(初代)』を思い出して欲しい。前作のキャッチコピーは、別にライザ本人のことを言っているわけではなかった。むしろ、『ライザ(初代)』は、ライザ以外のキャラクターたちのことを指していたのである。『ライザのアトリエ』は、決してライザただ一人のための物語ではない。その実、

 

大人になる前の彼女たちが、

自分にとって

大切なものを見つける物語。

 

ライザのアトリエ ~常闇の女王と秘密の隠れ家~ URL:

https://www.gamecity.ne.jp/atelier/ryza/ 最終閲覧2020年12月11日

 

「彼女『たち』」とちゃんと言っているのである。

 

その意味で、『ライザ2』は正しく『ライザ(初代)』の後継者だった。前作に比べ、物語がより複線的になっている。ライザ以外のキャラクターにまつわるサブエピソードは大幅にボリュームアップし、あと一つ匙加減を間違えれば群像劇になるというところまで膨らんだ。

 

クリアしたプレイヤーの混乱は、単に、キャッチコピーを回収する要素、キャッチコピーを回収し得るキャラクターの正体が結末で分かりやすく示されなかった、という事情で発生したに過ぎない。そしておそらく、その分かりにくさは、開発側が意図的に用意したものだ。

 

確かに、『ライザ2』には、回収されていない要素がいくつかある。物語の進行上、描ききらなくても良いものであることは確かなのだが、しかしそうは言うものの、たとえばフィーという〈秘密の妖精〉が、結局異界の生物である以上になんだったのか、それは仄めかされる程度でしか判明していない。さらに、顔見せ程度でしか出てきていないキャラクターも、湖の底にいる。繰り返すが、こうしたキャラクターたちについては、物語の進行上描かずともなんとかなる要素は何から何までカットしてある。同じことだが、物語に必要な最低限の要素は全て描かれている。

 

私の中でよぎった直感は、「この『ライザ2』はトリロジーの第2作かもしれない」だ。この直感は、エンディング後のフィーの描写でより強くなった。あの時、フィーはどこにいたのか。それはプレイヤーに一切提示されない。つまり、それは少なくとも、『ライザ2』を(・・・・・・・)プレイ(・・・)している(・・・・)段階の(・・・)プレイヤーには(・・・・・・・)必要のない要素だということだ。逆に、たとえそうであっても、フィーがああいう風に動いている、という描写は、『ライザ2』に入れる必要があった。それは物語の進行上(・・・)必要な最低限の要素に含まれていたのである。これがたとえば、フィーが異界で元気にやっている描写だったならば、それは物語の後始末(・・・)として必要な要素だった。しかし、そもそも、『ライザ(初代)』の背景を借りるならともかく、『ライザ2』本編中、実は異界の風景自体一切出てこない。あれほど異界の話をしておいて、ゼロ。これは大変に不思議なことだ。

 

何より、ライザリン・シュタウトには、クーケン島をなんとかするという大仕事が残っている。このままでは、ライザも、開発スタッフも、空島を嘯いたどこぞの漫画の登場人物と同じだ。幸いなことに、アトリエシリーズは3作を基本構成としてきたから、まだ1本余裕がある。半年後、『ライザのアトリエ3』(『ライザ3』)が発表されても、私はたぶん、驚かないだろう。嬉しくは思うが。

 

もしかすると、この『ライザ2』のキャッチコピーは、『ライザ3』が発売されたその時、十全に回収されるのかもしれない。ならば、『ライザ2』の時点での分かりにくさにも納得がいく。

 

 

 

――果たしてそうだろうか。

 

いや、そうではない。未来に可能性を投げかけずとも、『ライザ2』の中で、キャッチコピーは回収されているのではないか。

 

そう。いるのである。姿も形も無いというのに、キャッチコピーを完全に回収し得るキャラクターが。そのキャラクターは、「力」どころか姿も形もいずれ失ってしまうと分かっていながら、一度は(・・・)失った(・・・)はずの(・・・)《時間》を取り戻すことで、「君」を離さなかったのである。『ライザ2』は、「失われた伝承」を取り戻す作業の中で、それを確かに、ライザへ、プレイヤーへと伝えようとしている。

 

キャッチコピーは、少なくとも確実に、『ライザ2』の内部でも回収されきっていた。これはなかなか愉快な話だ。ここに気が付くと、『ライザ2』の物語に仕込まれた複線性が本当はどこに向かっていたのかも分かる。『ライザ2』は、3年前の冒険を経験したキャラクターたちと、3年前からの変化を象徴するキャラクターたちの「今」によって複線になっていただけではなく、時空間が完全に分断された誰かによっても複線が敷かれていたのである。

 

いずれにせよ、この答え合わせは、多分、近い将来できるだろう。『ライザ2』だけで完結しているという態度ならば、『ライザ2』に対するフォローは蛇足でしかない。そうでないならば、きっとどこかで、またライザの物語が始まる。その答えが示されるまでは、DLCを楽しんでおこうか。こんな形で物語に深みが増した、と喜んでいるのは、きっと、私だけではないに違いない。

 

 

(了)

 

詞について考える待降節2020【楽曲オタクAdvent Calendar 2020企画】

このエントリは、なまおじさん(@namaozi)主催、【楽曲オタクAdvent Calendar 2020】用の記事だ。わたし個人としては2019に続き2度目の参加となる。

 

2020年の締めくくりに、優れた楽曲オタクたちが次から次へと音楽を紹介してくれる。音楽に興味がある人もそうでない人も、よければ下のリンクから他の記事も読んでみて欲しい。

 

    --楽曲オタクAdvent Calendar 2020(公式)

    

adventar.org

 

 

Index

 


 

0 (self-)Introduction

 

まずは、去年と同じように懺悔から入りたい。

 

実を言うと、わたしは楽曲オタクではない。楽曲オタクとはなんぞや――難しい問題だ。正直、自称できるほど自信があれば、誰でも楽曲オタクなのだろう。問題は、わたしにその自信が無いというところにある。

 

わたしが去年、このAdvent Calendarに参加した理由は、知己のめがねこ(@srngs_meganeko)が記事を執筆していたからだった。今年、そのめがねこは、掛川さん(@eomg_)の同人サークル、魚座アシンメトリーの新譜に作詞で参加した。

 

    --「side by side」/魚座アシンメトリー

 

pisc-n-asym.booth.pm

 

ちなみに、Advent Calendar企画の主催であるなまおじさんは作曲で参加。掛川さんご本人も逆に、Advent Calendar企画へ2年続けて記事を卸している。

 

彼らは音楽を聴いている量も作っている量も桁違いだ。わたしの中で楽曲オタクとはこういう人たちのことを指す。

 

翻って、わたしはあまり音楽を聴いていないし、主体性を持って音楽活動に取り組んでいるわけでもない。そういうわけで――少なくともわたし自身のうちにおいて――わたしは楽曲オタクではない。

 

ただ、わたしは某中堅ビジュアルノベル開発企業にアルバイトとして勤めていて、都合、BGMやボーカル曲の制作/製作などにわずかながら関わっている。そういう人によって書かれた記事が1本や2本あってもいいだろう、という甘い考えのもと、2020年もこのAdvent Calendar企画への参加を決めたのだった。

 

というわけで、去年と同じく、〈音楽を《作る》〉〈音楽を《聴く》〉の二大要素に、〈音楽を《使う》〉というものを加え、これら3つの視座を場面場面で交代させながら話を進めていきたい。去年の【サントラ】に代わるテーマは、【詞】。自分で言うのもなんだが、極めて恣意的なテーマ設定だ。メジャーどころが多い割に統一性の無い選曲……のように見えて実は、ということである。わたしの氏素性を知らない皆さんでも楽しんでもらえる記事にはなっていると思うので、そこはご安心を。

 

相変わらず前置きが長い。では、そろそろ本編へ*1

 


 

Ⅰ 音楽を《作る》──詞の具体、詞の抽象

 

1 そばかす/JUDY AND MARY

 

 

その昔、こんなことを思った。どうして世のレビューには、作曲や作詞の技法に踏み込んだものが少ないのだろう、と。実際には、単にわたしがそういうライナーノーツや解説に触れていなかっただけなのだが、しかし、世間一般の人向けに書かれた文章に限ってみると、やはり技術に焦点を当てたものが少ない気もする。とりわけ詞については、詳しい解説は詳しい解説で、どこか〈細かい〉技術の話から遠ざかっている印象もある。

 

最近ようやく、どうして少ないのか、どうして世間の目から離れたところにしかそういう〈メモ書き〉が残されていないのか、その理由の一つがなんとなくわかってきた。世間の人は、技術で音楽を聴かない。彼らは、もっと直感的で――作り手にとっては残酷なことだが――素直に音楽と接する。そういう人にとって、技術の話は小難しい上に本質的でないように感じられて、音楽体験の邪魔にしかならない。

 

翻って、作っている側からすると、その手の〈細かい〉技術の話はもうとっくの昔に飲み干してしまっている。〈わかっている〉ことをいちいち口に出すのは面倒くさい。よほど見事な出来でないとそこに言及する意味がないし、そこまで見事なら、少なくとも同業者間であれば、言わなくても通じる。結果として、特に詞については、なかなか技術的な話を見かけないのであった*2

 

その意味で、JUDY AND MARYの詞もやはり、〈細かい〉技術の話があまり為されない。実際、JUDY AND MARYの詞において、そういう〈細かい〉技術の話題は重箱の隅でしかないと思う。

 

では、JUDY AND MARYの美味しいところはどこなのか。わからない。手探りだ。JUDY AND MARYは参照点になりがちなアーティストで、「ジュディマリっぽくお願い」「ジュディマリっぽく作りました」という案件は世に溢れている。だが、作曲や編曲の方はさておき、詞について、〈ジュディマリっぽい〉の合意は雰囲気で形成されている。しかも大抵の場合、実は全員違う解釈をしていました、というオチが待ち構えている。

 

頻繁に指摘されるのは、〈女性的〉というところ。しかし、〈女性的〉とはなんなのか、そこに踏み込んだ文章はあまり見ない。説明しづらいのだ。この「そばかす」も、凄く(女の子らしくもありつつ)〈女性的〉だ。わたしもそう思う。一方で、〈女性的〉とはなんなのか、それは説明できない。

 

言われてみれば、まだ〈女の子らしい〉の方がわかりやすい気もする。ただ、これにしても、ぬいぐるみだとか角砂糖だとか、そういうイメージの単語を並べればなんとかなる話ではない。それっぽくはなるのだけれど。ここで躓いていては、〈女性的〉などおし広げて説明できるはずもない。

 

困った。1曲目からこの惨状だ。仕方なく、聴いていて一番〈女性的〉だと思った部分を書き並べてみた。

 

おもいきりあけた左耳のピアスには ねぇ

笑えない エピソード

 

そばかす/JUDY AND MARY Lyrics: YUKI

 

この、近すぎる身体へのまなざし。これこそが、その辺に転がっているオスには逆立ちしても書けない詞なのかもしれない。あり得ないほど近い、具体的なエピソードが、普遍を獲得している。この奇跡が、〈女性的〉なるものの源なのだろうか。いや、もしかしたらこれは、〈詞〉のもたらす妙の源かもしれない。朧気ながら、そんなことを思った。

 

***

 

2 Champagne Supernova/Oasis*3

 

 

日本に生まれた日本語遣いが英語で詞を書く。これはもう、それだけで一大事業だ。言うまでもないことだが、日本語と英語はぜんぜん違う。びっくりするほど違うのだ。ちょっと英語ができるからと調子に乗って英語詞を書くと、全く上手くいかない。学校では教えてくれないトラップがそこら中にあって、しかも、英語ネイティブスピーカーはそのトラップを意図的に踏み抜いてくることすらある。日本で生まれ育ったわたしに、そんな細かな押し引きのミソは全くわからない。

 

どういう洋楽を聴いたら英語の詞がわかるようになるのか――よく聞かれる質問だが、そんなものわたしが知りたいくらいだ。母音の長短、強勢、リンキング……別に、英語の詞は脚韻だけでできているわけではない。脚韻を無視していいわけでもない。

 

こんなことをうっすら思いながら、Oasisの2ndを聴いていたら、ふとある考えがよぎった。世間体で言えば兄弟仲が凄まじく、日本では狭い意味での音楽やサウンドの話ばかりされるユニットだが、実はOasisの詞は正統派かもしれない。

 

Wake up the dawn and ask her why

A dreamer dreams she never dies

Wipe that tear away now from your eye

 

Champagne Supernova/Oasis Lyrics: GALLAGHER NOEL THOMAS

 

響きが群を抜いていい。メロディのリズムパターン――弱拍と強拍の組み合わせ――に言葉が上手く乗っている。

 

だけれどもやはり、Oasisの詞の魅力は、この響きの裏側にある、普通の人より数段高いところで歌っているくせに、世界を270度くらい捻った角度から見ているような言葉の並びだと思う。わたしとあなた、その双方を冷めた言葉と熱い文脈で捉えきっている。抽象さ加減も絶妙だ。引用箇所に限らず、内容面でのレトリックは豪快だが、どこかで具体に繋がっている。

 

そんなことを職場で言ったら、上司から、「いやOasisの魅力は曲だよ。詞なんて、英語だから何言ってるかわかんないし」と返されたのだった。英語に限らず、詞とは案外、その程度のものだ。

 

それでもわたしは、Oasisの詞の、このひねくれた根性が好きで好きでたまらない。1990年代もてはやされた〈クール〉な英国音楽の神髄は、ここにあるのではないか。なんと言っても、そのひねくれたものの見方は、時に誰かを救いあげるかもしれないのだ。3rdアルバム収録の「Stand By Me」を聴いていたとき、そう思った。

 

 

There is one thing I can never give you

My heart will never be your home

 

So what's the matter with you?

Sing me something new

Don't you know, the cold and wind and rain don't know

They only seem to come and go away

 

Stand By Me/Oasis Lyrics: GALLAGHER NOEL THOMAS

 


 

Ⅱ 音楽を《聴く》──流行とわたし

 

3 私たちはまだその春を知らない/AiRBLUE

 

 

2020年は、ライブコンテンツ、ライブカルチャーにとって不幸な1年だった。春先からライブというライブが中止になり、アニメやゲームの世界、あるいはその周りで確立しつつあったライブ文化はひとまずの休止を余儀なくされた。

 

このシングル「beautiful tomorrow」は、コロナウィルスの流行拡大が本格的に騒がれ始めた頃に出たものだ。メディアミックス企画『CUE!』、そのメインラインを構成する1枚でもある。

 

当初、表題曲「beautiful tomorrow」をなぞる形で、5月に「Hello, beautiful tomorrow!」なるライブイベントを開催予定だった。わたしも、そのチケット争奪戦に備えるべく、このCDを縦積みした。残念ながらこのイベントは中止になったが、感染症騒ぎが小休止となった11月、代替ライブイベント「See you everyday」が川崎で開催されたのだった。 

 

このシングルのリリース当初、『CUE!』の追っかけからいわゆる楽曲オタクまで、その注目は表題曲よりもむしろカップリング「私たちはまだその春を知らない」の方に注がれていた。楽曲オタクが注目したということは、たぶん、凄く流行に敏感な曲づくりだったのだろう。詞の方も、この数年ほどなんとなく耳にする、〈エモさ〉=別離、特に若い頃の時間への意識(あるいは無意識)にきっちり焦点が合っている。

 

いつか一人一人になる時に

どんな色が 見えるのだろう

君が急に 私に 聞いた

 

私たちはまだその春を知らない/AiRBLUE Lyrics: SHILO

 

そもそも『CUE!』自体、新人声優を集めたコンテンツということを除けば、セールスポイントはこの〈エモさ〉への意識だった。実際、わたしもそこに惹かれて始めた……わけではないが、追い続けた理由の一つはそこにある。

 

しかし、正直な話をすると、この曲を初めて聴いたとき、わたしは困惑した。これがライブで流れたとき、わたしがどんな反応をするのか、さっぱり想像できなかったからだ。曲の〈エモさ〉ばかりが際立っていて、ライブに向かないのではないか。そんな不安がちらついた。

 

季節は流れ、この曲がライブで初めてかかったのは、春どころか秋の終わりだった。明らかに5月のライブで掛けることを念頭に置いた曲ではあっただけに、11月のライブでは流せないのではないか、と思っていたのだが、『CUE!』の「See you everyday」といえば、そんな問題が吹き飛んでしまうような――観客の想定はおろか、期待すら遥かに超える熱量で作りこまれた――とんでもない代物と化していた。

 

結論を言ってしまえば、前述の不安は杞憂だったということだ。いや、11月のライブには確かに向いていなかった。ありあまる熱量が「私たちはまだその春を知らない」を全く別の曲へと変貌させてしまったからだ。それに、延期に延期を重ねた末のライブという特別感が、ライブそれ自体を物語へと仕立て上げてしまった結果、幸か不幸か、ライブの中にこもる〈エモさ〉が楽曲単体のそれを軽々越えてしまったのである。さらにさらに、夜公演でのTVアニメ化発表パンチだ。これで「私たちはまだその春を知らない」一つの感想を長々と書け、と言う方が無理な相談だろう。

 

それくらい、ライブの熱量はすさまじかった。一番驚いたのは、Bird*4の「にこにこワクワク 最高潮!」。

 

 

CD音源版を聴いた人は、別の意味で驚くかもしれない。これのどこに熱さがあって、どこにライブ向きの要素があるのか。むしろ(・・・)その疑問の(・・・・・)うちにこそ(・・・・・)、わたしのひっくり返った理由がある。げに、ライブカルチャーは素晴らしい。

 

***

 

4 ヒトリゴトClariS

 

 

わたしはだいたい流行から周回遅れなので、何かを聴くのは大抵ブームが過ぎ去ってから。2020年も、今さらFlipper's Guitarの1stを聴き直してみたり(まさしく英語で詞を作る大事業!)、なんとか話題についていこうと「A LONG VACATION」を流してみたり*5、なんとも言えない微妙な流行の追いかけ方をしている。

 

実を言うと、声優ソングなど広義アニソン*6についても似たような感じで、「23時の春雷少女」*7を聴いたのはリリースされてから3ヶ月後のことだった。

 

ClariSも、本当ならそうなる運命だったのだが、何があるかわからないもので、様々な因果の糸が絡み合った結果、なんとシングル「アリシア/シグナル」はリリース直後に聴いたのだった。

 

 

これには、ちょうどその頃、たまたま『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』なるTVアニメを見ていたから、という理由もある。 

 

そのアニメのEDだったClariSの「アリシア」、そしてアニメそれ自体に対しては、同じ感想を抱いた。これは、2010年代に芽生えたなにがしかの総決算なのではなかろうか。新しい曲、新しいアニメに触れていて、流行を――こう書いてみると、わたしがこの言葉を使うのもなかなかおかしな話だが――そう、流行をちゃんと意識しているな、とも思うのに、どこか懐かしい気もする。

 

実際、流行を追っているだけでなく、「アリシア」は詞としてもチャレンジングな曲だ。

 

夜の路地裏 静かな公園

駅の雑踏 心の隙間

 

アリシアClariS Lyrics: 毛蟹

 

連想ゲーム的にものを並べ立てていく詞は案外リスキーで、積極的に採りたい作戦ではない。そもそも、詞どころか詩の世界でも難しい技法だ。歌詞の世界でぱっと思いつくところでは、坂本真綾の「うちゅうひこうしのうた」あたりが成功例だろうか。それでも、「なんでこんなものが並んでいるのかわからない」という意見は耳にしたことがある*8

 

 

閑話休題。流行にも敏感で、チャレンジ精神にも富んだこの曲を聴いて、わたしはどうして、懐かしさを覚えたのだろう。これも感覚的な話で、理由なんてどこにもないのだが、歌詞を眺めていて、感じ入るものがなかったわけではない。

 

流れて行く前に

消えて行く前に

知らない未来があるのなら

 

誰かの描いた

シナリオじゃなくて

手を繋いだままで進める

私たちの道 見つけたい

 

アリシアClariS Lyrics: 毛蟹

 

なんとなく、このメタ設定を前提にしたような詞に、2010年代、その始まりを告げた『魔法少女まどか☆マギカ』本編、そしてそのアイディアの源流としての2000年代美少女ゲームカルチャー、さらに1990年代、あるいはそれ以前のTVアニメを連想したのかもしれない。

 

そのとき、では、美少女的な内容ではなく、今「アリシア」を歌っているClariSそれ自体の源流はどこにあるのだろう、と思って手探りに聴きあさった結果辿り着いたのが、「ヒトリゴト」だった。

 

2010年代、流行に乗り、栄華を極めたようにも思われたClariSだったが、ご存じのとおり、実際にはメンバーの入れ替わりなど色々あった。その意味で、今のClariSとしては、この辺りが一つ、何かの源だったのではないだろうか。

 

ヒトリゴトだよ 恥ずかしいこと

聞かないでよね

キミノコトだよ でもその先は

言わないけどね

 

ヒトリゴトClariS Lyrics: ケリー

 

この詞の素晴らしいところは抑制にある。冒頭「ヒトリゴトだよ」「キミノコトだよ」とメロディラインに対してほぼ完璧な音の当て方をした割に、これはここ1回ぽっきりしか出てこない。そもそも「ヒトリゴト」という言葉自体、曲中もう1ヶ所でしか使わないのだ。これは聴かせ方の妙。この詞はまさしく「ヒトリゴト」だった。

 

しかし、知名度の面でも楽曲の評価のされ方の面でも「ヒトリゴト」が有力なのは間違いないとして、なぜわたしがこの曲に引っかかったのか、という疑問は残っている。これも、理由はわからない話だ。ひょっとしたら、わたしの中で、『エロマンガ先生*9がやはり、2010年代の一つの節目のように思われたからかもしれない。『月刊少女野崎くん』『NEW GAME!』あたりから派生したアニメ版『エロマンガ先生』のライン*10と、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』から連なるライトノベル版『エロマンガ先生』のライン*11が交差しているのも、そう感じた理由の1つだろう。

 

こうして並べてみると、ClariSというのは、まさに2010年代の寵児だった。証人と言ってみてもいいかもしれない。そしてその2010年代というのは、それ以前から繋がる流れの中にあってのものだった。流行に疎いわたしがClariSだけは聴いていた、という事実も、そう思うと、なんとなく示唆深いもののような気がしてくる。気がしているだけ、というのがオチ。

 


 

Ⅲ 音楽を《使う》──音楽に触れる時・場

 

5 だんご3兄弟/速水けんたろう茂森あゆみ*12

 

music.apple.com

 

世に誰もが知っていると喧伝される曲は数多あれども、この曲ほど本当に誰でも彼でも知っている曲は少ないだろう。今さら何か新しい発見があったわけでもなく、「凄いね」としか言いようがない。

 

だんごとタンゴを掛けたというのは有名な逸話だ。いや、そもそもこの発想自体非凡なのだが、語り尽くされていてやはり長々書くべき話ではない。書けることがあるとすれば、それはわたしの、極めて個人的な感覚でしかない*13

 

この曲に初めて触れたのは、年齢がバレるネタだが、幼い時分だった。当然何を言っているのか全くわからず、詞を全て覚えていたわけでもなく、途切れ途切れで、格好のつかない、至って中途半端な歌・のようなものが、わたしの手元にあった。

 

「こんど生まれてくるときも」。

 

わたしが「だんご3兄弟」以外にフレーズとして覚えていたのは、実にこの1ヶ所だけだった。あとは、「次男」だとかなんだとか、歯抜けに単語だけが残っていて、そこ以外はふんふんふんとラララ~で飛ばしていた記憶がある。

 

どうしてそこだけ覚えていたのか、理由はわからない。しかし、子どもが歌に触れるとは、そういうことなのかもしれない。理由があって覚えたはずのものすら消え、最後に残るのは、理由もなく覚えてしまったもの。まことに恐ろしい限りだ。

 

今年、ひょんなことから、数十年ぶりに「だんご3兄弟」の詞と向き合う機会があった。いや、まともに向き合ったのは、人生で初めてかもしれない。

 

こんど生まれてくるときも

ねがいは そろって 同じ串

できればこんどは

こしあんの 

たくさんついた あんだんご

だんご

 

だんご3兄弟/速水けんたろう茂森あゆみ Lyrics: 佐藤雅彦・内野真澄

 

この詞に盛り込まれた諧謔み、リズムのキレの良さ、そうした巧さは、何一つ幼いわたしの手元に残らなかった。しかし、その巧さが際立てた前向きな哀しみは、わたしの深いところに刻まれている。「こんど生まれてくるときも」。この願いは、誰のものだったのだろうか。子どもが保育所でこの歌を歌うとき、子どもに(・・・・)保育所(・・・・)この歌を(・・・・)歌わせる(・・・・)とき(・・)――それはすなわち、この曲を使うとき――何を思うのだろうか。そんなよしなしごとを考えるようになったのは、ひとえに、わたしが年を取ってしまったからなのだろう。

 

***

 

6 空の青さを知る人よ/あいみょん*14

 

 

 

非凡な出だしだ。ひと目、好きになった。

 

この冒頭は相当練ったか、あるいはそうでなければ、この冒頭ありきで曲を作ったのだと思う。そうでなければ、あそこまで長く、2番の歌い出しを1番に重ねなかっただろう。しかし、わたしが好きになったのは、音の重なりではなく、これでもかと言うほど強い言葉を冒頭も冒頭で使うセンスの方だった。これが売れているアーティストなんだなあ、などと、月並みな感想を抱いたものだ。

 

この曲は、2019年公開の同名アニメ映画『空の青さを知る人よ』の主題歌だった。脚本は岡田麿里。思春期の少年少女と「喪失」を題材にした、いかにも岡田麿里、という作品だ。

 

実のところ、わたしの中でこのアニメ映画は予告編で終わっている。本編を見ていない、ということではなく、単に予告編で完結してしまっているのだ。2019年秋前後、わたしはやけくそのようにアニメ映画を鑑賞し続けていた。その中で、「空の青さを知る人よ」を使ったアニメ映画のPVに何度も何度も触れた。感想は、「曲のインパクトが強すぎる」。PVの完成度も作品も素晴らしかったが、それをあいみょんの勢いが上回っていた。そのように、思われた。

 

実際この曲は歌う側泣かせで、シンガーソングライターでもなければ歌いこなすのに相当な苦労がいる。その理由は、ひとえに2番サビ後のパートに尽きる。

 

同じ言葉の繰り返しというのは、歌う側に解釈の余地が与えられすぎるので、なかなか狙ったところに着地しない。たとえば、単語を一つ重ねるごとにクレッシェンドを掛けてもいいし、後ろに熱を保留して、淡々と歌い上げてみてもいい。前者の方が局所的な盛り上がり重視で、後者の方が〈怖く〉なりがちな雰囲気重視だと思う。この曲の場合、音源版は後者。重い。

 

あいみょんの歌というのは、この曲に限らず、特に初期のものについて言えば、〈重い〉という形容がぴったりくる。単に詞が重いのではなく、その解釈が重たさを保証しているのだ。そういう意味で、この「空の青さを知る人よ」は、あいみょんの重たさが売れている勢いに乗って空まで突き抜けてしまった曲、なんて言えるかもしれない。いわく、運動エネルギーは速さの2乗と質量に比例するらしい。そんなエネルギーに満ち満ちた曲をぶつけられては、とでも言えようか。PVを作る側、EDを用意する側となっては嬉しい悲鳴なのだが。こんな曲を実際に主題歌として使ってから、「良すぎる曲は作品に重た(・・)すぎる(・・・)」などと言ってみたいものだ。

 


 

終わりに──美少女ゲームと詞

 

7 PART 2/???(imoutoid

 

maltinerecords.cs8.biz

 

わたしがその傍らにいる美少女ゲーム業界は、言ってしまえば、この世で最もキッチュなものを作っている世界だ。シナリオも絵もBGMも主題歌も、全て全て〈いい感じに〉〈気持ちいい〉、あるいは、〈いい感じに〉〈気持ち悪い〉方へ向かっていく。もちろん、〈いい感じに〉〈売れる〉方へ流れることもある。

 

詞はどうだろうか。〈いい感じに〉なりきっていないのは関わる人間の力量不足だとして、そもそも、その詞から何か意味を見出すことなどできるだろうか。できるかもしれないし、できないかもしれない。作る側はいくらでも仕掛けを仕込める代わりに、全く動作しなくても文句は言えない。「自分はこういう意図で作ったんだ」といくら騒いだところで、結局は通俗の極みにあり、場合によっては自分勝手の極みですらある。

 

ただ、ごく稀に、そのキッチュなものが、自分のキッチュさを何一つ否定しないまま、清新で、エモーショナルで、ノスタルジックで、同時に激しい叫びになるときがある。それがそこにあることの奇跡性をもって、自らのキッチュさを超克してしまうときがある。それは言い換えれば、全く人間的である。

 

imoutoidのアルバム「ACGT」に収められた「PART 2」を聴くと、必ずそう思う。連続も余韻も否定した電子の音の中で、詞は狂い、曲は踊る。しかし、その不連続のうちに、わずかながら、言葉が屹立している。その叫びは、今でも常に新しいものとして、人間のもののごとく、わたしのうちに忍び込んでくる*15

 

わたしが美少女に、美少女ゲームに、美少女ゲームの詞に求めたものは、この類の奇跡性だったかもしれない。そんなことを思いながら、待降節に入った今日もわたしは、奇跡からほど遠い、全く俗な何かのために働いたのだった。

 


 

皆さんがここにあって、このエントリを読んでくださった奇跡(・・)に感謝して。皆さんにも奇跡が舞い降りんことを願いながら、今年もクリスマスを待ちたい。

 

来年も、良い音楽と出逢えますように。

 

 

(了)

 

*1:なお、記事中詞を幾つか引用している。はてなブログでは、JASRAC管理楽曲について部分的に歌詞掲載が可能である。本ブログでは、ガイドラインに則って歌詞を引用していることを予めお断りしておく。また、作詞者表記などは、JASRACの運営する検索エンジンJ-WIDでの検索結果に依っている。そのため、一般的な表記と異なる場合がある。

*2:最近、ヒップホップやラップの文化が日本にも定着し始めて、詞の響きなど〈細かい〉技術についての話題も見かけるようになった、気がする。

*3:J-WIDでの表記は全て大文字。個人的な感覚と公式ホームページ、ストリーミングサービスなどでの表記を鑑み、ここでは先頭のみ大文字とした。

*4:『CUE!』のコンテンツの中で結成された、4人組のユニット。ちなみに、AiRBLUEは16人全員でのユニット名。

*5:「A LONG VACATION」は、1981年にリリースされた、大滝詠一によるスタジオ・アルバム。Tr. 1の「君は天然色」が2020年夏放映のTVアニメ『かくしごと』EDに採用され話題になった。

*6:わたしは、アニメで実際に用いられた曲を狭義アニソン、それよりもう少し緩く、いわゆる声優ソングやキャラクターソングまで含めたグループを広義アニソンと勝手に呼んでいる。この辺りをしっかり固めておかないと、話が混乱してしまいがち。

*7:2020年6月にリリースされた、鬼頭明里の1stアルバム「style」収録曲。作詞作曲・田淵智也UNISON SQUARE GARDEN)、編曲・やしきん、と、楽曲オタクを狙い撃ちにしたかのようなクリエイター陣で話題となった。

*8:「うちゅうひこうしのうた」について言えば、さらに、「なんで最後に『ラララ~』と言葉を捨てているのかわからない」という意見も頂戴したことがある。「ラララ~」やハミングで通すのもそれはそれでリスクを負っている、ということだ。

*9:ClariSの「ヒトリゴト」がOPだった、2017年放映のTVアニメ。

*10:エロマンガ先生』の監督である竹下良平氏は、山崎みつえ氏監督『月刊少女野崎くん』で演出として台頭した。藤原佳幸氏監督『NEW GAME!』でも副監督。ちなみに、『NEW GAME!』も『月刊少女野崎くん』も動画工房の制作。同じく動画工房が制作した2018年のアニメ『多田くんは恋をしない』(監督・山崎みつえ、副監督・藤原佳幸)では、竹下良平氏をネタにしたと思われるシーンがある。

*11:いずれも原作・伏見つかさ、イラスト・かんざきひろTwitterの公式は合同で、TVアニメの制作もA-1 Picturesが主力。

*12:実際にはコーラス参加のアーティストもいるが、JASRACの運営する検索エンジンJ-WIDの表記に従っている。

*13:そもそもこのエントリ自体、そういう個人的な感覚の塊だ、というご指摘は正しい。

*14:この曲は著作権まわりに厳しいので、歌詞の引用を控えている。

*15:この曲それ自体については、imoutoidによる自作解説が詳しい。

 

blog.livedoor.jp

 

自作解説中、この言葉がやたら脳裡にこびりついている。

 

鬱者は式に行けない。

 

歪んだ青年期を送る僕へ、僕による、僕の為の、諦めと開き直りに満ちた音楽。ターゲットは自分。

 

引用元: 前掲ブログ

 

「PART 2」を聴いていると、ボーカルと他の音の区別すら曖昧になっていく、ある意味量子的な音楽の中で、断絶と共に「卒業」という言葉が顔を覗かせる。「THECEREMONY」とはなんだったのか。今となってはわからない話だ。

 

早逝したimoutoid本人については、彼やtofubeatsとも親交のあったimdkmが音楽ナタリーに記事を寄せている

【試論】ビジュアルノベルにおける「全体」序説: 『TrymenT』について

ライプニッツ記号論の端緒を紡いでから数世紀、人類は未だ、一つの記号体系への統一に向けた苦闘の最中にある。要するに、表現の形式によってメッセージそれ自体が変質する、といった、もはや古臭さを感じさせるような議論から――皮肉なことに――脱却しきっていない。これは、認知云々以前の話である。

 

特に、マルチメディアを駆使する「作品」において上記の事実は深刻かつ本質的な問題と化するのだが、実際のところ、特に商業的な利益を目指すようなプロジェクトにおいて、この問題は所与の前提の前に忘れ去られている。すなわち、形式が先立っており、その後構造などが固まるパターンが圧倒的に多く、「そのメッセージに最も適した形式」が検討されるケースはほとんど無い。

 

しかしながら、形式がある程度固まっている状態であろうとも、その内側において最善を目指す努力は当然為されるべきである。むしろ、そこにこそクリエイティビティもクリティックも姿を現すと言ってよいはずなのだが、とりわけビジュアルノベルの近傍においては、どちらもそこへ向かっていない。この理由としては、個々の要素の創作と議論に終始する界隈の風潮や、キャラクターを重視し過ぎる制作フローが挙げられるだろう――いや、いずれも尊重すべき議論や慣習であり、さらに言えば、結局そこに辿り着くのであるが、ここで主張したいのは、その前段階としてのマルチメディアのマルチ性に関する話題があまりにも看過され過ぎている、という実態の方である。

 

以下、具体例を挙げ、形式に向き合っていたはずの作品がなぜいつの間にか形式に裏切られていたかを短いながらに検証していくことで、ビジュアルノベルにおける個々のメディアの繋がりについて考えていきたい。敢えて大言壮語を吐けば、これはビジュアルノベルの「全体」に関わる議論、その嚆矢である。

 

***

 

2020年の初め、『TrymenT』なる全年齢向けの作品がリリースされた。これはニュートラルな意味で「問題作」である。実態としては『Re: LieF』の全年齢向けリブート版と言うべき企画であるが、シナリオの内容には相当のブラッシュアップが施されている。CG面での洗練も素晴らしい。

 

ではなぜ「問題作」なのかといえば、これが形式の面で相当の――相対的に、だが――挑戦をした作品だったからである。その「問題」性それ自体に関して善悪の価値判断はしない。なぜならば、その挑戦は、シナリオ側から見れば半ば必然的に挑まざるを得ないものであり、まさに上述の意味でクリエイティビティが発露した結果現れたものであったからだ。

 

ただ、「問題作」らしく、体験版の段階で面食らうプレイヤーも相当多いと思われる。まず、シナリオの文体が三人称で一貫している。これは通常のビジュアルノベルではまず考えられないことだ。普通、ビジュアルノベルはなんらかの視点人物を用意し、そのキャラクターに状況の説明や心情の吐露の一切を任せる。対して、『TrymenT』は、視点人物を一切放棄し、徹底的に三人称の視点を貫く。その形式上のこだわりは相当強く、たとえば(三人称視点ではなく)三人称小説で見られるような、「XXは嬉しく思った」といった、キャラクターの心情を解説するような文もそのほとんどが排除されている。もちろん、「XXは嬉しそうに飛び跳ねた」といった、動作の修飾を兼ねた形での表現は頻出するが、それでも通常の一人称視点ビジュアルノベルに比べると相当の規制を自らに課したと言えよう。

 

また、エピソード間の繋がりに関してもかなりの工夫が施されている。エピソードごとに(視点人物ではなく)中心人物が頻繁に切り替わる上、そもそも時空間が全く連続していない。時間も空間もバラバラに切り離された状態で個々のエピソードは進行し、それらがパッチワーク状につなぎ合わせられていくことで、シナリオの全体像を提示する形式を採用しているのだ。あるいは、モザイク画的、と言ってもよい。個々のエピソードの解像度は、近視的にはかなりのものがあるものの、それがシナリオの流れの中でどこに位置しており、どのような意味を持たされているのか、それは特にゲーム開始当初全くと言っていいほど明らかにされない。

 

このような文体とシナリオ構造に関する工夫は、『TrymenT』の企画者/シナリオライターがおそらくは描きたかったであろう何かから計算すれば当然のものであった。ここではそれを仮に《メッセージ》としておく。この《メッセージ》には、これもおそらくだが、有史以来相当の数の人間がチャレンジしてきた。その中で採られてきた代表的な手法としては、なんらかの特徴ある人物一人に焦点を当てる、というものが挙げられる。また、同じようで実は違うのだが、なんらかの特徴ある人物一人の《視界》にひたすらこだわる、という手段も採用されてきた。だが『TrymenT』は、そうした技法を敢えて採用しなかった。その理由は、この《メッセージ》が根本的に抱える「全体性」にある。前述したような二つの技法は、それを通じて《メッセージ》の抱えるひずみや矛盾を露呈させる際に極めて有効なのだが、《メッセージ》全体を描くのに適しているとは言えない。むしろ《メッセージ》は、それら数多の矛盾を抱え込みながら未だ「全体性」を保持し続けている。

 

ではどうすればいいのか。すぐに思い浮かぶのは、上述の作戦を数の面で拡張し、「できる限り多様な登場人物を提示し、そのいずれもについて綿密に描き込む」という手である。だが、十九世紀に活躍したどこぞの大文豪ならともかく、普通このような手法は成功しない。成功した事例はそれこそ片手で数え上げられるだろう。これを狭義の群像劇とすると、次に候補となるのは、広義の群像劇である。なんらかの事件(群)について、それに関わる人々がどのような行動を取ったのか、その行動の結果事件はどのように動いていったのか、を描写していく手法だ。事件に対する距離をサンプルとなる登場人物ごとにばらけさせることで、事件の多様な側面を描いていくことができる。『TrymenT』がやりたかったのはこちらであろう。

 

だが『TrymenT』はここでもう少し考えこむ。果たしてそれだけで《メッセージ》を描ききれるのだろうか。《メッセージ》が全であるのは、空間的に、というだけでなく、時間的にもそうなのではないか。それを描写するためには、《メッセージ》の時間的連続性を露呈させる必要がある。逆説的だが、そのためには、《メッセージ》の時間的連続を一度解体する必要があった。考えてみれば、《メッセージ》はそもそも矛盾を大量に孕んだものであった。それを認めつつ、まだらながらに連続であること――連続の中に断絶があること、あるいは、断絶の中に連続があること――を示すには、時系列を切り刻んだ上で、それを最後に綴じ合わせるしかない。なるほど、考えれば考えるほど、『TrymenT』は相当に真面目な作品だと分かる。

 

ここに至って、『TrymenT』はシナリオについてかなりのクリエイティビティが注がれた作品であると結論づけられよう。しかしそれは、『TrymenT』が別の意味で《問題作》である理由でもある。空間的時間的に不連続なエピソード群を描写するにあたり、『TrymenT』は視点‐文体を徹底した三人称に設定せざるを得なかった。この必然性は、同じような構造のシナリオを一人称で描くとどうなるか想像してみれば理解できるだろう。そもそも、広義の群像劇に仕立て上げたかった理由は「一つの側面からでは描ききれないものがある」であった。その上で、数多の「一人の視点」によって群像劇を構成してしまうと、最後に提示したい《メッセージ》がいずれの視点から観測されたものなのか分からなくなってしまう。あるいは、特定の視点から見た《メッセージ》に終始してしまうだろう。それならば、最初から視点を特定の誰かに固定させておいた方が良い。こうして、『TrymenT』は、個々の人物の心情にも潜り込むことなく、ひたすら外面を観察する三人称の文体を貫徹させることとなった。

 

問題は、それをシナリオ以外の要素が理解できていたか、という点にある。例として立ち絵芝居、スクリプトを取り上げてみたい。これも、体験版を紐解けばすぐ分かる話であるが、『TrymenT』の立ち絵芝居は相当「工夫」されている。各キャラクターの立ち絵におけるポージングがまず「工夫」の一つだ。文体の三人称に合わせる形で、特定の誰かに対して正面を向くことなく、それぞれのキャラクターが画面内で向き合えるよう設計されている。

 

ただ、この「工夫」は多くの人が想定しているよりだいぶ難しい問題を孕んでいる。というのも、これは演劇的な構図までしか取ることができないからだ。そう、『TrymenT』の立ち絵芝居とはただしく芝居なのである。映像の世界とその近傍では、画面の向こう側にいるプレイヤーの視点をカメラになぞらえがちだが、ことビジュアルノベルに関してはそうとは言えない。カメラであれば、比較的任意に画作りを行える。しかし、ビジュアルノベルは、その素材の量及び質の制約から、立ち絵芝居において設定可能な画の範囲が定まっている。簡単な例を挙げると、背景素材で全く想定していない空間は描写できない。また、人物を立ち絵素材で予め設定された角度以外から映すこともできない。こうした制約は、立ち絵や背景の素材数、また任意に画作りを行えるイベントスチル(いわゆるCG)の数をとにかく増やすことで緩和できるが、実際問題商業制作において無限に近い素材数は要求し得ない。すると、立ち絵芝居は必然的に演劇へ接近していく。

 

『TrymenT』の場合、さらに災難だったのは、三人称の視点を貫徹しなければならなかった点であろう。『TrymenT』は立ち絵素材の数に関して言えば相当恵まれている方であるが、たとえば同じ素材量でも、一人称視点を設定できた場合、振り向き立ち絵などを用意することで、より簡単に空間的な奥行きを表現し、かつ、「演劇らしさ」を低減できた。

 

ここで、ビジュアルノベルが演劇になってはいけない、と主張したいわけではない。意図的に演劇へ近づけていきたいのであれば、こうした効果はむしろ積極的に狙っていくべきであろう。ただ、『TrymenT』に関して言えば、《メッセージ》それ自体がある種のリアリティを要請している都合、これが芝居であると悟られてはいけなかった。もちろん、演劇であってもリアリティは担保し得るが、ここで指摘したいのは、そのような斜め正面を向き合う構図で必然的に生じる中央の「隙間」によって、キャラクターの言動が相対する別のキャラクターだけでなく、「隙間」を埋めるべき存在たるプレイヤーに向かっても放たれている、少なくともその効果が副次的に生じてしまっている、という点である。それによって、『TrymenT』は本来狙うべきリアリティから離れてしまったのではないか。筆者の疑問はまずここにある。ビジュアルノベルの画面に映るものが真にカメラ的であれば、これは生じ得ない問題であった。

 

ビジュアルノベルの立ち絵芝居やスクリプトにおける、画作りの角度に融通が利かない、という制約は、しかし、これよりもさらに大きな問題を『TrymenT』にもたらしている。それは、シナリオで徹底されていたはずの三人称視点の崩壊、という形で露呈している。

 

筆者は、『TrymenT』のゲーム(あるいはビジュアルノベルとしての『TrymenT』)それ自体に初めて触れた際、言いようのない違和感を終始覚えた。このシナリオは、常に三人称で進行している。それは間違いない。三人称にせざるを得なかった理由も分かる。だが、終始三人称の文体で進行するビジュアルノベルに慣れない以上に、『TrymenT』のもたらすエクスペリエンスに慣れなかった。この作品は、どこかでバランスを失っているのである。

 

その理由は、敢えて誤解を招く表現を用いれば、スクリプターの直感に求められる。普通、立ち絵芝居や背景の操作を担当するスクリプターは、自らが「気持ちいい」と思うような進行に仕立て上げる。そして、だいたいの場合、それはディレクターやプロデューサーなど、然るべき役職の人間によるチェックを通る。この「気持ちいい」に従っていればよい、という規範を「快楽原則」と言う。究極的なことを言えば、この「気持ちいい」を完全に把握しきっている人間がスクリプトを担当すれば、その作品は唯一無二のものになる。そこに矛盾も狙っていない違和感も一切生じないからだ。

 

アニメの絵コンテなどでは、たまにこの「気持ちいい」を極め尽くしたような人間が現れることもあるのだが、実際問題、ビジュアルノベルスクリプターでその領域にまで到達している人を見かけたことが無い。ただ、それにはビジュアルノベルにおけるコスト面での制約も関係しているので、ほとんどの場合あまり強くは言えないところだ。

 

その点、『TrymenT』のスクリプトはリッチで、いかにも「工夫」に満ちている。まず、画面が保っていない、という時間が無い。「画面が保つ」という表現も、かなり直感的なものだ。スクリプトの実作業においては頻出の単語であるが、その実、「やっていて冗長に感じる」「動きがなくて寂しい」など、スクリプターやチェック担当者の様々な主観的評価を一言に集約した表現である。

 

『TrymenT』がスクリプトで頑張らざるを得なかった理由は幾つか推測できる。一つには、シナリオがあまりに淡々と三人称の文体で進行するため、エピソードの内部において緩急を付けにくかった、という事情があるだろう。『TrymenT』のシナリオは、再三繰り返しているように、テクスト面では相当徹底された作りになっており、基本的に地の文では動作しか表現されない。また、込み入った状況を客観視点から冷静に描くため、キャラクターの熱量を伝えにくい。その帰結があの短く切られた文である。

 

もう一つには、似たようなことだが、この作品が《メッセージ》第一主義に陥るあまり、「ここが盛り上がりどころ」とプレイヤーに提示しづらかった、という点も挙げられよう。これはエピソード内部に限らず、エピソード間での比較についてもそうである。先に述べたように、特に前半、『TrymenT』は確信的にエピソード群をバラした上で提示している。要するに、エピソードとエピソードの間の繋がりを全く見せていない。そのため、プレイヤーはどうやっても、順を追うだけでは、盛り上がりの予兆を感知できないのである。

 

エピソードの内部ではテクストで徹底的に熱を削ぎ、エピソードとエピソードの隙間も大きく見せる。これではいかにも「画面が保たない」。キャラクターの立ち絵を配置する前から、それこそ直感で理解できる。

 

スクリプターが苦肉の策で採ったアイディアは、とにかく黒や白を前景に配置し、画面に映る背景を絞る、というものであった。これは相当に強力な手法で、普通乱発はしない。というより、する必要が無い。それほど「画面が保たない」状況に追い込まれるケース自体滅多に無いからだ。だが『TrymenT』はこれを多用した。普通、黒挿し・白挿しといえば、「シネスコ」と称される、上下に細く入るもののみを指すが、『TrymenT』はそれに限らず、とにかくあらゆる種類の黒挿し・白挿しを採用している。左半分のみ映す、右半分のみ映す、上下の幅をさらに狭める、などなど、羨ましいくらいに手段が豊富だ。

 

ただ、この黒挿し・白挿しによる画面の変化は、部分的にスコープの効果を生むことがある。画面に表示される背景が制限されるので、事実上拡大しているのと同義なのだ。実際に背景を拡大した状態で黒挿し・白挿しを実装するケースも多い。そして、このスコープ、あるいはファインダー的効果こそ、『TrymenT』最大の誤算であった。

 

何度も述べているが、『TrymenT』はそのシナリオ構造からして三人称を貫徹する必要があった。そして、それは当然のことながら、シナリオだけでなくスクリプトや立ち絵芝居においてもそのようになるべく仕組まれていた。肯定的に捉えれば、「芝居」になることを覚悟で立ち絵のポージングに「工夫」を施したのであるとも言える。それもこれも全て、シナリオの要求に応えるためであった。

 

だが、そこで安易に黒挿し・白挿しを実装するとどうなるだろうか。たとえば、体験版中、中心人物ではないあるキャラクターが冷蔵庫を開けるシーンを見てみよう。直前まで引きの画でキャラクターの立ち絵もあったところ、冷蔵庫を開く件に至って、背景がアップになり、右半分に黒が挿入される。この瞬間、キャラクターの立ち絵も消える。こうすることで、背景全体では左半分に小さく描かれているだけの冷蔵庫のみが画面に映り、結果、プレイヤーの関心は冷蔵庫に惹き付けられる。それは間違いない。問題は、プレイヤーはこれを誰の視点と捉えるのか、というところにある。

 

作品の受け取り手側は、常に視点を一致させる先を求めている。それは神の視点を持った語り手かもしれないし、二人称で語られる「あなた」かもしれない。いずれにせよ、プレイヤーは誰かしらの視点に自らを滑り込ませることで、物語世界に没入しようとする。『TrymenT』はその点、徹底して「機械の目」で文章が進行していく。地の文は誰の心情も明示せず、動作とその結果を淡々と述べ続ける。プレイヤーはなんとかそれに納得してゲームプレイを進めていくのだ。

 

ところが、画の方はどうか。冒頭、プレイヤーと作品の間において、「これは三人称で進む物語なんだ」なるコンセンサスが得られていない状態で違和感を覚えるのはどうしようもない。これはシナリオ構造上どうしても発生するコストである。しかし、ある程度物語が進行してきた状態で、上記の例のように「一見誰かの一人称視界」に見える画作りが為された場合、どうなるか。しかもそれが、誰かとの重要な会話などではなく、冷蔵庫を開けるといったような、本来些細なはずの動作/描写で発生するとどうなるか。議論するまでもないことである。

 

すなわち、『TrymenT』は、普通絶対に大丈夫なはずの「快楽原則」に従ったところ、作品の仕上げの段階でコンセプトやコンセプトから導かれる演出プランが揺らぎ、結果として奇妙な違和感を常に与え続ける作品になってしまったのである。これは明らかに、《メッセージ》を表現する際ノイズになる。すなわち、《メッセージ》が変質している。もし仮に、『TrymenT』はなんとなく一人称っぽい、という感想を抱く人がいれば、それはシナリオ、特にテクストのせいではない。むしろ、シナリオをビジュアルノベルというメディア形式に落とし込む際発生したエラーに気を取られているのである。

 

このようなスクリプト上の問題は、普段滅多に前景化しない。大抵の場合、よほど無茶なことをしなければ物語はつつがなく進行していく。そのため、特に時間的制約が厳しい商業制作のビジュアルノベルでは、ベターな選択肢があるかどうかすら検討しないことも多い。

 

また、最初に検討したような視点の問題も、なかなか議論にならないところである。文学の歴史を紐解いてみると、こうした形式上の視点人物の問題は、実制作者=作家による創作論が土台となっている。その点、ゲームのシナリオライターによる創作論が活発になってきたのは、それで個人がマネタイズできるようになったここ数年のことであり、むしろこれからのフィールドである。

 

さらに付言すると、シナリオライターによるシナリオ至上主義、あるいは逆に、原画家・グラフィッカーによるイラスト至上主義の弊害もここに浮上してきている。このようなスクリプト上の問題、あるいは他にも、音響上の問題、システム/UI上の問題など、本来議論すべきことは山のようにあるにも関わらず、実際には、現場で決定権を握っている人がどのようなキャリアを持っているかによって、こうした問題のうち幾つかは等閑視されている。このような現象はアニメ産業でも観測されるが、少なくともアニメにおいては、監督やスタジオのカラーと言える水準で物事が収まっている。これには、予算や人員の問題の他、監督になるまでに積むべきキャリアの長さなども影響していると思われる。翻って、ビジュアルノベルは、比較的若い人でも決定権を入手できる代わりに、「全体」に対する視座を持ち合わせていないケースも多い。

 

個々の作品について、プレイヤーがどのように受け止めるか。作品の作り手側は、流石にそこまで管理できない。しかしながら、何かを発信する段階で生じ得るような「メッセージ」の変質を防ぐことはできる。そうした「メッセージ」の変質は、たとえば今まで見てきたように、マルチメディアを構成する一要素を「全体」に落とし込む際発生するものである。となれば、シナリオ至上主義だろうとイラスト至上主義だろうと、いやむしろ、何らかの要素について徹底したこだわりがあればあるほど、他の構成要素の勉強をしなくてはならない。仮にその勉強の上施された《工夫》でも解決し得ない課題に直面したとすれば、それは作品がビジュアルノベル自体に対して批評的と言えるレベルにまで到達した、ということである。本来「作品の品質が」と言う時に理想として掲げられる何かとは、このような意味で批評的なものではなかったか。冒頭、クリティックがクリエイティビティと同じところにある、と述べたのは、このような文脈を念頭に置いてのことであった。

 

 

(了)

 

 

2019よく聴いた完全神アニメ/ゲームサントラ集[楽曲オタク Advent Calendar 2019企画: 2019/12/03]

本エントリは、なまおじさん(@namaozi)の「楽曲オタク Advent Calendar 2019」企画のためのものである。もちろん、この企画を知らずにクリック/タップした方も大歓迎だ。そんな方は、ぜひ下のリンクをクリックしてみて欲しい。

 

adventar.org

 

なお、このような記事を書くにあたり、できる限り楽曲のサンプルなどを掲載したいとは思い努力したものの、アニメやゲームのサントラはストリーミングになかなか下りてこないので、断念しているところもある。実はAmazonの有料音楽ストリーミングには転がっているケースが結構見られる。

 

 

 

 


 

0 (self-) Introduction

 

さて、最初に謝っておかなければならないのだが、私は楽曲オタクではない。というより、畏れ多くてそんな風に名乗ることができない。私の知人たるめがねこ(@srngs_meganeko)はもっとずっと真面目に音楽を勉強しているし、そうでなくとも、私の周りにはやたら音楽に詳しい人が集まっている。私は、とてもとても作曲理論や楽器の演奏法などで太刀打ちできる人間ではない。

 

それでも、この企画に参加しようと思ったのには、もちろん幾つか理由がある。一つはもちろん、上記めがねこが2日目の記事を担当していたからだ。二点目は、初日を担当された主催のなまおじさんが、こともあろうに「ドリ☆アピ」を紹介していたからである。

 

scrapbox.io

 

最近、ひょんなことから安齋由香里さんの沼にハマり、「CUE!」を追いかけている私からすれば、タイムリーな話題だった。安齋由香里さんが頑張っているので、ぜひ皆さんも「CUE!」を追ってあげてください。絵は無茶無茶かわいい上にショートアニメの追加ペースも思っていたより早い。お得。

 

www.cue-liber.jp

 

しかし、いざ書かんと思い立ったものの、上述のとおり、普通に書いたのではなんにもならない。そこで今回は、アニメのサントラに焦点を絞りたいと思う。最近、某中堅ノベルゲーム会社で楽曲発注業務や選曲(音楽演出)のアルバイトをしている都合、2019年は浴びるようにサントラを聴いた。年代を問わず、サントラとして気になったもの、音楽の使い方で気になったもの、などなど、多様な視点からアニメのサントラを眺めてみたいと思う。

 


 

Ⅰ 『はるかなレシーブ』オリジナルサウンドトラック

 

 

 

 

はいいきなりド定番。スウェーデンの雄、ラスマス・フェイバーが全面的にBGMを担当した数少ないアニメの1つ。しかし、彼は一体どういう基準でアニメのサントラを受け持っているのだろう……。

 

舞台が沖縄であるため、琉球音楽のエッセンスを詰めた曲も見える(Disc 1 Tr. 6など)。全体的に、パーカッションや撥弦楽器の「撥弦」たる所以のサウンドが目立った構成の曲が多い。これはアニメのサントラとして普遍的な特徴ではない。一方でボーカルの入った楽曲にはキャッチ―なメロディラインも提供しており(Disc 2 Tr. 1など)、隙のない全体構成である。これだけ上質な弦楽器のサウンドで全曲まとめてくれれば、選曲する側としては嬉しい悲鳴だ。かえって使い分けに困る場面も出てくるからだ。なお現実は真逆である。

 

舞台に特色がある場合、このようにBGMにもそれを素直に反映させる作戦も取り得るが、実際にはどうしても必要なタイプの楽曲というものもあり、その辺りどうバランスを取っていくか、難しいケースが多々ある。作曲側だけでなく、発注する側もよく悩むものだ。このサントラも、Disc 2に入ると、リズムやパーカッションの打ち方自体は特徴的、というよりラスマス・フェイバーの来歴を感じさせる曲もまだまだ多いが、Disc 1ほど尖った曲は、Disc 2全体で見ると少ない。選曲業務に携わる人間としても、扱いやすい曲が増えたな、という印象を持った。ただ、それで凡庸なアルバムになったかといえばそうではなく、バランス感覚の面でも際立ったものがあった一枚と言えよう。

 


 

Ⅱ 『ARIA The ORIGINATION』ORIGINAL SOUNDTRACK tre

 

 

「ARIA The ORIGINATION」ORIGINAL SOUNDTRACK tre

「ARIA The ORIGINATION」ORIGINAL SOUNDTRACK tre

  • Choro Club feat. Senoo、SONOROUS、牧野 由依、広橋 涼、新居 昭乃
  • アニメ
  • ¥2241

 

 

こちらも歴史的名盤。日本を代表するショーロトリオ、Choro Clubとピアニスト妹尾武の合作になる。Choro Club笹子重治は後にコーコーヤを別枠で結成し『リストランテ・パラディーゾ』のOSTでも成果を残すほか、松任谷由実坂本真綾に提供した「おかえりなさい」のアコースティックver. アレンジも担当した(シングル「はじまりの海」収録)。

 

 

また、Choro Clubはトリオとしてこれより以前に『ヨコハマ買い出し紀行 -quite country cafe-』の劇伴も担当したが、こちらの音源は廃盤な上希少で入手難度が高い。

 

そもそも『ARIA』シリーズはTVシリーズ3期いずれもOSTの評価が高く、treに絞る理由はあまりない。ここでtreを取り上げたのは、3期『ORIGINATION』9話の話題を持ち出したかったからである。

 

ARIA』シリーズは監督佐藤順一・選曲佐藤恭野の夫婦タッグで音楽演出をコントロールしていた部分も大きかったが、幾つかのパートではシナリオの要請上絵コンテ担当が「音楽・のようなもの」をコントロールするケースもあったようだ。この辺り、『ARIA』の上映会で監督が語っていたことなので若干不明瞭な点は残る。ここではそれを全面的に信用しておくと、9話、「ルーミス・エテルネ」(Tr. 14)が流れるの直前のBGMミュート(SEのみ)は絵コンテを担当した名取孝浩の提案だったようである。

 

アニメにせよゲームにせよ、あるいは実写の映画でも一部同様だが、BGMを消すというのは結構度胸のいる選択だ。逆に、その有難みを理解して乱発すると効力が薄れる。難しいところだ。適当なスクリプターに任せると、諦めているのかとりあえず汎用BGMを流してくる。これが我慢ならない人はシナリオを読んで自分でBGMを指定していかねばならないが、ここで入り、ここで止め、フェードアウトは何ミリ秒、そのままサイレントで何クリック続行……、と細かく指定していると本当に日が暮れる。その上直感に反した選択が正解のケースも多々ある。

 

話を『ARIA』に戻すと、このシリーズは個々のBGMの完成度が高く、どんなシーンであろうと適切な1曲を選べば大抵なんとかなる。実際、『ARIA』はアニメを垂れ流しにしておくだけで、案外ジュークボックスになってしまう。もちろんこの他のシーンでも選曲は熟練の腕を披露してくれるが、ここで議論したいのは、だからこそ、9話のミュートには意味がある、という点だ。

 

ミュートとは繋ぎではなく間である。この「間」の話は、アニメに限らずマンガでもゲームでもエッセンスなのだが、明示的に「こうしろ」と言えないものでもあり、まさしく創作者のセンスに依る部分でもある。書いていてお腹が痛くなってきたが、要するに、9話の件のシーンは「間」の取り方が完璧だったのだ。止まる音楽、吹き抜ける風、息を吸うアリス。そこに生まれたものは「時間」である。映像芸術と時間の議論は始めると長くなる上に私的な意見の撃ち合いになるので、ここでは割愛しておこう。

 

しかし、これくらい質のいいショーロとポップスの中道はない。Tr. 4はポップスやショーロ以外からも多くを消化吸収しようとしている。作曲は秋岡欧の担当で、この傾向は彼らの現状の最新作、『Musica Bonita』でも引き継がれている。秋岡の作曲は他にTr. 10など。この楽曲は『ARIA』シリーズ中でもよく用いられた。Choro Clubの魅力の一つは上品なコントラバスにも求められるが、そのコントラバス奏者である沢田穣治は他とは毛色の異なる楽曲を担当している。Tr. 7辺りは聴きやすさも残るが、Tr. 12は明瞭に他3人の作曲者とは別の方向性を模索したと思われる。用いられる楽器の種類や特徴的な冒頭もさることながら、中盤の進行にも着目したい。

 

ピアニストの妹尾武が担当したのはTr. 13やTr. 23など。Tr. 13は分かりやすさの向こう側にある、4人の緻密な合奏が印象的で、『ARIA』シリーズを代表する一曲である。いずれにせよ、このレベルのBGMを使って選曲できるのはさぞかし幸せであろう。

 


 

Ⅲ 『映画 聲の形』オリジナル・サウンドトラック

 

 

今度は全く別ジャンルから。京都アニメーション作品のサントラを持っている方は多いと思われるが、『聲の形』はどうだろうか。持っていない人も多い気がする。

 

というのも、このサントラはぶっちぎりで「分かりにくい」のである。この「分かりにくさ」は、劇伴担当の牛尾憲輔の、作品に対する非常にラディカルなアプローチに起因している。

 

世の中の大抵のサントラというものは、申し訳ない言い方になるが、だいたい他の作品に持ち込んでもなんとかなってしまう。そもそも、サントラという形態それ自体、作品から音楽(劇伴)を脱文脈化させて成立するものだからだ。

 

しかし、『聲の形』のサントラはそうではない。おそらく、2枚組のディスクに収められた数十曲のうち、他の作品でも使えるものは、下手をすると片手で数えられるだろう。この楽曲の制作過程が、その理由全てを物語っている。

 

animeanime.jp

 

上で紹介した記事でもインタビュアーが質問しているとおり、『聲の形』は聴覚障害を取り上げた作品であり、劇伴制作の難易度が跳ね上がっている。これに対し、音楽から作品を作る、という非常に尖った選択で、この映画は突破口を見出したのだった。言うなれば、牛尾の作ったものは、劇「伴」でも「BG」Mでもなく、作品世界の「音」そのものである。故に、他の作品他の文脈に持ち込むことができない。この辺り、関心のある方は、『聲の形』のBlu-rayに収められた、セリフが一切なく「音」のみで映像が進行するバージョンを鑑賞してみて欲しい。そもそも、それで物語が成立していること自体、『聲の形』そして『聲の形』の世界の「音」の成果と言えよう。

 

曲はなかなか参考にできない上、このような過激なアプローチは、中途半端に真似たところでどうにもならない。とはいえ、「複合メディアで作品を作る」時の理想の形ではあり、一度通して聴いてみて欲しいサントラではある。サントラだけでは何も分からない、という地点が、『聲の形』のある場所だ。

 

もちろん、牛尾が毎回このようなアプローチを採用しているわけでもなく、他の多くのアニメがこのアプローチを採用できるわけでもない。牛尾が他に担当したものでいえば、湯浅政明がメガホンを取った『ピンポン THE ANIMATION』や『DEVILMAN crybaby』は、サントラとしてもオススメ。

 


 

Ⅳ 『あまんちゅ!』オリジナルサウンドトラック

 

 

 

 

今でもよく思い出す。めがねこが上京して1年目、新宿のアニメグッズ専門店へ行った時のこと。CD売り場でおもむろに手にした『あまんちゅ!』のサントラについて私が放った一言に、めがねこは大層なリアクションをしてみせた。

 

「え!? GONTITI!? よう呼んだな!?」

 

ついうっかり方言が飛び出てくるようなギターデュオ、GONTITIによる数少ないアニメサントラの登場だ。ちなみにGONTITIはこの他、『ヨコハマ買い出し紀行』(第1期)の劇伴も担当している。読解力の高い皆さんはもうお気づきであろうが、Choro Clubが劇伴を担当したシリーズの前期OVAである。憶測すると、原作天野こずえ・監督佐藤順一の体制で作った『ARIA』のサントラがChoro Clubだったので、おそらく座組に関わった誰かが、順序を逆にする形で、同じ天野‐佐藤コンビの『あまんちゅ!』にGONTITIを起用するアイディアを出したのだろう。

 

参加しているアーティストの都合、楽曲の幅は2期『~あどばんす~』のサントラの方が若干広い。

 

 

しかし、こちら1期のサントラも凄まじいの一言に尽きる。アコースティックギターをふんだんに差し込みながら、圧倒的な守備範囲の広さを見せつけている。まずTr. 1の冒頭の上質さ加減が凄い。音質を上げても上げてもついてくるサウンドの質の高さには恐怖すら抱く。Tr. 7は「こんなSwingを作ってみろ」と言わんばかりだ。ある種のミニマルさを感じさせるシンセ遣いながら、効果音に堕ち切らず、きっちりメロディまで調和させたTr. 10の完成度にも注目したい。Tr. 19は、言われればこういうアレンジも思いつくが、思いつき仕上げ切るまでに必要なステップは相当多いだろう。「海的な音」「海的なサウンド」のステレオタイプを巧みに活用しながら、シリーズ馴染みのフレーズをまとめあげるのは、字面で感じるより遥かに難しい。

 

一つの楽器に自信を持っていること、その楽器で音楽をやることと、多様なジャンルの音楽に触れエッセンスを吸収することは、実際には両立する。しかし、その前に立ちはだかる壁は高く厚い。時にニューエイジ、時にワールドミュージック、場合によってはイージーリスニングにまで分類されてきた、境界で浮遊することを恐れないGONTITIだから可能だった業である。

 

余談だが、最近『今日だけの音楽』に感動した都合、坂本真綾をヘビロテしている。GONTITIとの関連で言えば、シングル「Million Clouds」に収録された「DIVE feat. GONTITI」が素晴らしい。

 

 

初期坂本真綾の名曲をアコースティックアレンジでセルフカバーしたものだ。20年かけて作り上げてきた、無垢(innocent)でありながら無知(innocent)ではない坂本真綾の歌う、究極の愛とエゴに、GONTITIの泣かせるアコースティックギターが映えわたる。詞の辿り着く先は正反対ながら、EGOISTの「Departures ~あなたにおくるアイの歌~」を思い出す人もいるだろう。「DIVE」に限らず、「Million Clouds」は坂本真綾史上最強シングルなので、全曲必聴だ。

 


 

Ⅴ  t7s オリジナルサウンドトラック「The Things She Loved」

 

t7s オリジナルサウンドトラック「The Things She Loved」

t7s オリジナルサウンドトラック「The Things She Loved」

 

 

 

案外EDMやテクノ、あるいはシンセを多用する音楽の文脈で固まったアニメ/ゲームのサントラは少ない。考えてみれば当たり前の話で、繰り返しになるが、劇伴というものは制約のある発注の中で作られるものだからだ。

 

その意味で、「The Things She Loved」は貴重な一枚だ。これもやはり、全曲がその文脈で固まっているわけではないが、質のいい曲が多数ある点は特筆に値する。こういうことを書くと、詳しい方は『ウィッチクラフトワークスOST(作曲: TECHNOBOYS PULCRAFT GREEN-FUND)を想起するかもしれない。ズバリそこで、正直どちらを取り上げるか若干悩んだ。

 

ナナシスを選んだのは、アニメのサントラなどでは要求されることもある、メロのキャッチ―さといったところにも踏み込んでいるからというのが一つ。もう一つ、この記事の主題が「私が2019年によく聴いた」というところにある、という理由もある。この夏、ナナシスのライブでガチ泣きしたので……。

 

Tr. 2からヒゲドライバーは冴え切っている。素人目には、凝ったことは何もしていないように聴こえる。私も今年になるまで、特段注意を払って聴いていたわけではなかった。ナナシスのアプリで飽きるほど聴いていた、という事情もあるだろう。しかし、実際に「EDMやテクノに思いっきり振ってください」との発注を出す立場になってみると、その認識はひっくり返った。普通の人は、ここまで寄せ切った上でまとめられないのだ。中盤の音の交錯のさせ方、サウンドの聴かせ方、何を取っても一流の楽曲である。技術面ではTr. 8も震える。これを全音潰さずにまとめ切るのは尋常の技ではない。ギリギリ嫌味にならない高音の扱いも見事。

 


 

Ⅵ ハナヤマタ音楽集「華鳴音女」

 

 

 

 

バラエティとコンセプトは両立させたいがなかなか両立してくれないものたちである。神前暁MONACAが制作した劇伴を眺めてみると、知られている『俺妹』や『WORKING!!』のサントラはどちらかというとバランス重視の発注だったのだろう。一方、だいぶコンセプトや作品イメージを大事にしたな、というのがこちらの『ハナヤマタ』。

 

作曲側に楽曲制作のイニシアティブはあるのか、と聞かれると、ケースバイケースとしか言いようがない。このエントリで取り上げた中でも、『聲の形』や『ARIA』はかなり特殊な発注の仕方である一方、他は、少なくともサントラの曲を聴く限りでは、おおよそどのような発注だったか見当がつく(外れている可能性もある)。『ハナヤマタ』は判断が難しいところで、おそらく「こうしたい」というイメージや作品の方向性、さらに必要な楽曲のリストまでは発注側が用意したと思われるが、「ピアノで染めてみましょう」「透明感あるサウンドやリバーブにしてみましょう」といった、手段のレベルの提案がどちらからなされたかまでは分からない。和要素の混ぜ方はさらに微妙。発注レベルで「この曲に和楽器」と指定が入った可能性もある。裁量は作曲側にあったと思われるが。

 

ハナヤマタ』といえば伝説的なOPが著名だが、サントラ(Disc 2)も負けていない。30秒強の楽曲ながら、Tr. 29は印象的だ。付されたタイトル、サントラでの並びからも、この曲の持つ重みがうかがえよう。Tr. 4は同種のBGMで比較すると相当レベルが高い。ジャズ系のプロに任せるとオシャレになり過ぎるか分かりにくくなるか、というところもある一方、こちらはギリギリの普遍性を有している。個人的にはもう少し尖らせたいが、この辺りがいい塩梅なのだろう。

 

サントラの構成も良い。Tr. 1は単にここに置いてあるわけではなかろう。サウンド面でのアプローチは、基本的にTr. 1から外れない。その意味ではシンボリックな一曲だ。冒頭、普通はOPのアレンジやメインテーマを持ってくるところではあるが、そこからは外している――そもそもこの作品のメインテーマとはどれなのか、という問題はあるが。

 

とはいえ、最後はやっぱり『ハナヤマタ』。Tr. 32を聴くよね。

 


 

Ⅶ 『ふらいんぐうぃっち』オリジナル・サウンドトラック

 

 

 

 

最後は所謂日常系アニメの最高峰『ふらいんぐうぃっち』。作曲担当は出羽良彰だ。

 

このサントラは前半に注目したい。実に(事実上の)メインテーマが16回もアレンジされている。メインテーマを含めれば17曲である。『ふらいんぐうぃっち』は1クールのアニメだったから、もはや1話1曲を通り越して1パート1曲の領域に突入している。この他、サントラの後半にメインテーマが関係ない楽曲が21曲も入っているので、本当に一品もののメインテーマアレンジだと言えよう。

 

若干アプローチが似ているアレンジもあるにはあるのだが、このレベルになってくるとそこにある微細な違いが重要になってくるわけで、選曲する側としては精神力ゲージがゴリゴリすり減らされる展開になる。これがたとえ、「予め話の内容や脚本を送付した上で先方に決め打ちで作ってもらう」というタイプの発注であったとしても、胃を痛めるタイミングが選曲時から発注時に移るだけである。

 

よく知られているのはTr. 2とTr. 16だろうか。Tr. 9あたりは相当凝っている。Tr. 8やTr. 10くらいまで自在にアレンジできるのであれば、私もこういう楽曲の発注をしてみたくなる。相変わらずお腹は痛いが、それはそれで楽しかろう。実際には、「この曲にメインテーマのフレーズを仕込んでください」という発注でも上がってくると渋い顔になるケースもある。やりたいこととできることの狭間でもがくのが創作。これは作曲する側も選曲する側も、あるいは音楽以外の創作でも同じだろう。

 

サントラの後半も注意したい楽曲が多い。Tr. 22は序盤掴みどころがないように思えるが、溜めてからの後半の展開が素晴らしい。これを聴いた時、「ああ、この作曲家はなんでもできるのだな」としみじみ思ったものだ。この曲の後にTr. 29やTr. 31を聴くと落差にクラクラする。キャラクターに沿って作曲されたであろうTr. 34やTr. 37にも注目。ここまできっちり描き分けてくれる作曲家は、実はさほど多くない。発注時に予め材料が必要で、準備の段階にもハードルがある。

 

日常系アニメと聞くと、「音楽的にはどうなの?」と思う人も多いだろう。しかし実際には、作品に与えたいイメージなり、舞台設定から来る印象なり、なんらかの形で、音楽は予め、作品や企画によって規定されている。ここを、発注する側も作る側も理解していないと、なかなか思うような作品に仕上がらない。そうでなくとも、素材不足やらスケジュール遅延やらで何かとトラブルに見舞われる界隈である。作りたいものが見えている、それが共有されている、というのは、口で言うほど簡単なことではない。『ふらいんぐうぃっち』は、音楽ももちろん、アニメーションやコンテの切り方にも工夫が見られ、見事に作品世界とそこで生きる人々を描き出した。結果から見れば、様々な点で恵まれた作品であっただろうという推測を、ついしてみたくなる。

 


 

楽曲オタクは、だいたいの場合、音楽の質――サウンドや作曲技術など――について議論する。一方、アニソンオタクなどは大抵「アニメでこうだった」「ライブでこうだった」と語る。これは、音楽の持つ様々な側面や、音楽の使われ方・楽しみ方の多様性に起因した差異である。重要なのは、自分が今どういう立場でどのように語っているのか、そこに自覚的であることだ。ここでは、音楽を「使う」側に立ちながら、できる限り様々なアプローチでサントラを俯瞰しようと試みた。実際には失敗している点もかなりあり、この失敗とは自らの内の不整理そのものであるので、反省したい。とはいえ、「使う」ことが前提の音楽が、使われる先の作品とどのように繋がっているのか、という観点は、是非とも持っていて欲しい。それは、アニメやゲームなど、様々な作品の音楽的側面を語る上でも重要なことである*1

 

 

2020年も素敵なサントラが世に出ますように。それはきっと、素敵な作品との出会いでもあるだろう。

 

 

(了)

*1:偉そうに言っているが、自分が一番できていない。

ナナシスでライブ素人童貞から脱却した話 【ナナシス5thアニバーサリーライブ感想】

去る2019年7月13日、「Tokyo 7th シスターズ」の「4th Anniversary Live -SEASON OF LOVE-」に一般参加してきた。

 

一般参加――ライブ界隈では聞きなれない表現だろう。まさか私も、この言葉をライブカルチャーで使うハメになるとは思っていなかった。要するに、ライブに客としてお邪魔した、という意味である。

 

こう書けば、タイトルの「素人童貞」の意味も、自ずと分かっていただけると思う。今まで私は、ライブなんて運営側でしか関わったことがなく、客としてライブに行ったことが無かったのだ。なるほど確かに、ライブに行ったことがあるかと聞かれれば、答えは「YES」である。しかし、如何せん立場が特殊過ぎる。まさしくナナシスのライブは、真の意味で私の「初めての相手」だったと言えるだろう。

 


 

今回ナナシスのライブに参加することになったのは、知人が連番のチケットを余らせていたからだった。その知人といえば、ナナシスこそ私が紹介したが、アニソン系のライブカルチャーに関しては基本的に滅法強く、色んな意味で初参戦になる私にとって、相方として申し分なかった。

 

しかし、ライブというものは、どういう風に参加すべきものなのだろう。私にとっては、まずそこから疑問だった。そりゃそうだろう。今までライブやイベントに参加する時には、「忘れちゃいけないのは1にスタッフ通行証。2はスタッフ通行証で、3はスタッフ資料」なんて言っていた人間である。このまま一般参加しては、一般客の入り口がどっちか、文字どおり右も左も分からない事態に陥りかねない。

 

とりあえず、ナナシスが最近リリースした曲を中心に、ライブでかかりそうな曲を「予習」してみる。しかし、この「予習」という概念もいまいちよく掴めない。普通の人は、どこまでパーカッションやベースの音を聴き込んでいるのか? それをどれくらい、あのペンライトの振りに取り入れているのか? 分からないなりに、ひたすらヘビロテする毎日だった。

 

相方たる知人に相談すると、彼は一笑した。

 

「ライブなんて、最悪チケットと体調整えるための何かがあれば大丈夫ですよ」

 

彼のこの言葉だけは信用ならなかった。こちらはライブ初参加、あちらは2週に1回はライブやLVに参加する剛の者。差は歴然としている。しかし、相方と行動予定は合わせなければならない。不安に駆られながら、当日までほとんど用意らしい用意をしなかった。

 

当日、結局ペンライトすらろくに用意していなかった私は、相方に断りを入れ、合流する前に物販へ向かった。最初はペンライトだけを買うつもりだったが、手元を確認すると、現金は諭吉しか持ち合わせていない。これは面倒だろうなあ、と直感した。面倒というのは、物販のレジ係が、お釣りを用意するのが大変、という意味だ。ペンライトの値段は3,500円。一万円札を出せば、お釣りは6,500円だ。紙幣が2枚に、硬貨が1枚。ライブ運営の経験から言って、これはレジに優しくない買い物である。

 

こんなところで無駄に「ライブ慣れ」を見せつけてもなあ、などと自嘲しながら、結局、ペンライトにパンフレットとタオルを併せて購入した。合計金額は9,000円。これならお釣りは紙幣1枚で済む。

 

……と、いいことをした、なんて気分でレジへ向かうまではよかった。いざ会計に至ると、そこにはクレカ決済用の端末が設置されているではないか。そもそも現金で支払うこと自体「イケてない」という現実を見せつけられたのだった。挙句、注文票の記入箇所を間違えており、レジ係を無駄に混乱させる始末。なんともしまらない出だしになってしまった。やっぱり自分からリードしたことのない素人童貞はダメ、という話である。

 

しまらない、といえば、何もかもしまらない感じだった。海浜幕張駅で相方と合流するタイミングで、数滴の水が天から降ってきた。とはいえ、気持ちいいくらいに雨がザーザー降ってくるわけでもない。梅雨の終わりの、あの「落ちてきそう」な空模様だ。「落ちてきそう」という表現には、実際には落ちてきてくれない恨めしさが入っているのではないか。いつだったか、私はそう考えたことがあった。

 

天気は曇り、季節は夏の一歩手前で足踏みしている。加えて、私の体調も優れていなかった。数週間前に引いた風邪は完治していたが、数日前、ひょんな怪我から化膿した右手の親指は、まさに痛みのピークを迎えていた。梅雨どきは、菌が繁殖しやすい。そういう恨みつらみも含めて、なかなかすっきりしない空を見上げながら、私は相方と共に、幕張メッセの人混みへと吸い込まれていった。

 


 

会場に入って、まず声を上げたのは相方の方だった。

 

「むっちゃいい席ですよ。ステージも画面も全部見渡せますね」

 

当選していた席は、比較的前めで、ブロックの隅っこに当たる場所にあった。確かに、メインステージも、中央の舞台も、スクリーンも、全て視野に収まる。初めてにしてはよい席に恵まれたなあ、などと思っていると、隣の相方がもう一度口を開いた。

 

「列と列の間隔が広いですね。珍しいです」

 

彼が言うには、座席の列と列の間が広く、足元にゆとりがあるという。私は、関わったライブがオルスタだったので、席のことはよく知らなかった。席にゆとりがある、ということは、人数を詰めていない、ということだ。主催側の懐事情を考えれば、ライブに来てくれる客は多ければ多いほどいいので、これは確かに珍しい。しばらく相方と議論したが、なかなか結論は出なかった。言えるのは、少なくともこれは、チケットが売れなかったから慌てて座席の数を減らしたような列の組み方ではないこと、それから、ライブカルチャーが所謂サブカルに根付いて結構な時間が経ち、ユーザーエクスペリエンスの向上や、新しい形のライブを模索する時期に入ったのではないか、ということ、その2点だ。

 

新しい形のライブ、という話題になったところで、噂のランティス祭についても多少話し合った。色々言われた企画だが、個人的には、成功失敗は抜きにして、チャレンジとしては面白かったのでは、と思っていた。相方は笑って、

 

「僕、あれは実質最前だったので、いい思い出しかないんですよね」

 

ライブの体験には、時の運が絡む。そのことを頭で理解したのだった。

 

そうこうしているうちに、ナナシスライブ御馴染みの総支配人による謎セトリBGMも静まり、いよいよ開演の時が近づいた(余談だが、なぜかマイケル・ジャクソンの「Black or White」が流れていたことだけ、やたら頭に残っている)。照明が落ち、まず聞こえてきたのは、メモルによるライブ中の注意だった。私としては、この段階からまず面食らった。ライブの始まりをどうするかはいつだって悩みのタネなので、とりあえず何も想定しないで入場したところ、想像以上に思ってもない人の声が聞こえてきた、という次第である。

 

その後、777☆SISTERSの紹介ムービーが流れる。相方が隣で、「これはいいですね」と呟いた。お生憎様、私はその時、どういう態度でいればいいのか分からず、半分呆然としていた。ペンライトは箱から出してあったが、さりとて何色でどういう風に振ればいいのかさっぱり把握できず、完全に置物状態。隣を見れば、相方はちゃっかり、用意してきていた汎用ペンライトを掲げていた。言わんこっちゃない、何が「ライブはチケットとプラスアルファだけでいい」だ。改めて自分の手元を見る。ハートをあしらったライブ専売のペンライトが、周りの光だけを反射して、僅かに明るくなっていた。

 

そういうわけだったので、1曲目の「FUNBARE☆RUNNER」が始まった頃は完全に棒立ちだった。かろうじて、地蔵を取り繕うことには成功していたかもしれない。幸運だったのは、この辺りで銀テープ発射の爆音が入り、浮遊していた意識が現実へと引き戻されたことだった。ふと周りを見渡せば、皆想像していたより思い思いにペンライトを振っている。身体の動かし方も人それぞれで、これならなんとかやっていけそうかな、という気にはなった。しかし、あと一押し決め手が足りなかったのも事実で、私は、今度こそちゃんとした地蔵として、今しばらく周りの雑音に呑まれる身であることを選んだ。

 

そんな私の後押しをしてくれたのは、やはりと言うべきか、ステージの上でスポットライトを浴びる演者たちだった。いや、正確に言うと、ステージの上にはいなかったのだが。地蔵を決め込んでいた私は、トロッコに乗り移る彼女たちを見上げながら、トロッコは人力なんだ……などと意味の分からないことに気を取られていた。そのままぼーっと上を向いていたところ、その一瞬は唐突に訪れたのだった。

 

だ - み な と 視 線 が あ っ た ! ?

 

え? と思ったのは一瞬だった。そう、ぼーっとしていたため気が付かなかったが、私がいた席は、ちょうどトロッコ動線に対して最前列で、演者から相当近い場所だったのだ。なんという神席であろうか。件の「時の運」というのはこんなところで表に出てくるのか。身体が打ち震えるほどの衝撃だった。

 

混乱しきった私の頭は、ついに思考をやめ、身体は衝動のままペンライトを掴み取った。膿んだ右手の親指に鋭い痛みが1回走り、すぐに静まる。代わりに、ふっとハートの輪郭が露わになって、その内側からピンクの光を漏らしだした。おもちゃでよくある、魔法少女のステッキのようにも見えた。それでもいいと思った。私は光るペンライトを宙にかざして、ようやく、だーみなと視線が交差したという事実を呑み込んだ。ペンライトに灯ったちゃちでちっぽけな光でも、それこそが、だーみなが振り撒き、私が呼応した愛の形のようにも思えて、私はひと時ばかり、無邪気な愛の天使、幼き魔法少女であることを選んだのだった。

 

そこから先はフルスロットルだったと思う。だーみながカジカの自己紹介の時に手でハートを作っていたのは印象的だったが、逆に言うとまともに覚えているのはそこくらいで、とにかく興奮していた。777☆SISTERSがI'll be backなんて言いながら(言ってない)退場し、代わってCi+LUSが登場すると、私のテンションは一段と高まった。この辺りから、ああ、ライブとは言うけれど、普段音楽を聴いている時のように身体を動かしていればいいんだな、と、ようやく頭も理解し始めた。語弊のないように付け加えておくと、私は普段からライブの時並みに身体を動かしながら音楽を堪能しているわけではない。多分そうじゃないと思う。どうだろう……ひょっとしたら動かしてるかもしれないが、要は、いつもどおりでいいんだ、と理解したというのが大切だった。そういうことだ。

 

因みに神席だったので山崎エリイさんからも視線をもらった。それだけでチケ代物販費込み20,000円の価値はあったかと。ライブ初心者なので、許してね?

 


 

Ci+LUSの2人による次の演者の呼び込みは、一瞬どのグループのことを指しているのか分からなかった。Ci+LUSは、「今日新しいスタートを切る先輩ユニット」と表現していた。周りは皆分かっていたようで、声を揃えてLe☆S☆Caと叫んでいた。なるほどLe☆S☆Caか。私は納得しながら、少しばかり不安な気持ちを抱え込んだ。

 

新しいスタート云々というのは、Le☆S☆Caの3人のうち、2人の声優が交代になったことを指す。折しも、某バーチャルYouTuberの中の人交代劇がよくも悪くも話題を集めており、キャラと声優の関係について考えこんでいたので、私の脳裏に不安がよぎったのだった。Le☆S☆Caは、私がナナシスのゲームを始めた頃にデビューした思い入れあるユニットで、私の単推しもLe☆S☆Caだった。幸か不幸か、私が一番応援していたキャラは1/3の確率を引いて(?)声優の交代を免れていたが、それだけに余計、私自身がLe☆S☆Caとどう向き合えばいいのか分からなかった。

 

私は呼び込みの残響が残るうちにペンライトを黄色に変えると、その時の到来に対して身構えた。流れてきたのは「YELLOW」の特徴的なイントロだった。隣の相方が、「衣装にひまわりついてますよ!」と興奮しながら話しかけてきた。私は、「『ひまわりのストーリー』はやるんだろうなあ」くらいに思いながら、ステージ上の3人を眺めていた。

 

3人が緊張しているのは明らかだった。明らかに声のピッチが上ずっている。しかも3人とも。誰かが上ずっているのを他の人がフォローしにいったのだろうか、と感じられるほどだった。ピッチ自体は次の曲には正常に戻っていたが、それにしてもバランスが悪い。そもそもホノカ役の植田ひかるは女声の低音域で特に声量が小さいので、新たにレナ役になった飯塚麻結の大きな声がやたら響く。

 

それでも、私はいつの間にか泣いていた。

 

MCに入り、自己紹介が始まる。Le☆S☆Caのセオリーどおり、キョーコとレナが先に紹介を済ませる。トリはホノカだ。私は振り続けていたペンライトを下げて、胸の前で抱え込んだ。ホノカにカメラが向く。彼女は僅かに涙を滲ませながら、ホノカとして自己紹介をこなした。私はまた泣いた。

 

終演後のことだが、海浜幕張駅へ向かう大行列の途中で、見知らぬ女性2人組の、「あそこでホノカ役の人が泣いちゃうのはね」という評を耳にした。同性の意見は手厳しいな――私は、苦笑せざるを得なかった。実のところ、多分、その2人組の意見は間違っていない。というより、正しい。あの場でホノカとして、Le☆S☆Caの全てを知るただ1人の存在としての「正解」は、泣かないことだっただろう。

 

それでも、私はホノカを、植田ひかるを責める気にはなれなかった。思うに、正しい人間が正しくない人間と衝突を起こした時や、正しくあろうとした人間が正しさを貫けなかった時に、物語は生まれてくるのではないか。物語は、私たちが能動的に生むものではなく、そういう時に自然と生まれてくるもので、私たちはそれを受け止めるに過ぎないのではないか。ライブ後のまとまらない思考の中、ぼんやりとそんなことを考えた。

 

Le☆S☆Caの3人が正しくあろうとしたことは、その後の彼女たちのパフォーマンスが示している。MCでキョーコが「とにかく、私が・・上杉・ウエバス・キョーコ」と言い放ったのが印象的だ。

 

Le☆S☆Caは、最後の曲の前にもMCを入れた。私は、中央に立つ彼女たちを直視できず、下げたペンライトばかり見ていた。暗い足元に、微かな黄色の光が、ハートの器から漏れていた。愛によって灯されたこの光を、Le☆S☆Caにどう示せばいいか、まだ分からなかった。これからのLe☆S☆Caを応援する、なんて態度は、とてもではないが取れなかった。それでも、最後の曲が「ミツバチ」だと分かると、私はもう一度、ペンライトを天に掲げた。曰く、ミツバチは「あなたの息遣い」を運んできて、「大切なあなたに届」ける「便り」にもなってくれるという。私は、多分、Le☆S☆Caを応援できるくらい、どっしり構えられる人間ではない。それでも、小さなミツバチくらいにはなれるかもしれない。ひっそりと、そう思った。愛の形というにはあまりにしょうもない、と笑いたいなら、笑ってくれればいいと思う。私の愛は、少なくともその時は、ペンライトに宿っていた。

 

壇上の3人は、果たして何匹のミツバチを見かけたのだろうか。それは分からない。観客の視点から分かるのは、ただ1つ。3人は、当代最高のアニソン作曲家である、UNISON SQUARE GARDEN田淵智也が作った難曲を、確かに歌いきった。相変わらず音量の均衡は取れていないし、たまにピッチは上ずっていたが、彼女たちが正しくあろうとしたことは間違いないだろう。

 


 

Le☆S☆Caの退場とその次のグループの入場時は、Le☆S☆Caではなく、次のグループがMCを担当した。Le☆S☆Caは明らかに緊張していたから、その方がよかったと思う。振り返ってみれば、開幕後の一番場が温まった状態で、さらにCi+LUSという爆弾を場に投げ込んだのも、Le☆S☆Caがどうなるか読めなかったからかもしれない。いずれにせよ、全ての選択はよい方向に働いていた。

 

会場全体がなんとなくしんみりとしていたものの、次のWITCH NUMBER 4のパフォーマンスはその空気を一変させるくらいのパワーを持っていたので、本当にこの順番でよかったと思う。「星屑☆シーカー」の直前、トロッコへ移動しながらだーみなが、「トロッコに乗ってみんなのところへ……行くよっ」とMCをした。もちろん、「行くよっ」は曲の出だしに合わせたものだ。完璧なタイミングでパーカッションが入り、私はつい飛び上がってしまった。恥ずかしっ、と思いながら周りを見ると、皆ジャンプ後の着地姿勢になっていたので、まあそういうもんだよね、と自分を納得させた。

 

※ライブ中に跳びはねるのは危険なので控えましょう。

 

SiSHの盛り上げ方もよかった。「さよならレイニーレイディ」はまさに今の時期に聴きたい曲だし、その後の「プレシャス・セトラ」もライブ映えする曲で、まさに今日この日のためのセトリだった。

 

その後は、Le☆S☆Caとは別の意味で「今日がスタート」の七花少女の出番。そもそもの持ち曲数がまだ少ない分、MCはたっぷり時間を取っていた。初登場の割にかなり落ち着いていたのが印象的だったので、後で相方に聞いてみると、曰く、メンバーの半分くらいは相当場慣れしているので、本当の意味での新人のフォローに回れたのが大きかったのではないか、ということらしい。いずれにせよ、堂々としていたのは好印象で、これからも見守っていきたい限りである。

 

お次ははる☆じか(ちいさな)の番。この(ちいさな)を抜いてはいけない、というのはライブ中に得た知識の1つである。このはる☆じか(ちいさな)はとにかく衣装が可愛かった。いや、美味しそうだった。正直どちらも同じ感情を表していると思う。ケーキをあしらった衣装は、余すところなく「可愛い」を体現していた。彼女たち2人がフリフリしている姿は、果たして18歳未満にお見せできるか悩むくらい魅力的で、私の中で未だに映像がこびりついている。

 

KARAKURIの声が響いたのは、そんなこんなで可愛い演者たちがまだステージ上に残っている時だった。KARAKURIは、私の中で謎の1つであり続けていた。なんと言っても、双子設定で声優は1人なのに、一体どうやってライブをするのか、というところが不思議でならなかったのだ。

 

その答えは至ってシンプルで、「1人でやる」だった。いや、色々と関心させられて、私はこのライブだけでKARAKURIのファンになった。「Winning Day」を披露しながら1人でメインステージ奥の階段を下りてくる秋奈は、間違いなくこのライブ中誰よりも目立っていた。振り付けとカメラの切り替え方にも工夫があって、ちゃんと2人いるように見えたのもポイントが高い。KARAKURIは、今回のライブでただ1(2)人、単身で会場の耳目を独占したのだ。

 

カッコいいな……なんて月並みな感想でいっぱいになっていたところにぶちこまれたのは、秋奈の……その、なんと言うべきか、極めて独創的なMCだった。あそこまでいくと逆に味があるのでいいと思う、うん。少なくとも、他の人に卸せるものではない逸材であることはよく伝わった。念のためもう一度書いておくが、KARAKURIは今ライブのベストパフォーマンスだった。そのことは間違いない。

 

パフォーマンスの完成度という意味でKARAKURIがベストなら、観客にもたらした驚きという意味であれば、次のNi+CORAがナンバーワンだっただろう。スース役不在の中、代役を務めたのはなんとCi+LUSのマコト。しかもばっちり決まっている。ムスビ役のMCによると、この組み合わせが決定した後のレッスンの段階で、マコトは既にNi+CORAの振り付けを覚えてきていたらしい。凄まじい熱意と言うよりない。一方の私は、再度耳にすることができたマコトの「お兄ちゃん」で発狂しかけていた。

 

次の出番だったサンボンリボンは、唯一アルバム「H-A-J-I-M-A-L-B-U-M-!!」から楽曲を披露した(「Clover×Clover」)。今回のライブは、かなり曲数が詰まっていた割に、「Are You Ready~」以降から大半の楽曲を取っていた点が特徴的だったと言えよう。私個人的には「Re: Longing for summer」の曲も聴きたかったが、それはまた次の機会に。

 

以下は脳天が吹き飛んでいたのであまり覚えていない。4UとThe QUEEN of PURPLEのロック系2グループが連続で来たので、一旦(身体の疲れで)微妙に下がっていた私のテンションは再びハイになってしまったのだった。このあたり、裏声で叫びすぎて、何をしていたのか本当に覚えていない。あ、演者が何かやった、という意味では、長縄まりあが自転車に乗ったのは覚えている。長縄まりあはエアドラムも上手くて、そこにはかなり驚いた。

 

後でセトリを眺めながら相方と振り返って、ようやく自分があの時何を考えていたか、僅かに思い返すことができた。驚いたのは4Uの1曲目で、「TREAT OR TREAT?」だった。それで驚きすぎたのでインパクトは薄いが、2曲目の「Crazy Girl's Beat」も相当に意表を突かれた。私の本命は「Lucky☆Lucky」で、相方の本命は「メロディーフラッグ」だった。まあ、いずれにせよ盛り上がったのは間違いない。

 

じゃあThe QUEEN of PURPLEはどうだったか、というと、これは残念ながらどうやっても思い出せなかった。Hey-Yoと叫んだりなんだりして、楽しかったのは間違いない。ただ、頼みの綱の相方が、

 

「僕はQoPの単独ライブで沼にハマったんでよく覚えてないです」

 

などと言うので、これはもうお手上げである。

 


 

〆はI shall returnな777☆SISTERS。曲自体は概ね予想どおりだった。とはいえ、アンコール前最後の曲だった「ハルカゼ~You were here~」はA席の辺りから崩れ落ちる声が聞こえるくらい、万感の想いが観客の胸に去来した。

 

アンコールは全員で「STAY☆GOLD」。相方は後に、

 

「AXiSのエピソード中ずっと雨が降っていたじゃないですか。それで、最後の最後に晴れる。少なくとも僕にとっては、その演出が印象的でした。そう考えると、AXiSのエピソードが完結した直後のライブのアンコール曲が、水たまりの虹云々言う『STAY☆GOLD』だったのは構成の妙なんじゃないでしょうか」

 

という見解を披露している。私は、運営としては賭けだったかもしれない、と思った。というもの、この時期は梅雨明けしているかどうか微妙だからだ。ナナシスにとって、夏が重要な季節であることは間違いない。「SEASON OF LOVE」がいつを指すかは微妙なところだが、私は、今回のセトリは全体的に夏の始まりを意識しているように思われたので、この「SEASON」は初夏かもしれない、と考えた。そうなると、この時期の開催を選んだ運営としては、梅雨が明けているかどうか賭けるしかない。

 

いや、そうではない、「SEASON OF LOVE」はもう少し含みを持っている、という主張も成立する。パンフレットの冒頭、総支配人が「SEASON OF LOVE」に至るまでの道のりをまとめている。それを深読みするのであれば、「SEASON OF LOVE」は、愛の季節は、季節なんて訳ながら、季節でもなんでもないかもしれない。このライブに至るまでに大きく成長したナナシスがついに見つけた何かが「LOVE」であり、「SEASON OF LOVE」は、そんな直近の、或いはこれからのナナシスのことを指しているのかもしれない。

 

いずれにせよ、初夏を狙ったものであることは、やはりそのパンフレットの文章からも読み取れる。曰く、AXiSのエピソードのエピローグで流れているBGMは「初夏の手紙」だという。少なくとも総支配人は、わざわざ「追伸」でそれを明らかにしている。ということは、今回のライブでやたら強調された紙飛行機は、「初夏の手紙」で間違いない。というより、このライブそのものが、「初夏の手紙」だろう。そうなると、「SEASON OF LOVE」は、初夏の意味合いを、少なくとも含んでいる、というのが、私の解釈である。

 

しかし、「初夏の手紙」とは、これまた何か思わせぶりな追伸である。思い返せば、今回のセトリは、直接的にAXiSのエンディングだった777☆SISTERSの「NATSUKAGE-夏陰-」にせよ、もう少し広く取って「ハルカゼ~You were here~」にせよ、或いは手紙ということならLe☆S☆Caの「ミツバチ」にせよ、ナナシスのシナリオの内外で起きた変化や別れを、どことなくにじませている。長い人生の中、ほんの一瞬交わった人々が、お互いの変化を受け止める。そんな曲たちだ。

 

翻って、私の方に届いた「初夏の手紙」は、何をもたらしてくれたのだろうか。会場を去り、海浜幕張駅の近くで相方と食事をしたその後の帰路、ふと空を見上げた。相変わらず空はどんよりとしていて、夜の暗さをぼかしていた。

 

しかしそのうち、雨が細々と、はっきりと降り始めた。私にとっては、それで十分だった。

 

愛を受け取った私の身に、すぐ何か変化が起きるわけではない。変化といえば、ライブは一瞬の非日常だった。しかし、それが過ぎれば、またいつもどおりの毎日が待っている。それでも、私は元気だし、ほんの少しの灯りを心に灯しながら、いつもより目線を高くして歩いている。天気だって、恨めしい曇りから本降りになり、そのうち、季節の大きな流れの中で、ゆっくりと、初夏の日差しへと移ろいゆくだろう。「SEASON OF LOVE」という手紙は、むしろ、私にほんの少しの変化を与えてくれた。その「ほんの少し」を与える何かこそが愛なのかもしれない、という含みを示しながら。

 

右手を見やる。傷絆を巻いた親指は、元のように痛んでいた。この痛みも、いつかは治っていくだろう。変わりゆく毎日の、今しばらくの道しるべとしてみるのも悪くない。そんな、青く未熟で、若々しいことを久しぶりに思った帰り道だった。

 

 

(了)