Mashiro Chronicle

長文をまとめる練習中 割となんでも書く雑食派

謎縛りABBA曲7選

映画版『MAMMA MIA! Here We Go Again』の日本での上映が始まって早ひと月弱。いわゆるジュークボックス・ミュージカルとしては破格の知名度を誇る前作の続編であり、新作も公開前から注目度が高かった。例によってスウェーデンの誇る世界的ポップグループ・ABBAの楽曲をふんだんに使った贅沢な仕上がりになっている。まだ触れていない人は、サウンドトラックだけでも是非。

 

さて、そんな時期にあって、筆者の中でABBA熱が再燃している。元々中学時代には浴びるほど聴いていたのだが、以降も折に触れて聴き返すことになった、ある意味因縁のグループでもある。70年代後半から80年代前半にかけてのポップスのスタンダード・ナンバーが揃っているベスト盤『GOLD』は、やはりオールタイム・ベストだ。いかにグループ解散後に発売されたベストとはいえ、一曲も外さないというのは凄まじいの一言に尽きる。「Dancing Queen」から「Waterloo」まで、ひと息も尽かせてくれない。

 

だが、ABBAの楽曲は「GOLD」に収録されたものだけ持ち出されるきらいがあることも確かだ。解散後に発売されたベスト盤は、40周年記念盤で一枚追加されて合計3枚、もちろん未収録楽曲もある。

 

というわけで、ここでは(何番煎じか分からないが)『GOLD』に収録されていない曲に絞って、何曲か紹介してみようと思う。筆者の個人的センスによるものなので、統一感は全くない(はず)。その点はご承知おきを。

 

あと、試聴コーナー作ろうと思ったけど、アフィリエイト云々がめんどくさかったのでパス。ごめんなさい。Vevoがサポートしてるものに関してはYouTubeリンク貼っておくので、それでお茶を濁した、ということで。

 


 

※草創期のアルバムである『RING RING』は流石に割愛。あのアルバムに触れる時は前史についてページを割く必要があり、片手間でできる作業ではない。

 

1.「Honey, Honey」from『WATERLOO』

 

...とか言いながら一曲目から映画版『MAMMA MIA!』(第一作)の冒頭にかかる曲を出してどうするんだ、といった感じである。というかこの企画『MAMMA MIA!』収録曲も除かないとなんの意味もないんじゃ。

「Waterloo」でユーロビジョン優勝を果たしたABBAが送り出したアルバムに収録されているのだが、この頃のABBAはまだ方向性を固めきっていないようにも感じられる。模索の時代、とでも言えばいいだろうか。サウンド的にもABBAっぽさというものはまだ完成しきっていない。とはいえ、キャッチ―なフレーズと覚えやすい歌詞は流石と言ったところか。

ABBAはコーラスに男性二人が参加することはあっても、メロディーラインを歌うことは稀なチームだった。それこそ、一般の人は「Does Your Mother Know」くらいしか思い浮かばないのではないか。とはいえ、初期の頃は、女声と男声でユニゾンを試みることも多かった。この曲は、部分部分で男声が入る、というつくりをしていて、ABBAの中では珍しい曲だ。

後世映画版『MAMMA MIA!』(第一作)でアレンジされた際には、男声部分がインストゥルメンタルになった。アマンダ・サイフリッド(が本当に歌っているかどうかは分からないがクレジット上はアマンダ)の瑞々しい声に、しっかりと当世風に仕込み直されたサウンドが相まって、同サウンドトラックのトップバッターを飾るに相応しい仕上がりになっている。こちらもどうぞ。

 

 

2.「I Do, I Do, I Do, I Do, I Do」from『ABBA

 

Abba - I Do, I Do, I Do, I Do, I Do - YouTube

 

これもやっぱり映画版『MAMMA MIA!』(第一作)のOSTに入ってるんだよなあ、と愚痴ってみる。

ABBAの曲は、歌詞でみるとだいたい3種類ある。恋に浮かれてアタックをかけている曲と、失恋/離婚してどうしよう、という曲、それに、大失敗した知人を慰めるナンバー。ちなみにこの分類に当てはまらないその他の曲は大抵なぜそんな歌詞の曲を作ろうと思ったのかさっぱり分からない。

この曲は最初のパターン。タイトルの段階でなかなかインパクトがあるのだが、実際にメロディに乗せてみるとこれがもう威力抜群。タイトルそのままのフレーズが頭からこびりついて離れない。

ABBAは、「Dancing Queen」のイメージが強いからだろうか、ディスコミュージックの完成形と看做されることも多い。確かに(当時の)シンセサイザーを使ったサウンドはそれに近いものを想起させてくれるのだが、実際のところはこうした親しみやすいフレーズこそこのグループの底力なのだと思う。尤も、作曲的に相当工夫されたものも多いし、最晩期の曲はそうでないことも多いのだけれど(私見を述べれば、最後のアルバム『THE VISITORS』の影が薄いのは、これが原因である気もする)。

 

 

※続く2枚のアルバム『ARRIVAL』と『THE ALBUM』に入っている曲は、どれもこれも有名で触れられないので、割愛。

 

 

3.「Angeleyes」from『VOULEZ-VOUS』

 

今回の映画『MAMMA MIA! Here We Go Again』のOSTについて文句というか言いがかりというか、疑問に思うところが一点だけある。日本版iTunes Storeでのこの曲の表記が「Angel Eyes」になっているのである。オリジナルは「Angeleyes」とスペースが無かったはず。なぜこうなってしまったのか謎。

一曲たりとも触れなかった2枚のアルバムで、ABBAは世界的な知名度を得るに至り、その中で自分たちのサウンドというものを確立していく。かの「Dancing Queen」が収録されていたのは『ARRIVAL』である。

「Angeleyes」は、おそらくそうしたABBA特有のコーラスで遊んだかのようなサウンドが最も前面に出てきている曲の一つだろう。作曲的には、積み重ねられた女声のコーラスが映えるサビ部分と、男声も支えるサビ前のパートの、シームレスなようで引っかかりを残した繋ぎと、さらにはそれらと間奏との間で行われるギアチェンジが見事だ。サビの終わりが特徴的なので、ミュージカルや映画に持ち込む際はここの処理に相当難儀したことだろう。実際、映画版のOSTを聴いてみると、かなりアレンジが加えられていて、原形がどうなっていたのか分かりづらくすらある。

昔はこの曲の引っかかりがどうにも気になって、聴きこんでみたいけど触れない、といった、複雑な姿勢で接していた。今聴き返してみると、ノリにノっていたABBAの、ある意味では真骨頂とも言える曲なのではないか、と感じられた。

 

 

4.「Summer Night City」from『VOULEZ-VOUS +6』

 

Abba - Summer Night City - YouTube

 

ABBAは、ベスト盤を除くオリジナルのアルバムに関して、リマスターを行った際に幾つか楽曲を追加している。+6というのは、リマスター版で6曲追加された、という意味だ。

この楽曲「Summer Night City」は、元々シングルでのみ発売されていたものだ。後にリマスター版で収録された他、『MORE GOLD』にも盛り込まれた。1978年発売のシングルなので、本来であれば1979年発売のアルバム『VOULEZ-VOUS』オリジナル版の収録曲より先に紹介すべきだが、ここではリマスター版で追加されたという事実を重視して「Angeleyes」より後に項目を立てている。

この曲は、ABBAファン以外からも人気のある楽曲だ。実際、『GOLD』に続くベスト、『MORE GOLD』では一曲目に抜擢されている(ちなみに、『GOLD』の一曲目はもちろん「Dancing Queen」)。

しかし、ABBAファンの間では、この曲は別の意味で有名だ。というのも、作編曲を担当している男性二人が、当初からこの曲についてずっとネガティブなコメントばかり残しているのだ。

実際、この時期のABBAの曲の中で、「Summer Night City」は浮いている。いや、ABBA全体を通してみても、なかなかこれに類似した曲は見当たらないだろう。だからこそ、ABBAファン以外の一般層からもウケがいい、とも言えるのだが。雰囲気的には夜の世界を題材にしていて、似たような曲はある。ビートをそれなりに押し出し、男声やアルトボイスを積極的にメロディへ絡めていくことで、サビの落ち着いた女声高音がかえって際立ち、健全さがよく語られるABBAの文脈にあって、アダルティックな雰囲気を醸し出すことに成功している。

彼ら自身の評価にかかわらず、この曲が音楽的にも売上的にもそれなりの成功を収めていることは確かだ。この時期のABBAは何をやっても上手くいくまさにフィーバー状態だったということの証左である、とも言えるかもしれない。

 

 

5.「Happy New Year」from『SUPER TROUPER』

 

Abba - Happy New Year - YouTube

 

『MORE GOLD』どころか40周年記念盤のベスト3枚目にも収録されていないので、聴く場合は元のアルバムを当たるよりない。なぜか日本のVevoYouTubeで公開しているが。

楽曲的に云々、というか、歌詞がなかなか面白い。新年おめでと~! みたいな雰囲気は一切なく、むしろ、年の変わり目にはしゃぎ切った、その後に残る静寂と、静謐な時間の中にある私たちが語られる。

落ち着いたメロディと調選びは、元よりABBAの得意とするところだ。ただ、この曲は「Chiquitita」や「Fernando」にあるような、明るく振る舞うパートはなく、ひたすらに静寂を紡ぎ続ける。混じり気の一切ない、来たる新年への私たちの静かな祈りが、そのまま曲になってしまったかのような、そんな雰囲気すらある。

 

 

6.「Under Attack」from『THE VISITORS +6』

 

Abba - Under Attack - YouTube

 

これもリマスター版でアルバムに加わった曲。『GOLD』以前のベスト盤などにも収録されている他、『MORE GOLD』にもある。

この『THE VISITORS』はABBAのスタジオ・アルバムとしては最後のものなのだが、如何せん収録曲の影が薄い。本当に薄い。世間一般の人にこのアルバムの名前を出しても、あるいは個々の楽曲について尋ねてみても、ほとんど反応が返ってこない。せいぜい「One of Us」を知っているかどうかだ。

確かに、上で少し触れたが、ABBAの持つキャッチ―な部分はこの頃になると影を潜めるようになっている。その辺りが、このアルバムの世間における浸透度に影響を与えているのかもしれない。

しかし、このABBA最後のアルバムは、むしろ彼らが新しい方向を示そうとした作品であり、個人的にはもっと評価されてよいと考えている。

ABBAの晩期はメンバー間の不和と離婚により、グループ内部でもぎくしゃくしたものが蔓延っていた。その中にあって、離婚を真正面から捉えた「When All Is Said and Done」などは、芯の通ったアルトボイスによって新たな人生への力強い踏み込みを感じさせてくれる名曲だ(余談だが、離婚を題材にしていたはずのこの曲は、映画版『MAMMA MIA!』(第一作)では逆に結婚に向けた一曲へと模様替えされている。男性陣二人が何を思ってそうしたのか、少し気になるところではある)。

同時期に録音された「Under Attack」は、踊り出してしまいそうなビートでこそないが、ABBAらしいサウンドを引き継ぎながら、新たな音の方向性を提示しようとしていて、まさに最晩期ABBAらしい一曲だ。サビ部分の、重層を為す女声コーラスが耳に実に心地よい。サビに至るまでの起伏の少ないバックサウンドや、ドラムではなくむしろ抑えた調子の一本ボーカルによってリードされる独特のリズムが、完成度の高い、よく加工されたメロディアスなサビ部分、特にそのコーラスのインパクトを強めている。メロディラインをギリギリ打ち消さない程度まで存在感を放ってくるコーラスに何回か耳と頭を持っていかれそうになったことがある。必聴。

 

 

7.「I Am the City」from『MORE GOLD』

 

最後に謎の一曲をば。

ABBAの最晩年に収録された、しかし発表されることがなかった一曲が「I Am the City」だ。結局、グループ解散後しばらく経った後に発売されたベスト盤『MORE GOLD』に収録され、私たちの耳に届けられた。

一言で言えば、謎の楽曲だ。サウンド的には、「Under Attack」にも通じる、ABBA最晩期のものとほぼ同種と判断してよいのだが、問題はその歌詞。本当に「I Am the City」なのである。そうとしか表現しようがない。比喩として何か語りたかったのか、それとも別の思惑があったのか、それすらも判断できない、

とはいえ、音楽的には円熟の域に達したABBAの佳曲と呼んで差し支えない仕上がりになっている。これだけの完成度の楽曲をお蔵入りさせていたのだから、ABBA恐るべしと言うほかない。

 


 

元々は『THE VISITORS』全曲紹介でもやるか~、と思っていたのだが、流石にそれはどうだろうと思い直してこの企画を通してみたら、なんとまあ普通の出来になってしまった。まあ、ABBAに関心のある人がちょろりと聞いて「これもABBAなんだ~」と思ってくれれば御の字、ということで。

 

最後に、超個人的ABBAルネサンスの中で、そういえばこんなアルバムもあったなあ、と思い出したので、一応紹介。

2012年に発売された、ABBAのジャズアレンジ集がこちら。ABBAは版権管理やクオリティ管理に厳しいことで有名で、アレンジアルバムやトリビュートアルバムの数が少ないのだが、これは貴重なABBAオンリーのインストゥルメンタルアレンジアルバム(ボーカルなし)。なんとドラムがSteve Gaddという。個人的にオススメの一枚。気になる人はどうぞ。

 

Same Tree Different Fruit - ABBA (アバ-ジャズ)

Same Tree Different Fruit - ABBA (アバ-ジャズ)

  • アンデッシュ・ヴィーク, スティーヴ・ガット & スヴァンテ・ヘンリソン
  • ジャズ
  • ¥2400

 

(カタカナで楽曲表記されると、どうにもしまらない印象になるが、それはご愛敬ということで)

 

(了)

未来と過去を繋ぐもの【『未来ラジオと人工鳩』プレイ感想<ネタバレなし>】

ネタバレ有りの感想については、ラプラシアンが公式サイトで感想募集する可能性を考えて保留中。募集しないようならこちらに書く予定。なお、作品の公式サイトに投稿する場合は別名義を使うので、私の感想を読んでみたいという酔狂な方は文体を手掛かりに探してください。

 


 

作品概要

・科学技術がある種のクライシスを経験した後の世界を舞台のSF

・ラジオを皮切りに「繋がり」を取り戻そうと画策する主人公を描く

・個別ルートに比して前半の共通ルートの密度が凄まじい

 

ここがオススメ!

・簡潔かつよく練られたシナリオ

・肉感がある完成度の高いCG

・作り込まれた演出要素:背景から効果音まで

 


 

ラプラシアンの第3作『未来ラジオと人工鳩』(以下『未来ラジオ』)は、90年代以降のポップカルチャーの流れを引き継いだ、正統派の作品だ。相変わらず多い下ネタやキャッチ―な広告に目を奪われてしまいがちだが、中身は堅実かつ真面目な作りになっている。

 

まず、「未来」という言葉が引っかかる。「未来」という言葉は、「今」の私たちを映しだす鏡のようなものだ。常に「今」と比較される「未来」は、私たちに否が応でも時間の存在を意識させる。

 

ポップカルチャーの世界で時間にまつわるSFと言われれば、まず思いつくのはタイムリープだ。主人公が幾度も幾度も時間を飛び越え、物語の核心を掴むべく奔走するタイムループものは、もちろんそれ以前にも傑作が多く存在したジャンルではあるが、こと90年代以降のポップカルチャーにおいては花形である。

 

だが、ポップカルチャーと時間、あるいは「未来」については、もう一つ別のアプローチが存在する。いや、根本的なところでは同じアイディアを共有しているのだが、時間遡行に頼らない形で「未来」を捉えようとする作品群が、確かにある。そうした作品は、「未来」を不確かなものと考える。「過去」は変えられないが、「未来」は定まっていない――その狭間である「今」を生きるキャラクターを描くことで、時間という何かに迫ろうとする姿勢もまた、ポップカルチャーの中に根を張っている。

 

『未来ラジオ』は、結論から言えば、何度も何度も同じ時間を彷徨うことはない。時間は不可逆的なものだ、という姿勢を貫いている。しかし、不可逆だからと言って、「未来」は定まったものである、すなわち、「運命」は存在する、と主張しているわけでもない。

 

ラプラシアンは、話が複雑になり過ぎるのを嫌ったのか、それとも冗長になることを厭ったのか、『未来ラジオ』を簡潔な作品に仕立て上げている。時間を扱う作品は、とりわけタイムリープを導入すると、長大になりがちだ。その意味で、予想を裏切ってきた作品である。

 

だからと言って、『未来ラジオ』は簡単な答えを描いたわけではない。不必要な要素をギリギリまでそぎ落としたかのようにすら感じられる。時間を根幹に据えている作品の最もシンプルな姿を取って、『未来ラジオ』は私たちに、不確実な「未来」を確定させる、「今」まさに行われている選択と決断、その有り様を伝えてくれる。

 

それでいて、時間軸をさらったプロットだけを読まされているかのように感じないのは流石と言うべきだろう。キャラクターの描き分けは丁寧に行われている。義妹の水雪は、年下としての役割を自認しながら、それでも年相応の幼さをぶつけてくる。どうしても年上の存在を切り離して成長することができない、妹という特殊な属性を持つが故の葛藤が、とりわけ共通ルートを中心に綿密に描かれる。飛行機事故の被害者という共通項を鍵に接近する秋奈は、もはや戻らない「過去」の残り香をそれでも抱きしめて生きていかなければならない、人間の弱さを受け入れた存在だ。人間にとって「過去」はどのような形で残るものなのか、秋奈は知っている。だからこそ主人公のために骨を折る彼女の背中は、儚くも強い。孤高の女性にして男に心を開いたことのない椿姫は、明晰な頭脳を持ちながら、実は秋奈ほど割り切れてはいない。椿姫は、たとえるなら夜のような女性だ。気位が高く、ツンと張った空気を放ってはいるが、アンビバレントさを隠しきれていない。柔らかな光があれば、その存在を昼間より際立たせてしまうような複雑な心の内が、椿姫を通り一遍の美人から区別している。

 

かぐやの性格や描かれ方について言及しようとすると、作品の最も重要な部分に触れることになる。一言でまとめるならば、彼女はまだ「生きる」ということの重みを知らない。それを知っていくプロセスが、誰よりも丁寧に描かれる。生きることとは死ぬことではない――彼女がそう気付く物語であるという側面も、『未来ラジオ』は持っている。だからこそ、『未来ラジオ』はただのSFではなくなったのだ。

 

シナリオと一体になった他の演出要素もいい。背景は、その質感をコロコロと変化させることで、私たちプレイヤーに『未来ラジオ』の世界がいかに不均一で脆いか教えてくれる。音響面も研ぎ澄まされている――音楽だけではなく、効果音もまた『未来ラジオ』の大切な構成要素の一つだ。シナリオに強度があるからこそ、シンプルな味付けが映える。その静けさが、ラプラシアンの自信の現れであり、こだわりなのだろう。

 

椿姫は言う。この物語は、最初からかぐやとその母・伊耶那の物語だったのだ、と。主人公も同調する。実際には、かぐやにかぐやと伊耶那の物語を実感させる物語であり、それを画策しようとする人々の執念と愛を描いた物語だ。「未来」は不確実なものだが、一つだけ確かなことがある――死んでしまっては、その人の「未来」はやって来ない。「未来」を享受してもらうためには、生きていてもらわなくては困るのである。そして、その「未来」を確定させる決断が「今」行われているのだとすれば、その決断こそ「生きる」という行為の本質なのかもしれない。かぐやはどのように「生きる」という行為を知るのか、主人公はいかに「生きる」のか、その他のヒロインも、主人公やかぐやの「生きる」ための営みをどう受け止め、どう支え、どう反発するのか。おそらくは、主人公が欲した形とは別の、「生き」ていく上での繋がりが、確かにそこにはある。その繋がりを、まっすぐな創作態度で描き切った快作だ。ぜひプレイして欲しい。

 

 

文字禍/まごころを、君に【『みにくいモジカの子』プレイ感想<ネタバレ有り>】

※8月19日追記:一番下に参考で示した記事を閲覧した上で、本論最後のチャプターを若干修正。記事の要旨に変わりはない。


※8月7日追記:本論の終わりに補遺として「シナリオの一貫性とトゥルー以外のヒロインのルートについて」を追加。ただし、「作品の感想」から逸脱し「批評の批評」に成り下がってしまっているきらいがあり、自分でもよくないと感じている。補遺抜きでも記事としては完結しているので、関心のある人のみ目を通して欲しい。

 

この記事はニトロプラスの最新作『みにくいモジカの子』のプレイ感想だ。ネタバレを多分に含むので、プレイ予定のある人はネタバレに配慮したこちらの記事を読んで欲しい。

 

 
『みにくいモジカの子』(以下『モジカ』)を支える柱と梁が幾つかあることに気がついたのは、四番目に攻略していた椿ルートの途中だった。もちろん、柱や梁はめいめいが単体で議論や分析の対象になり得る。だが、椿ルートを進めていくうち、私は脳裏をよぎった直感を否定することができなくなった。この作品をシナリオだけ、設定だけ、あるいは演出だけに絞り込んで語ることは不可能だろう、という直感を。
 
だから、『モジカ』が私に何を語り、その語りについて私がどう感じたかを記す前に、『モジカ』の特徴についていま一度まとめてみたいと思う。そうした、他のエロゲと比較して明らかに異質である点が、どのように『モジカ』を形成しているのかについてまとめる作業が、『モジカ』の語り、或いは『モジカ』がたどり着いたところについて考える上で助けになるだろうから。
 

 
『モジカ』で目を惹くのは、やはり特異な場所に表示されるテキストだろう。既存のメッセージウィンドウを投げ捨て、徹頭徹尾画面のど真ん中に表示されるテキストは、いかに『モジカ』が異質な存在であるかを端的に表している。一方で、『モジカ』の根幹を成す設定である主人公の「モジカ」能力=他心通の能力は、ヒロインの心情をその画面中央に居座るテキストからすら解放し、画面全体を覆い尽くす文字の渦として存在することを許している。
 
こうした常軌を逸したテキスト群を支えるのは、これまた徹底された一人称視点の光景だ。ヒロインの顔を映し続けるというエロゲの常識を投げ捨てることで達成された画面は、人の脚や影ばかりが映る陰鬱なものになった。追い打ちをかけるように、暗い劇伴が私たちの耳を支配する。いや、劇伴が華を添えている間はいい。この作品では、BGMとして環境音が採用されていることが大変多い。作品全体に静かな影を纏わせるこうした音たちの存在も、また他のエロゲとはかけ離れたところにある。
 
こうした(広義の)演出群を支える設定は、上で一度触れたとおり、「相手の思考が文字となって視える」という「モジカ」の能力だ。
 
「モジカ」のアイディアの源流は、二か所に求められるように思う。一つは、問題意識としての、エロゲにおける主人公とプレイヤーの乖離。もう一つは、より具体的なアイディアのヒントとしての、文字の渦という発想だ。
 
エロゲにおける主人公とプレイヤーの乖離、とはどういうことだろう。簡潔に言えば、プレイヤーはエロゲの主人公が到底知り得ない情報に容易に接することができる、それが故にプレイヤーと主人公は一体化しない、ということだ。エロゲプレイヤーは、しばしば主人公が絶対に取り扱うことのできない情報に触れる。代表的なものが、ヒロインの心情だ。人が表に出していない、心の中だけで考えているようなことを、プレイヤーは知ることができる。場合によっては、視点人物が主人公から移り変わることで、主人公が存在しない空間におけるヒロインの動静すら把握可能だ。こうした情報格差は、メタ存在としてのプレイヤーと作品内部の主人公の間に横たわる溝を深くする。
 
或いはニトロプラスは、この事実を問題として捉えていたかもしれないし、新たな表現のチャンスと見ていたのかもしれない。どちらにせよ、『モジカ』はこの事象をほどいていく方向にシフトした。『モジカ』が提示した答えはシンプルだ。主人公が他人の思考を読めないことでプレイヤーと主人公が一体化し得ないのであれば、主人公の側にその情報を与えればよい。その発想が、「モジカ」の能力の源泉だ。
 
この答えがゲームに、『モジカ』という作品に与えた影響は大きかった。主人公とプレイヤーの同一化が入手可能な情報の面で進んだことにより、その他の面での同一化も極端に押し進める必要が生じてきた。それが、一人称視点を意識した画面づくりに繋がり、ひいては画面中央に表示されるテキストというある種の演出に続く道を整えた。画面中央にあるテキストとは、畢竟一人称視点による画面、それを駆使した主人公とプレイヤーの一体化という制作側の意図を達成するために必要な最後のピースだった。プレイヤーの視点を画面下部のメッセージウィンドウから解放し、真に主人公と同じものを見せるために、ニトロプラスはテキストの位置を移動させたのだ。
 
プレイヤーと主人公の同一化、すなわち、プレイヤーと主人公の間の境界の融解――この現象が真に効いてくるのは、主人公が欲望のシンボルであるコンセイサマ内部に取り込まれた後のシーンだ。だが、そのことを検証する前に、「モジカ」のアイディアのもう一つの源流について考えてみたい。
 

 
「モジカ」とは文字渦である。作中、文字渦という文字列が提示されるのは一度だけだ。だが、その時以外にも文字の渦など似た表現は頻出する。渦という文字が印象的に用いられているというのは、見解ではなく事実だ。
 
この「渦」という発想の土台にあるのは、中島敦の小説『文字禍』だろう。ひょっとすると、この小説こそ『モジカ』そのものの出発点なのかもしれない。中島敦のこの作品は、バビロニアの図書館を舞台に、文字の精霊の存在を発見した博士が、文字の働きとその危険性を認識しながら、最終的には文字の重みそのものである粘土板に圧し潰されて死ぬまでを描いている。青空文庫で読むことができるので、一度目を通してみて欲しい。
 
中島敦の『文字禍』は、一般にゲシュタルト崩壊をおかしく描いた作品だと捉えられている。もちろん、『文字禍』のアイディアの土台には、ゲシュタルト崩壊があるのだろう。しかし、結局中島敦ゲシュタルト崩壊を鍵として描いたものは、もっと大きな何かだった。今日の私たちが同作をメディア論的に、或いは記号論的に再読することはさほど難しくない――それほどまでに、含蓄に富んだ作品だ。
 
「モジカ」とは文字渦であって文字禍である。 文字の渦が主人公を通して私たちを襲い、私たちの側を解体していく。まさしく禍そのものだ。
 
コンセイサマの中で、主人公は自我を失いかける。正確には、自分の欲望と他人の欲望の区別がつかなくなる。数多の欲望を人間ごと呑み込んできたコンセイサマの中で、主人公はなぜ自分とそれ以外のものの区別がつかなくなったのか。そのことを考える上でヒントになる部分が、『文字禍』の中にある。
 
彼が一軒の家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰との意味もない集合に化けてしまう。(中略)人間の身体を見ても、その通り。みんな意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしまう。どうして、こんな恰好をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。眼に見えるものばかりではない。人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。
 
中島敦『文字禍』 原文は「じっと」の「じっ」に傍点
 
おそらくゲシュタルト崩壊云々というのはこの部分のことを指しているのだろう。上述のとおり、たとえゲシュタルト崩壊が発想の根底にあったとしても、この作品の射程はそれを遥かに超えたところまで伸びている。上で引用した部分は、文字と文字の精霊を研究してきた博士が、ただの線の集合に過ぎない文字がどうして「文字」として意味のを獲得しているのか分からなくなった、という前置きの上で展開される。今まで意味のあったものが、分析という行為を通じて解体された結果、「意味のない奇怪な形をした部分」へと還元されてしまった、というポイントに着目したい。
 
『モジカ』において、主人公はコンセイサマの中で大量の文字を浴びる。その文字は、今までコンセイサマの中に溜め込まれた人間の欲望そのものだ。それら視覚化された人間の欲望=「モジカ」によって思考を分析されることで表出した文字が、主人公に襲い掛かる。主人公は解体され、主人公の欲望すら他者の欲望と並列化される。主人公という一人の人間を構成していた欲望は、文字によって解体された結果、主人公という属性を失い、ただの欲望として他人のものだったはずの欲望と混じり合った。そしてそこから、主人公の思考が闖入者によってかき乱されていく。これが、主人公がコンセイサマの中で自分の欲望を、ひいては自我を見失った理由だ。
 
そして、ここまで理解して初めて、『モジカ』はなんのために一人称視点を徹底させたのかが明らかになる。プレイヤーと主人公の視界の一致を通して、プレイヤーと主人公の境界は崩れ落ちる。主人公の経験はプレイヤーの経験として私たちのものとなっていく。では、その状態で主人公が分解されればどうなるか。当然、プレイヤーの側も解体される。コンセイサマの中に取り込まれた誰かの欲望は主人公の欲望であって私たちプレイヤーの欲望そのものなのだ。既に融け落ちていた主人公とプレイヤーの境界だが、今度は主人公が一般化されるシーンを通して、私たちプレイヤーが一般化され意味を、個人という意味での人間という総体を失っていくのである。
 
こうした、文字という記号によって私たちプレイヤーを解体していく営みは、キャラを記号の集積と捉える議論の裏返しだ。キャラという概念が記号消費のシンボルとなって久しい。だが、キャラを単なる記号の集まりとして考え、キャラクター=具体的な登場人物をキャラという側面から解析しようとする行為には、常にリスクが伴う。抽出され一般化されたものどもは、いつの間にか意味を失い記号ではなくなるか、還元され過ぎて元の形に戻れなくなる。その危険に気が付かないと、いつしか私たちの側が記号によって解体されてしまうのだ。
 
具体的なキャラクターや彼らの思考が記号や記号の集積であるキャラ、或いは記号の代表である文字によって表現されると、私たち人間は途端に「文字の精」によって混乱させられる。
 
埃及人は、ある物の影を、その物の魂の一部と見做しているようだが、文字は、その影のようなものではないのか。
獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。
 
中島敦『文字禍』

 

エロゲプレイヤーが読むと卒倒しそうになる文章が戦前に執筆されていたというのだから驚くよりない。この部分だけを読むと、現実の女性の代わりにエロゲキャラクターを愛する私たちは文字の精霊の虜になっているだけの愚か者のように思われる。

 

だが、実際には、この事実を知ってしまった博士は最終的に解析のし過ぎで「気が違いそうになっ」た(中島敦『文字禍』)。それを文字の精霊からのしっぺ返しと捉えると、記号とはいかに扱い難いものなのか、というところまで思考が回って、別の意味で頭が痛くなってくる。

 

ここまで掘り返してみると、いよいよ『文字禍』いや『モジカ』という作品そのものも恐ろしくなってくる。エロゲキャラクターに魅了の術を掛けられた私たちエロゲプレイヤーは、そして、記号の海文字の渦の中を生きる現代の私たちは、どうすれば総体を回復できるのか。

 

『モジカ』は、私たちに一つの救いを提示している。コンセイサマに取り込まれた主人公が助かる道は、ただ一つしかなかった。逆に言えば、それこそが私たちを救済する可能性のあるたった一つの手段なのだ。

 
コンセイサマの中で愛し合う二人が手を取り合えば彼らが祝福されて生き地獄から脱出できるわけではない。そのことを否定するために、椿は触手の犠牲となった。彼女の貴い犠牲を無駄にしないためには、きちんと正しい道のりを辿って「笑子」のもとへ辿り着かねばならない。
 
主人公と「笑子」いや鳴子は、一度のみならず二度もコンセイサマの魔の手から逃げおおせた。その理由は、二人が「呪われた運命」の子だったから、というのが最も簡潔な解答であり、もう少し詳しく書けば、二人の違いをコンセイサマの側が見失ったから、になる。
 
コンセイサマが二人を取り違えた理由は明示されない――二人が双子であるという可能性は、エピローグによって潰されている。いや、二人を取り違えたその理由はおそらくシンプルで、それこそが『モジカ』の描いたものなのだと筆者には思われるのだが、結論は急がずにもう少しだけ寄り道をしてみたい。
 
なんとも奇妙な話ではないか。コンセイサマは、これまで数多の人間を欲望を手掛かりに還元していくことで彼らを取り込みその命脈を保ってきたのだ。それがどうして、たった二人の「見分けが付かなかった」などという理由で滅ぼされてしまったのか。二人が自分の心に鍵を掛けて=カンヌキを掛けていたから、というのは部分点しか当たらない回答だ。これでは、どうして幼少期の二人がコンセイサマから脱出できたのか説明できていないからだ。
 
正しい答えは、「二人は二人で一つだったから」、である。
 
実はこれで満点なのだが、しかし意味不明であるという点で問いと大してレベルが変わっていない。もう少しだけ詳しくみておきたい。
 
主人公と鳴子は、同じ日に同じ籠で孤児養育施設に拾われた子だった。その二人は、片割れがいかに醜い見た目をしていようと、常に二人で過ごしてきた。そんな中で、鳴子いや「笑子」はコンセイサマの中へ投げ込まれ、他心通を得ることができるか試される。主人公は「笑子」の危機を察知し、果敢にも自らコンセイサマの中へと飛び込んで、無事に「笑子」と共に生還した。
 
そのことがきっかけで他心通を獲得した「笑子」は許斐家の養子となりひとまずは主人公と袂を分かった。しかし、時が流れ、「笑子」は鳴子として再び主人公の前に姿を現し、いま一度コンセイサマの中へと入り込んだ。今度は、コンセイサマを滅ぼすために。主人公も鳴子の期待に応え、幼少期と同じように、二人でコンセイサマを打倒した。これが、鳴子ルートのプロットだ。
 
要約すると、「同じ日に捨てられたという数奇な偶然によって結び付けられた比翼連理の二人は、『呪われた運命』に導かれるまま、二人でコンセイサマという巨悪を倒しハッピーエンドを迎えた」、になる。つまり、「過去の出来事や因縁によって結び付けられた運命の二人」が「『真実』の愛」を掴んだから、コンセイサマはその身を焼かれ、二人はそのまま子供を授かって幸せに暮らしたのだ。
 
なんということだ。今まで散々『モジカ』がいかに普通のエロゲからかけ離れた表面を纏っているか議論してきたというのに、肝心要のその中身は、むしろエロゲの王道中の王道をひた走っているではないか。
 
『みにくいモジカの子』というタイトルは、もちろん童話『みにくいアヒルの子』のパロディーだ。だが、『~アヒルの子』がタイトルに使われたのは、ひとえに「みにくい」という言葉を導くためである。プロットとしては、醜い存在と美しい存在が「真実」の愛に気が付くのだから、むしろ『美女と野獣』である。『モジカ』本編でやたら醜さと美しさ、嘘と真実の対比が強調されているのは、「『真実』の愛」などという使い古されてもはや現代では忘れ去られたはずのアイディアを導くためだったのだ。
 
思えば、売上的にエロゲ全盛期だった90年代後半から00年代頭に流行った泣きゲ前後から、エロゲはずっと、ナイーブ過ぎるきらいすらあるプレイヤーのために美しい「『真実』の愛」を描き続けてきた。時代が移り、エロゲの中心が泣きゲから萌えゲに移り変わっても、そこは変化しなかった。萌えゲの時代になり、重たい因縁やいわゆる鬱展開は忌避されるようになったが、エロゲプレイヤーはなんだかんだ愛の力愛の魅力を信じるロマンティストだった。
 
そう考えると、『モジカ』はエロゲのど真ん中にある作品だ。ライナーノーツで、ディレクターが『モジカ』をこう評している。ニトロプラスが作った「本気のエロゲ―」である、と。
 

 
それにしても、救いというのは難しいものだ。概念そのものがふわふわとしている上に、何が救いになり得るかというのは人や状況によって異なる。

『モジカ』が救いの対象としているのは誰なのだろうか。題材的には、いじめられっ子がどのように前を向き始めるか、というところに焦点が当たっている。

しかし実際には、上述のとおり、『モジカ』は主人公をとおしてプレイヤーを巻き込む形で物語を進めていく。プレイヤーがヴァーチャルな体験として救済される、ということは、すなわち、プレイヤー一般に対し『モジカ』は開かれているということだ。

もちろん、プレイヤーは主人公が受けたいじめすらも自己の体験として内面化していくだろう。だが、この作品はもう少し遠いところまで視野に収めていそうな気もする。

というのも、多かれ少なかれ、エロゲプレイヤーというのは迫害や蔑視の対象になってきた、という事実が私たちの目の前にあるからだ。いや、エロゲプレイヤーのみではない。それこそ、2000年代が接近するまで、ポップカルチャーいやサブカルチャーに造詣を持つ人々(=おたく)は世間からの非難の対象だった。すなわち、「私たちのような」人々は、誰しもがいじめの近傍にあるアイディアと無関係ではない。

或いは、逆かもしれない。世間や所属していた共同体の中で困難に見舞われ、救いを求めた先がポップカルチャーだったのかもしれない。その可能性は否定できない。どちらにせよ、「私たち」にとって、ポップカルチャーとは安寧の地であったし、それと同時に、自らが受ける苦難の源泉でもあった。

「気持ちいい」という言葉を鍵として、自分と相手の境界が融け去った状態を描きながら、人間とは、愛とは何か、そして、ポップカルチャーに引き寄せられる「私たち」とは何かを探ろうとした作品に、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』がある。この作品には、予め撮影された『エヴァ』を鑑賞している私たちを流しながら、「気持ち、いいの?」と問いかけるよく知られたシーンがある。これは、どうやっても一人称視点を貫徹できない既存アニメで私たちを揺さぶる数少ない方法だと評価できるが、筆者が『モジカ』をプレイしていて思い出したのは、まさにそのシーンだった。
 
まごころを、君に』の最後は衝撃的だ。岸辺で二人きりになった主人公・シンジは、ヒロインであるアスカのもとへ近寄り、二人が新しい秩序の中にいることを確認する。それに対して、アスカは一言だけ残して幕は切れる。「気持ち悪い」、と。
 
人間は分かり合えないし一つにもなれない。救いを求めてポップカルチャーへと彷徨い込んだ「私たち」を一蹴したこのラストは、今でも賛否両論ある。ある人はこのラストのせいで二度と旧劇場版の『エヴァ』を観れなくなっただろう。一方で、この現代人を批判するかのようなラストとこれを作り上げたスタッフの気概を高く評価する人もいる。
 
後者のような人たちにとって、『モジカ』の結末は甘すぎるだろう。おそらく、せっかく立てた命題と向き合うことから逃げた、と批判するに違いない。
 
しかし、筆者は思うのである。仮に、個人として切り離され浮遊した現代人一般(「私たち」ならぬ私たち)が、記号の渦という魔の手から逃れられるとすれば、それは個人が再び結びつき合った時だけなのではないか、と。『モジカ』は、確かに「どのようにして」その結びつきを作るかまでは描いていない。『モジカ』は、あくまでエロゲの文脈に沿って「運命」という概念を用いた。しかし、『モジカ』はきちんと答えは示している。「二人で一つになれるようなことがあれば、それは救いになり得る」、と。
 
分解されることを拒むために、私とあなたの間の境界を融かし、「一つ」として生きていく。一見肉を切らせて骨を断っているかのような作戦にも思われる。しかし実際には、分解と融合は全く別の現象だ。間にワンステップ、私とあなたの区別をなくすという工程が入るから紛らわしいだけだ。「二人で一つ」は、確かにコンセイサマという地獄から逃れる蜘蛛の糸たり得るアイディアである。
 
『モジカ』は、真の意味で純愛ものだ。愛があればこの世の困難の大抵は乗り越えられるとでも言いたげな、ナイーブなロマンティストが喉から手が出るほど待ち望んでいた作品だったのだ。達観しているように見えて、心の底では「運命」を待ち望んでいるような現代人にとって、『モジカ』は最高の処方箋となるに違いない。『モジカ』は、何かにつけてポップカルチャーに逃げ込むようになった今日の(現代の、ではない)「私たち」、すなわち、一般という意味の私たちとほぼ同値となった「私たち」に手を差し伸べたといえる。

『モジカ』は、どこまでも前向きで、ずっと夢を見続けられるような、無垢な少女の如き作品だ。少なくとも、ロマンティストを自称するエロゲプレイヤーの筆者には、そのように思われた。だから筆者は、そんな『モジカ』が大好きだ。
 

 
補遺 シナリオの一貫性とトゥルー以外のヒロインのルートについて
 
最初から分かりきっていたことではあるが、『モジカ』は決して万人から満点をもらえる作品ではない(いや、ニトロプラス自身はあわよくばそれを狙っていたのかもしれない)。
 
ネット上で散見される『モジカ』に対する批判的な論調を要約すると、以下の二点にまとめられる。一つは、五人のヒロインの物語全てに共通するような、全体を貫く「シナリオ」の不在を追及する向き。もう一つは、トゥルーである鳴子以外のヒロインのルートにおける救いのなさ、あるいはヒロインの扱いの悪さを嫌う方向性だ。
 
もう少し詳しく見てみよう。全体を貫く「シナリオ」がない、とは、つまり、五人のヒロインの物語がバラバラな方向へと散ってしまっている、ということだ。この意見を主張する人は、椿と鳴子以外の三人の物語では主人公の復讐がメインになっているにも関わらず、残り二人の話ではその要素が見当たらないことを糾弾する。或いは、鳴子以外のヒロインでは残虐なまでの結末が性行為を交えつつ展開される割に、鳴子ルートではベタベタに甘い終わり方を迎えることについて不満を抱きがちだ。
 
鳴子ルートとそれ以外の物語の間にある溝――これは、そのまま『モジカ』を嫌うもう一つの方向性へと繋がっていく。すなわち、鳴子以外のヒロインについて、なんらハッピーエンドを迎える余地がない、という意見だ。エロゲにおいて、全てのヒロインとの物語がハッピーエンドである義務はもちろんないが、本論で少し触れたとおり、萌えゲ時代のエロゲプレイヤーはいわゆる鬱展開を忌避する傾向にあり、『モジカ』は彼らのそんな反鬱展開センサーに引っかかったのだと思われる(とはいえ、鳴子以外の『モジカ』のヒロイン全員があのような悲惨な結末を迎える必要があったかは検討する価値があるように思われる)。
 
これら二つの意見にはまとめて回答できるかもしれない。結論を先に述べると、『モジカ』はニトロプラスにとって「本気のエロゲ―」であったがために、上のような意見が生まれる余地が発生したのだ。
 
ディレクターが言うところの「本気のエロゲ―」には、本論で述べたような意味合いの他にも、幾つか異なる示唆が込められているように思う。それは、ひとえに「エロゲ―」とはいかなるものか、という問題に起因するためだ。「エロゲ―」とは何か、と問われると、私たちは困ってしまう。というのも、「エロゲー」には幾つか特徴があり、それらを一言にまとめて表現することが難しいからだ。
 
まず、「エロゲ―」とはエロ要素を含むゲームだ、という回答が想定できる。この意味で「本気のエロゲ―」を作るのであれば、それはすなわち、「エロシーンが実用に耐え得る作品」、つまり「エロシーンで実際に興奮できる作品」を目指すことになる。
 
或いは、「エロゲ―」とはあらゆるかわいい女の子や美少女を網羅し、彼女らとの多様なコミュニケーションをシナリオの中で体験するゲームだ、とまとめることもできる。この時、「本気のエロゲ―」は、「各属性を持つヒロインを満遍なく網羅し、かつあらゆるシナリオのパターンを提示する作品」になる。
 
そして、一部の「エロゲ―」には、トゥルーエンドと称される、他のルートとは一線を画したシナリオが存在する可能性がある、と指摘する人もいるだろう。この回答は、厳密には全てのエロゲに当てはまるわけではない。しかし、トゥルーエンドを採用するか否かという判断が制作側に存在することも確かであり、かつそのような特性は他のメディアではあまり見られないことも事実だ。この意味で「本気のエロゲ―」を目指すならば、「トゥルーがあるのならばその物語が最も強く印象に残るように、そうでないならばできる限り各ルート間の格差が質・量ともに生じないように制作された作品」を指向することになる。
 
こうして並べてみると、ニトロプラスがどうして『モジカ』においてあのようなヒロインを用意したのか、そのような性行為を描写したのか、そして、ヒロインにとっても主人公にとっても厳しい結末を提示したのかが見えてくる。第一の点、エロシーンの実用性という意味では、できる限り多くのプレイを実装することでその要求を満たそうとしている。『モジカ』の中に搭載されたHシーンのプレイの幅は広い。レイプ逆レイプアナルセックス配信プレイ足コキフェライマラチオ首絞めキメセク授乳プレイボテ腹セックス、挙句の果ては触手プレイ、と、羅列するだけでも威圧感がある。そうした種々のプレイが、官能的な絵柄や淫語によって装飾されている。
 
肝心なのは、そうしたプレイを網羅するために、ヒロインの属性も幅広く取り揃える必要がある、ということだ。そうすると、自然に二つ目の視点、「ヒロインとシナリオの多様性」もカバーされていく。精神が崩壊した結果ドSになる者、現実を受け入れられずに妄想の中で生きることを決め込んだ者、ドM露出狂という本性を暴かれた者、無口キャラが崩れセックス中毒になる者、そして、勤勉な生徒会長にして物語の黒幕、最終的に主人公と純愛を育むことになるヒロイン。なるほど体格もそれなりにメリハリがあり、眼鏡などの属性も分散させられている。
 
そして、二つ目の視点と最後の視点が重なり合うポイントで、シナリオに関する判断を迫られることになる。ニトロプラスは、トゥルーを用意するという決断を下した上で、ある程度シナリオにも幅を持たせようとした。この計画が無謀だったかどうかは完全に個人の感性による。確かに、トゥルーという物語の総まとめにあたるルートを用意しながら、シナリオの種類を揃えるのはやや無謀なのかもしれない。それでも、ニトロプラスはなんとかそれを成し遂げようと画策したのだ。まず、イントロダクションとしてみうルートを配置し、舞台となっている街の概要を提示する。続く胡頽子と綺羅々のルートでは、「笑子」の存在をちらつかせながら、一応は主人公の復讐という見せかけの柱を私たちに見せつける。椿ルートでカンヌキとコンセイサマという設定を明かし、鳴子ルートでまとめる。ニトロプラスは、シナリオに幅を持たせる代わりに、設定を小出しにすることで、徐々に物語や舞台の細部を描き、トゥルーでのカタルシスを担保しようとした。
 
トゥルーでのカタルシス、ということを考えると、もう一つ、どうしても避けて通ることのできない問題が生じる。それは、最もトゥルーでのカタルシスを高める方法は、トゥルー以外をバッドにしてしまう作戦だ、という問題だ。結局ニトロプラスは、上で述べたシナリオの多様性の問題と、このトゥルーでのカタルシス、その双方を重く見て、鳴子以外を苦い結末にしたのだと思われる。この判断もまた、プレイヤーによって賛否が分かれて仕方の無いところだ。

もちろん、ニトロプラスは腐心して設定を徐々に明かすという技法以外でも『モジカ』の各ストーリーに統一感を持たせようとしている。「醜い」と「美しい」の対比がそれだ。これは同時に、「嘘」と「真実」の関係性を問うてもいる。どちらかというと、シナリオの中身というよりコンセプトに近い部分だが、そういう面でもニトロプラスの工夫が見受けられる。
 
一点、ニトロプラスを擁護するのであれば、作品の「本筋」から離れてしまうヒロインは、トゥルーのあるなしに関わらず、ほとんどのエロゲにおいて生じてしまう、という点だ。この傾向は、特にシナリオ重視の作品に強い。この「本筋」から離れたヒロインの存在は、ある意味シナリオの多様性を確保しようとするあらゆるエロゲブランドの努力の成果であり、逆に言えば、そうした離れたヒロインが存在しないエロゲは、往々にして似たり寄ったりなシナリオが集まった作品になりがちだ、とも指摘できる(もちろん例外もある)。ある意味必要悪とも取れるが、『モジカ』はその中ではかなりよくこなしている方だ。「本筋」である鳴子ルートから離れているヒロインも、設定を提示する役割などから全体の流れの中でしっかりと位置づけされている。その観点から言えば、『モジカ』は決して失敗作ではない。
 
多様なプレイヤーのニーズに全て応えることは、いかなる作品でも不可能だ。『モジカ』は、「本気のエロゲ―」であったがために多様な要素を取り込み、その結果あらゆる角度からの批判を甘んじて受けなければならない存在になった。個人的見解を述べれば、『モジカ』は「本気のエロゲ―」として申し分ない完成度であり、シナリオもキャラクターも設定も十分体系的にまとめられた作品だと感じている。この作品の一点を取り出して失敗だとなじることは容易い。或いはそれらの大半は、体験版で提示された僅かな情報から製品版の様子を想定したプレイヤーの浅慮によるものかもしれないが、中には正鵠を得た批判もあるだろう。しかし、ニトロプラスの野望や(シナリオだけ、CGだけといった「分析的」な評価ではない)作品全体の様相ということを視野に含めると、『モジカ』以上のものを想定することは難しい。エロゲとは畢竟複合メディアであり、情報を含む媒体も媒体間のバランスも複雑だ。あまりに一般化し過ぎた、すなわち、分節化を指向する分析的過ぎる批評は、ちょうど『モジカ』の主人公の如くその文章の側が解体されかねない。そう考えると、やはり『モジカ』は恐ろしい作品なのだと改めて認識させられる。
 
※2018/9/4追記:余談だが、発売されて一ヶ月、もう一度『モジカ』について考える機会があったのだが、主人公の復讐という物語の一側面は、実は作品を通じて徹底されているのではないか、という結論に至った。というのも、主人公と鳴子が二人で一つならば、主人公の復讐と鳴子の「復讐」=幼少期に「コンセイサマ」へと投げ込み、その上で主人公から鳴子を引き離した街の上層部への復讐は、実は一致しているのかもしれないからだ。参考までにここに思索の跡を残しておく。

出典
下倉バイオほか(2018)『みにくいモジカの子』. ライナーノーツは本編クリア者のみ閲覧可.
中島敦(1942)『文字禍』. 底本は青空文庫による. リンクは上記ジャンプ先参照.
 
参考
庵野秀明ほか(1997)『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』.
平和,大樹連司,なかJ(2018)"ゲームシナリオ"と"小説"の違いとは? 実力派ゲームシナリオライターラノベ編集のプロが語る【ニトロプラス・下倉バイオ×元電撃文庫編集長・三木一馬】. 電ファミニコゲーマー. 最終閲覧2018年8月19日. http://news.denfaminicogamer.jp/interview/180817

童貞論【『抜きゲーみたいな島に住んでる貧乳はどうすりゃいいですか?』プレイ感想<ネタバレなし>】

やわらかい言葉で素直に感想を綴りたい。そう思える作品だった。

 

作品全体に籠る熱と溢れ出る優しさが、そう思わせてくれたのだと思う。

 


 

作品概要

・新規ブランド・Qruppoの記念すべき商業デビュー作

・性行為が盛んに行われている離島でレジスタンスを結成した「童貞」の物語

・軽妙なテンポとスリルある隠密行動シーンが共存

 

ここがオススメ!

・ルートをもらったヒロインの他にいる副攻略対象がかわいい!

・CGのみならず立ち絵までエロい!

少年マンガのようなプロットが熱い!

 


 

Qruppoのデビュー作、『抜きゲーみたいな島に住んでる貧乳はどうすりゃいいですか?』(以下『ぬきたし』)が話題を呼んでいる。店舗によっては品薄になっているようで、プレミア価格で取引されているところも見かける。新規ブランドでここまで話題になってくれるのは、一エロゲプレイヤーとしても嬉しい。

 

幸いにも、筆者は発売日に購入することができた。届いた箱を眺めてみると、なんともたくさん女の子が描かれている。果たして誰が攻略対象なのか、裏面を見る限り5人だろうか、いや表の6人だろうか…… まず、そこを考えるところからして楽しかった。

 

この女の子とどんなお話を紡げるのだろうか。この想像こそが、エロゲをプレイする中で最も大事な思いの一つであることは確かなのではなかろうか。その意味で、『ぬきたし』は大変ワクワクさせてくれる作品だ。

 

誰が攻略対象かは敢えて口にしないでおきたい。ネタバレだから、というのもある。だがそれ以上に、このゲームの特性として、一つのルートで攻略することになるヒロインは事実上一人ではない、というものがあり、誰がメインヒロインなのかという議論にあまり意味がなくなってしまっているのだ。

 

そう、この、サブヒロインいや副攻略対象ヒロインの存在こそ、『ぬきたし』の魅力を倍増させているファクターなのだ。作品中、分かりやすい対立の構図が幾つか提示される。そんな中で、行動力と忍耐力には人一倍長けた主人公に敵味方問わずヒロインが惹きつけられていく。これが、この作品の全てのルートの共通する基本的なプロットだ。まとめてしまえばなんということはない。しかし実際には、惚れていくまでの過程や惚れてからの行動が時にコミカルに時にシリアスに描かれ、絶妙なハーモニーを奏でてくれている。

 

何が言いたいかというとイクちゃんかわいい。

 

閑話休題。時にコミカルに、の部分を担うのは主に二つ。一つは、主人公に近い人々によって繰り広げられる会話劇や掛け合い。もう一つは、突拍子もない設定を活かした島の人々の行動だ。

 

過疎化対策に性行為が推奨される島で、風紀概念が完全にイカれた人々がとりあえず出会いがしらにセックスする。文章に起こすとディストピア感が凄いものの、実際にシナリオを読んでいるとこれがまた楽しい。「抜きゲーみたいな」設定は、シナリオの根幹であるのだが、根幹である分このような枝葉にまで影響力を残している。

 

これが功を奏したのが立ち絵だ。もう立っているだけでエロい。服飾によるところが大きいのだが、なぜか雰囲気までエロく感じる。

 

何が言いたいかというとイクちゃんエロい。

 

それでいて、お話はきちんと盛り上がるのだからズルい。どのルートも骨格はおおよそ同じなので、残りはヒロインの設定や性格によって肉付けされている印象。隠密行動や戦闘シーンの緊迫感は普段の島のとぼけた雰囲気とはまるで異なり、息もつかせぬほどだ。実際には、ただ家に帰るだけのミッションであることも多いのだが、それを大仰に書き立ててみるとこれが面白い。滑稽ですらあるし、その滑稽な話にのめりこんでいる自分も謎だ。

 

上述のとおり、敵対関係(とその推移)が分かりやすいので、話の筋を掴むのに苦労はしない。分かりやすく書く、というのは案外難しく、特に敵味方が激しく入れ替わる場合は細心の注意を必要とするのだが、その辺りも難なくクリアしている。この作品においても、敵と味方は混ざり合う――というより、昨日の敵は今日の友だ。少年マンガのバトルロイヤルよろしく、倒した敵は味方。このプロットも、長年愛されているだけあって完成されている。もうとにかく熱い。最終盤など展開が全て読み切れているにもかかわらず熱中してしまう。悪役の散り方も型にかなっていて、プレイ後の爽快感たるや相当なものがある。

 

何が言いたいかってイクちゃんかっこいい。

 

総じて、エロゲという媒体で目指されるべきエンタメとして相当なレベルでまとまっている。見ていて楽しい、読んでいて興奮できる。なるほど、そういえばエロゲをやるというのはこんなに喜びに溢れた行為だったのだ、と改めて認識させられた次第だ。

 

楽しいといえば主人公のことも忘れてはいけない。主人公は童貞とはなんなのか語る。その姿もなかなかに童貞くさいのだが、なるほどこの作品は童貞を論ずるエロゲであって童貞のエロゲなのだなあと納得した。主人公の造形がいいエロゲで、こういうところにも工夫が見えて好感が持てた。

 

この作品には、シナリオを簡潔にするためだろうか、幾つかの伏線が未回収になっている。キャラの裏設定も、掘り返せばまだまだエピソードが作れそうだ。願わくは、ボリュームのあるFDが発売されんことを。

 

 

 

 

 

…………。

 

 

 

 

 

何が言いたいかってイクちゃんともっとイチャイチャさせてくださいお願いしますっっっ!!!

 

いやほんとイクちゃんかわいいんですよ。非処女だけど主人公にべた惚れしていくまでの過程とルートでのあの健気な姿見てたらもう……なんというかダメ。ダメです。ほんとエロい。セックスアピール全開だしあれで勃たないとか主人公絶対インポでしょインポだったわごめん。筆者は違うけど。ビンビンでしたけど。いやよく考えたら主人公もやってたわ。天の光はすべてイクちゃんです。なんなら『ぬきたし』の光全部イクちゃんまである。お願いだからイクちゃんに愛を、愛をあげてくださいFDに貢ぎますからお願いします。

 

というわけで、抜きゲーみたいな島に住んでるイクちゃんはどうすりゃいいですか? どうすればイクちゃんが報われるのか考えながら、今日も眠りたいと思います。みんなもイクちゃん、よろしくね。

 

驚愕の完成度 2018年のマストプレイ【『みにくいモジカの子』プレイ感想<ネタバレ配慮>】

本稿はニトロプラスの最新作『みにくいモジカの子』の感想だ。ネタバレには極力配慮しているが、情報をまったく仕入れない状態でのプレイを所望している人は念のため気を付けて読んで欲しい。

 


 

作品概要

・かなり特殊な画面構成とルート分岐の方法を持つニトロプラスの最新作

・伝奇モノに近い部分を持つが、ジャンルを特定することは難しい

・一部にややグロ描写あり

 

ここがオススメ!

・作品全体を貫く演出プランがあり、創作物として強度がある

・プレイの幅が広く、Hシーンにも好印象

 


 

凄まじい作品だ。プレイし始めた時、話が進んで全体の骨格が見えてきた時、そして、物語を見届けきった時。そのいずれにおいても、全く同じ感想を持った。

 

『凍京NECRO』以来となるニトロプラスの最新作は、あらゆる面で衝撃的な仕上がりになっている。いや、ニトロプラスの作品なのだから、全方位に対し尖っているのは戦前から分かりきっていたことではある。しかし、それにしても『みにくいモジカの子』(以下『モジカ』)は発射点から着地点までその軌道含めて何一つ予測させることなく私たちの前に舞い降りたように思われる。

 

余裕があれば、体験版を開いてみて欲しい。開始5分で嫌悪感から頭痛がしてくること間違いない。冒頭の段階で作品の側がプレイヤーを選別しにかかっているかのようにすら思えてくる。嫌悪感の方向は違えど『沙耶の唄』を彷彿とさせるほどだ。

 

その上、いつまで経ってもテキストボックスが現れない。常にテキストは画面のど真ん中に表示されている。かわいい女の子の顔も全く見えてこない。果たして自分は今何をプレイしているのか分からなくなる。

 

画面構成(と仮に名付けておこう)の段階で既存のエロゲの枠で測られることを拒否している『モジカ』は、ルート分岐の方法も特殊だ。その特殊なルート分岐の方法も、何一つ説明されない。ユーザーフレンドリーという言葉の対極にあるかのような、来るもの拒み去るもの拒まずという表現がしっくりくる、まるで孤高の女性のようなゲームだ。

 

しかし――いや、だからこそ、と繋げた方が適切だろうか――、その分『モジカ』は骨太だ。咀嚼しても咀嚼してもまるで砕ける気配がしない。押しても引いてもびくともしない、まるで一つの建築物のような存在感と重みがある。

 

それもそのはず、この作品は骨組みがしっかりしているのだ。全体を従える大きな大きな演出プランが存在することに、おそらくすぐ気が付くだろう。普通のエロゲとは違う部分のほとんどはその演出プランが発露しているに過ぎない。その一方で、そうした演出プランや付随する前衛的な表現は、これまでのエロゲを踏まえた、いわば歴代のエロゲの産物であることにも、じきに気が付くと思われる。『モジカ』は、決して奇異なだけの作品ではない。むしろ、エロゲの特性をよく理解している。

 

上で挙げた、画面中央に表示されるテキストについて、少し考えてみよう。なぜ、ニトロプラスはこれまでの画面下部に表示されるスタイルを採用しなかったのだろう。

 

理由はいくつか考えられるところだ。一つには、この作品が明確に一人称視点を意識したゲームである、というところに求められるだろう。『モジカ』は、昨今流行りのVRアダルトビデオのごとく、徹底して一人称視点にこだわりを持ったソフトなのだ。もちろん、普通のエロゲも主人公の一人称視点で原則画面が移り変わっていく。しかし、エロゲはしばしば、たとえばCGのアングルの都合などで一人称視点が崩れる。その点、『モジカ』はあるワンシーンを除いて全て一人称視点だ。Hシーン含めて常に私たちの目は主人公の目と一致する(逆に言えば、その一人称視点が崩れる一瞬は、物語にとって決定的な瞬間である)。

 

一人称視点にこだわるならば、テキストは半ば必然的に画面中央へと移動せざるを得ない。なぜならば、画面下部にテキストが存在する限り、私たちプレイヤーの目線は画面の足元へ足元へと引っ張られるからだ。すなわち、いつまでも主人公の視界とプレイヤーの視界が一致しない。それではダメだったのだ。

 

では、もう少し掘り返して、なぜわざわざ一人称視点にこだわったのか、という疑問も考えてみよう。この作品が自称する「心身視姦ADV」が示すとおり、『モジカ』は「見る」という行為を作品の根幹に据えている。「誰が」「何を」見るのか、ということに意識を向けた作品ならば、視点へのこだわりは半ば当然のものとして立ち現れてくる。

 

このように、ある表現やギミックは、思いつきで投入されたものではなく、全て一つの樹の中にあるものなのだ。

 

面白いのは、そうした「相手の思考を『見る』」というコンセプトすら、あるいはエロゲの文脈を押さえたものなのかもしれない、という点だ。エロゲでは、ヒロインの心情を描写するため、頻繁に主人公がいないはずの空間での会話や、主人公が到底知り得ないヒロインの思考が頻繁に文章化される。明確に視点人物がずれることもあれば、なあなあで済まされることもあるが、これはエロゲ以外の文章ではまずほとんど見られない表現だ(参考までに、エロゲ出身のライターはこれを他のメディアに応用することがある。たとえば、丸戸史明ライトノベル冴えない彼女の育てかた』では、章の頭に視点人物が通常と異なることを明記した上で話を進めている箇所が本編中いくつか見受けられる)。

 

ヒロインの心情まで把握できてしまう私たちプレイヤー(主人公ではない)とはいったい何者なのか…… ゼロ年代評論ではこのようなことも若干話題になった。ニトロプラスは、意図してか無意識にか、ヒロインの思考を「見る」ことができるという設定で、これまでのエロゲの文脈を踏まえながら、プレイヤーと主人公の垣根を取り払うことに成功している。

 

このように、『モジカ』は決してエロゲの埒外にいるわけではない。だが、私たちはたとえその事実に気付こうとも、そんなことを頭の片隅にもとどめておけない。その設定から繰り出される物語も強烈だからだ。

 

このシナリオは、おそらく多くの作品(エロゲに限らない)を参考にした上で執筆されたはずだ。まずもって、「モジカ」という能力名がそれを示唆している。カタカナで表記されると気づきにくいが、本編が始まって間もなく、モジカとは文字化のことだと言及された段階で、ある高名な小説を思い浮かべる人も多いだろう(余談だが、『モジカ』本編のシナリオ中にはある漢字がただの一度として出てこない。そのこだわりに敬意を表する。参考までに、逆に「渦」という字は印象的に用いられていることをここで指摘しておきたい)。

 

そうでなくとも、そもそも『みにくいモジカの子』というタイトルすら、童話『みにくいアヒルの子』のパロディーであることは明らかだ。そして、この「みにくい」という言葉が、作品を読み解く鍵になっていることにも注意を払いたい。みにくいアヒルの子は、やがて美しい白鳥へと育っていく。では、みにくいモジカの子は…… というのはネタバレになるから控えておこう(もちろん、『~アヒルの子』をそのままなぞるわけではない)。

 

それら多くの作品を裏支えとしながら、『モジカ』は容赦なく主人公を、そしてヒロインを追い詰めていく。醜い真実と甘美な嘘、あるいは醜い嘘と甘美な真実の狭間で、主人公は幾度となく破滅を経験する。エロゲ(特に萌えゲー)において死が厭われるようになって久しい――それこそ泣きゲーにおいてすら――が、『モジカ』は躊躇わない。伝奇モノの特性を活かしながら、『モジカ』は死よりも悲惨な現実を突きつけては、プレイヤーごと主人公をどん底へと落とし込む。私たちは、自分で「見る」か「見ない」かを選択しなければならない。その決断の結果がどのようなものであれ、自らの行為の帰結として受け入れなければならない。脱落者を多く生むであろう冒頭パート以上に辛い物語が幾つも用意されているが、それを「辛い」と感じるのは、畢竟決断の責任をプレイヤー自身が負っていると感じるからだ。没入感の高い一人称視点の合わせ技もあって、設定と物語が組み合わさった力強い作品の脈動が、そこに生まれている。

 

物語が残酷なら、その中で繰り広げられる性行為も過酷だ。クリア後に参照できるライナーノーツで「本気のエロゲ―」と表現されたとおり、あらゆるプレイが私たちを、そしてヒロインを待ち受ける。CGの完成度も高く、好みが合えば何度も見返すことになるだろう――そのセックスがいかに無慈悲なものであっても。果たして本当に醜いのは誰なのか、私たちは下手をすると泣きながら自慰に耽る羽目になるかもしれない。

 

この作品のシナリオと演出の絡まり合いについて語ろうとすれば、それだけで独立に記事が書けるだろう。この文章で全く触れていない要素だけに絞っても、背景と音楽(BGM・OP・ED)がまるまる残っている。一言だけ残しておくのであれば、そうした諸要素もまた、結局は有機的に結びついて『モジカ』を構成していくのだ、とコメントしておきたい。特に、環境音を中心としたBGMは注目に値すべきで、奇妙な高周波音が鳴るなどしながらも、終わってみれば静謐な作品だったという印象を与えている点で特異だ。

 

ニトロプラスとしても環境の変化などに苦しみながら作り上げた『みにくいモジカの子』。だが、苦しみ抜いた分だけ、作品は光り輝いている。手を伸ばしても伸ばしても届かないところにまで至ってしまっていて、さながら星のような仕上がりだ。真実を見続けたその先に、あなたは何を見つけるだろうか。作品に打ちのめされないよう注意しながら、とにかく手に取ってみて欲しい。怪物の誕生を祝いたい。

 

バーチャル受肉する私たち

数日前、こんな記事がtwitterのTLに流れてきた。

 

panora.tokyo

 

バーチャルYouTuberが世間を賑わせるようになって、もう半年ほど経つだろうか。初めて私がその存在を認知したのは、2017年の暮れだった。実際には、かなり前からバーチャルYouTuber、あるいはプロトバーチャルYouTuberは活動していたそうで、己のアンテナの低さを思い知らされるが、実際問題ネット上で、そしてお茶の間にその活動が知られていくようになった時期も、おおよそ去年末であったように思う。

 

その半年の間に、随分とバーチャルYouTuberの数も増えた。上の記事は、その証拠だと言えるだろう。

 

上のニュースに触れたのとほぼ同じ頃、知人のバーチャルYouTuberオタクから、私は熱心な「布教」を受けた。かなりの熱量と知識量を披露してくれたので、その内容は(申し訳ないが)あまりよく覚えていない。もちろん、紹介された動画のうち幾つかは見た。しかし、如何せんその知人が見繕ってくれたバーチャルYouTuberの数が多すぎた。これほどまでに人を熱狂させるバーチャルYouTuberとはなんなのか、と、彼らに関心が向くきっかけにはなったのだが。

 

そんな長大なバーチャルYouTuber「布教」録の中で、私が唯一、しかと記憶している箇所がある。残念ながら、具体的な動画でもチャンネルでもない。それは、バーチャル受肉という表現だ。

 

聞けば、バーチャル受肉という表現は、ことバーチャルYouTuber界隈ではさほど珍しい表現でもないらしい。あるバーチャルYouTuberが機材一式やモデリングを揃え、初めて私たちの前に姿を現す、その行為のことをバーチャル受肉というようだ。

 

受肉、か……。この、界隈ではありふれた、しかし世間一般的には新語の部類に入る表現を初めて知った時、私はそうため息をついた。

 

ため息の理由を考える上で、まず、バーチャル、という単語を整理しておきたい。もちろん、これは英語のvirtualをカタカナ表記したものだ。カタカナ語・外来語と英語の間には幾何かの溝があることを承知で、敢えて英語の意味から考えてみようと思う。

 

現在のカタカナ語に存在する単語・バーチャルは、ほぼその用途がサイバー関係に限定されている。しかし実際には、英語のvirtualはもう少し意味の広い単語である。OED(Oxford English Dictionary)のオンライン版で、virtualの語を引いてみた。幾つもの死語いや死意味と専門用語としての使い方に埋もれて、まず出てくる見出しは以下のようなものだった。

 

4. a. That is such in essence, potentiality, or effect, although not in form or actuality. In later use also: supposed, imagined.

 

(Oxford English Dictionary Online. Last View: 7/16/2018)

 

Not in form or actuality…… この辺りがどうにも、私たちが現在知るバーチャルという単語の土台になっていそうな部分だ。だが、OEDが続けて掲載する意味は、もう少し違った視点を私たちに提供してくれる。

 

4. b. That may be so called for practical purposes, although not according to strict definition; very near, almost absolute.

 

(Oxford English Dictionary Online. Last View: 7/16/2018)

 

文脈にもよるが、日本語では「事実上」くらいの訳がはまることが多いだろう。厳密にそうだとは言えない、断言はできないが、実態としては~~である、というニュアンスを含んでいる。

 

初めてコンピュータの世界にvirtualの語を持ち込んだ人が、どのような意味を念頭に置いていたのか、そのことを窺い知ることのできる資料は少ないか、存在しないだろう。あくまで文脈や語が指し示す事物から判断するよりなく、多分に読む人の主観が入ってしまう。とはいえ、それではあまりに無責任なので、一応もう少し解説を並べておく。OEDが示すところによれば、virtualの語が初めてコンピュータ関連の文脈で用いられたのは1959年、virtual memoryの並びで出現したとのことだ。今のバーチャルYouTuberに繋がるvirtual realityの用例として持ち出されているのは1979年(see Virtual Reality of OED)のもの。後者の例に限って言えば、ダブルクォーテーションで区切られており、また「『バーチャルリアリティ』へとユーザーを移住させる」との文脈であるから、上掲4. b の意味に近いのかもしれない(断言はできない)。

 

ともあれ、そうした語が日本に流入し、カタカナ語となって、受肉という言葉と結びついたのだ。すなわち、バーチャル受肉とは、少々ややこしいが、「仮想」空間(「バーチャル」リアリティ)上において、「事実上」(「バーチャル」に)受肉する行為である。

 

ここまで踏まえた上で、今度は受肉の方を探ってみたい。

 

受肉――耳慣れない表現だ。この言葉にピンとくるのは、キリスト教徒の方だろう。神が人の形を取った、その瞬間あるいは行為のことを受肉と表現する。キリスト教に限らず、基本的に、神(あるいはカミでも霊でもよいが)は肉眼で捉えることができない。神の側が私たちに見えるようはからってくださらないと、どうにもならないのだ。だから、神は私たちに分かりやすいよう、もっぱら人の姿を取って現れる。本来肉体に縛られない存在が肉を纏う、これが受肉という言葉の基本的なコンセプトだ。

 

翻って、バーチャル受肉はどうだろうか。バーチャル受肉を通して、あるバーチャルYouTuberは、初めて概念から具体的な姿形を伴うようになる。文字どおり架空の存在だった、名前だけを持つバーチャルYouTuberは、このバーチャル受肉を経て、ようやく本当に「バーチャル」な=ほぼ実在している存在になることができるのだ。

 

面白いのは、そのバーチャルYouTuberの器のことをなんと言うか、という問題の方だ。一般に、これを人はアバターと呼ぶ。もちろん、どのような図像にするか、ということに焦点を合わせるのであれば、モデリング、と表現することもあるだろうが、そのモデリングが動く様まで視野に入れるのであれば、基本的にアバターと呼称する。

 

このアバターも、映画を引き合いに出すまでもなく、もちろん英語が由来だ。もう一度、OEDの力を頼ってみよう。

 

1. Hindu mythology. The descent form of a deity to the earth in an incarnate form.

 

2. Manifestation in human form; incarnation.

 

(Oxford English Dictionary Online. Last View: 7/16/2018)

 

もとはヒンドゥー教の用語で、神の姿(形態)の一つ。そこから派生して、「incarnation」の意味を持つ。この「incarnation」の最も一般的な邦訳こそ、「受肉」なのである。

 

サイバースペースにおけるavatarの意味(すなわち、カタカナ語アバターの意味)は、2008年になるまでOEDに追加されなかった(オンライン版では今でもdraft addition扱い)。Avatarという語を耳にして、英語圏の人々が真っ先に思い浮かべる意味は、上記のようなものだったということだ。

 

アバターそのものに受肉のニュアンスがあるのであれば、いくら日本人が元の意味を十分に咀嚼することなく単語を移入していたにせよ、私たちはもっと早くにバーチャル受肉という言葉を創造し得ていたはずだ。広く言えば、たとえば任天堂のMiiもアバターの範疇に入る上、それ以外にもアバターを作る機会は、ネットに精通しているわけでもない一般人にすらかなりあったはずだ。しかし実際には、バーチャル受肉という言葉は、正確にいつどこで発生したかこそ不明だが、少なくともつい最近になるまで人々の耳にそう入るものではなかった。これはなぜだろうか。

 

ここに、incarnationではなく、受肉という言葉が日本人に与えるイメージというものが現れている気がする。カタカナ表記のインカネーションではなく受肉という言葉で表現されると、私たちはどうしても肉という文字を意識してしまう(正確には、incarnationやincarnateにもcarne(a)の部分に肉の意味が入っているのだが、それを意識する機会は日本人はもとよりネイティブでもあまりないだろう)。

 

そう、肉なのである。これまでのアバターは、いかにアバター=「化身」であるといっても、所詮肉を感じさせてくれるような代物ではなかった。大抵は、頭部が極端に肥大化した、特定の動作を繰り返し行うだけのものだった。アバターがどう行動するか観察するゲームだった「トモダチコレクション」ですら、私たちに肉の実感を与えてくれることはない。

 

バーチャルYouTuberは、あるいは発展しつつあるVR空間での「アバター」は、つまるところそれまでのアバターと決定的に異なるところがあった、ということなのだろう。たとえば、モーションキャプチャーを用いた即時性・即興性の高い身体表現。あるいは、それを用いた生放送という形式でのコミュニケーション。さらに言えば、それを前提としたモデリング。そうした全てが、見る側にも操作する側にも肉の実感を与えているからこそ、私たちはバーチャル受肉という表現を作り受け入れることができた。

 

これまでのアバターに特徴的だった、プログラムされた行為、ではなく、より私たちの身体の動きという行為を反映できるプログラム、そして、そのプログラムによる出力が可能とする新しくて馴染み深いコミュニケーションこそが、今のバーチャルYouTuberを際立たせているのではなかろうか。

 

実際には、自らの思ったとおりに、自然に動かせるという側面だけでは、肉を語り切ることはできない。そこに、触覚というものが入ってこなければ、肉は肉たり得ない。その意味で、すなわち、仮想空間上で触れた何かを生身の肉体に還元することができないという意味で、今のアバターにはまだバーチャル受肉という言葉が相応しいのかもしれない。しかし、今後、そうした技術が生まれ、真の意味で「バーチャルな」=「事実上の」肉体が仮想空間上に存在できるようになった時、私たちはそれをバーチャル受肉と表現しているだろうか。あるいは、神が私たちの指先に宿ったかの如く、単に「受肉」と言い表すのだろうか。その答えは、今の私たちが知り得るところではない。

 

しかし、どちらにせよ、今の私たちの手元には、バーチャル受肉という言葉がある。まだ、機材やノウハウの観点から、世間一般の人が気軽にバーチャル受肉できるわけではない。しかし、技術として確立した以上、それらが下流へと降りてくるのも時間の問題だろう。そうなった時――すなわち、アバターが単なる記号の集積から肉を想起させる何かとなって蔓延るようになった時、私たちはそれが引き起こす変化をどう受け入れるのだろうか。もう、そんなことを大真面目に考えなくてはならない場所=未来までvery nearな地点へと、技術も私たちの世界も到達してしまった。今の私たちはバーチャル受肉しつつある存在だ、と自覚することが肝要なのだと感じる。

 

冒頭で書いた、私のため息。それは、技術の進歩の早さと、来たる未来の双方に思いを馳せた上で出てきた、多少は前向きなものだった。

 

出典

PANORA(2018). 【速報】バーチャルYouTuberが4000人突破 チャンネル登録者数は1270万人、動画再生数は7億2千万回に。 URLは上記リンク参照. 最終閲覧火2018年7月16日.

Oxford English Dictionary Online. Oxford University Press. 個人での閲覧にはサブスクライブが必要.

 

「恋する乙女」に不可能はあるか? 【『まおてん』プレイ感想<ネタバレ有り>】

この記事は『まおてん』のプレイ感想だ。ネタバレを多大に含むので、プレイ予定のある人はこちらのネタバレなしの記事をどうぞ。

 


 

90年代から00年代にかけて起きた、いわゆる「セカイ系」ブームは、今でも至るところにその影響を与えている。もちろん「セカイ系」という言葉一つでまとめるのはやや乱暴なのだが、しかし一方で、個人が媒介項を挟まぬまま大きな「セカイ」と向き合うような作品が目立ったのも事実なのではなかろうか。一般には、鬱屈とした世の中や窮屈な人間関係に嫌気が差した人々の願望が込められた作品群であるかのように扱われている――個人的には、その源泉はさておき、特に00年代に入ってからのいわゆる「セカイ系」を個人と「セカイ」の対峙として読み取るのであれば、ネットワークと個人という視点が重要なのではないか、と考えているのだが。

 

とにかく、既存の共同体という枠組みが崩壊し、なんと言おうと個人が「セカイ」と向き合わねばならなくなったのがその頃だ。「セカイ」を左右するほどの大きな力がこの手にあった時、私たちは何を考え、どう行動するだろうか。人類のため、「セカイ」のため、私たちは動くことができるのか? そうした種々の疑問は、この20年の間ずっと語り続けられてきたと言ってよい。

 

もっとも、最近は大きな力でこの世を変えるというよりは、大きな力を持ったまま別世界に飛ばされる方がブームなのだろう。あの頃よりもさらに虚構が接近し、今や異世界は私たちの隣にまで迫ってきた。私たちは今や、力の行使に葛藤を覚える必要がないような世界にまで飛び立つという選択肢を手に入れた。そんな世界では、平和な日々を送るにせよ世界を救うにせよ、自らの思いどおりに事物の在り方を変化させていくことができる。

 

他方、陰鬱な世相はポップカルチャーにもう一つの流れを生み出した。これまでずっと当たり前にあると思い込んでいた「日常」は実は貴重なものなのだと気づかされた私たちは、アニメやゲームの世界においてすらそうした要素を求めるようになった。こちらも、もちろん『サザエさん』まで遡ることができるアイディアではあるが、一般に現在「日常もの」と呼ばれるようなアニメやマンガの直接的なルーツを求めるとすれば、「セカイ系」と同じような時期か、あるいはもう少し後の作品に行き着くことになるだろう。

 

いわゆる「日常もの」では、時間の流れが非常にゆっくりか、あるいは存在しない。「サザエさん時空」とも称される、いつまで経っても変化の訪れない世界が展開される(余談だが、このような時空のことを「『サザエさん』時空」と名付けたあたりから、現在のいわゆる「日常もの」に同作がどのような影響を与えたのか、多少は考えることができるように思う)。私たちは、変わらないという至福を求めて、ポップカルチャーの近傍へと彷徨い出るのだ。

 

私たちは、一方で世界を都合よく変えられるような大きな力を渇望している。正確には、そのような力を直接的/間接的に行使することによって、私たちの近くでスペクタクルが展開されることを望んでいる。他方、私たちは、何一つ変わり映えのしない日常をかけがえのない宝物であると認識する自分も抱えている。永遠に繰り返される一週間があったとして、そこから脱出する必要性を感じない自分もまた、確かに私たちを形作っているのだ。

 

これまで、多くの作品で、こうした変わらない日常と、変化する世界(あるいは変化そのもの、あるいは非日常)は対比的に捉えられてきた。日常と非日常の関係を逆用した作品でも、「逆用」という表現が表すとおり、結局その対比の網に引っかかっている。

 

よくあるプロットとしては、たとえば延々と繰り返される夏休み後半から脱出しなければならない(『涼宮ハルヒの暴走』)、だとか、完璧すぎる4日間を終わらせなければならない(『Fate/hollow ataraxia』)、だとか、非日常によって擬態された日常がギミックとして用いられるものがある。このような作品では、最初から主人公が繰り返される日常に危機感を覚えるか、あるいは日常を享受しながらも、それを終わらせるという決意を強く印象付けるシナリオが用意されている。このような筋書きでは、一般に日常に擬態した非日常の方に力点が置かれているのであって、主人公は宿命的に「日常」を完全肯定できない。すなわち、日常の皮を被った「日常」を使っても、日常と非日常は同居できない。

 

『まおてん』が流行のラノベ然とした設定を持ち込んだ上で挑戦したのは、この日常と非日常という対比の切り崩しだった。『まおてん』は、まず最初に完全なる無変化は存在し得ないことを立証した上で、日常概念を問い直そうとする。

 

退屈ではないが、窮屈な世界――幾度となく繰り返される言葉だ。この言葉の含蓄が明らかにされるのが、グランドルートでヴィシュヌと対話する時だったというのが面白い。ヴィシュヌは、この物語の説明役を担わされたことを自覚しているかのように、主人公――いや、レンタローならぬ蓮太郎に真実を告げる。自らがそれを語ることによって起こる変化を、恒常性を核とする神が受け入れているのだ。

 

ヴィシュヌは自らの存在の矛盾を自覚している。何もないという概念が存在するようになったその瞬間、世界はその矛盾を解消すべく、真の無を消し去ってしまう。あたかも、完全なる安定は存在し得ないとでも主張しているかのようだ。

 

そう、完全な安定は存在しない――仮にこれが真だというのならば、私たちが考えている変わらない日常とは、一体なんなのだろうか。

 

永遠に終わらない日々が非日常であることは、先人たちもよく気が付いていた(上のプロット例が分かりやすい)。とはいえ、私たちは「サザエさん時空」を素直に受け入れる心の広さも持っている。こういった例を引き合いに出して考えてみると、日常とはある種の型なのだと気づかされる。特定のルーティンが存在し、その定期的かつ確約された行動をという制限を守るという条件の下、私たちは一定程度の自由が与えられている。規則的な日々の暮らしが壊されない程度の小さな物語であれば存在は許容され、暮らしにアクセントを与えてくれる。

 

日々の暮らしの中には、アクセントが入り込む隙間がある。だから、私たちは退屈しない。しかし一方で、私たちの毎日は確かに様々な条件によって規制され規定されている。だから窮屈なのだ。

 


 

次いで、日常と非日常の関係にヒントを与えるべく、ヴィシュヌは言う。彼にとっては、アムリタがどこにあるかという天魔人界の一大事も、私たちが一歩足を進めるのも、どちらも変化という括りの中にある同種の現象だと。

 

完全な安定は存在しないし、この世界において万物は常に変化を好んでいる。なんら変わりようのないかのようにも思える日常ですら、実は中身が少しずつ変化している。そう、そもそもの問題として、日常=不変と非日常=変化という図式そのものが間違いなのだ。

 

しかし、だからと言って、『まおてん』は「変わらないものなどないからこそ日々が、そして一瞬一瞬が愛おしい」とは明言しない。そのような安易な結論は、この作品の求めたところではなかった。

 

一度『まおてん』のあらすじを確認しておこう。ある日、破壊神をその身に宿した魔王がバカンスのために人界へやってきた、というのが物語の出だしだ。落ち着いて考えずとも、こんなことが日々の暮らしの中に潜むアクセントであるわけがない。これはむしろ、日々の暮らしを定める種々のルールを文字どおり破壊し再構成していくレベルの現象だ。

 

それまでの日常を破壊する、すなわち、それまでの日常では想定していなかった現象であるから、仮にこれを「非日常」としておこう。では、この「非日常」はいつまで続くのか。答えは自明だ――ほとんど続かない。仮にあそこから、破壊神が復活し世界が再び創世の時を迎える、というような話になれば、まさに「非日常」が連続する(続く、ではない)毎日になっただろう。しかし、現実には魔王は急速に人界に馴染み溶け込んでいった。すなわち、魔王が現れたことによって日常を規定するルールが再構築されたものの、その再構築のスピードは思いの外速かったということだ。

 

世界は、急速に日常を再構築する弾力を持ち合わせている。たとえ超巨大未確認生物が首都を急襲しても、世界は、そしてそこで生きる私たちは、それを織り込んで新たな日常を作り上げていくだけだ。これが日常のしたたかさだと断言してもいい。私たちと私たちの住む世界はしたたかな日常に縛られ続けている。その一方で、私たちもまた、日常に対し急速に適応するだけの能力を持ち、かつ「変わらない」日常を指向する気持ちを抱いている。

 

私たちが窮屈な日常の中で非日常いや「非日常」を求められるのは、この世界の持つ「非日常」への弾力と私たち自身の持つ日常への適応能力を信じているからではないのか。世界が崩壊するのは嫌だが、世界はそんじょそこらのことでは崩壊しない。そう確信しているから、私たちは「非日常」を求められる。

 

完璧に安定した日常は存在しない。日常とは許容された幅の内側のことであって、その幅に収まる範囲であれば多少は振れることが許される。あるいはここに、時間の不可逆性を付け加えてみてもいいだろう。「サザエさん時空」を対照として引き合いに出すまでもなく、私たちの日常は、時間という目に見えない流れの中にあるため、決して不変ではいられない。まったく同じ行為を行ったとしても、行った時間が違うからだ。時間のせいで私たちはそもそも不変の日常を送ることができない上、日常には振れ幅がある。しかし、それを本能的に理解していてなお、私たちは時たまに窮屈な日々から脱出しようとする。

 

『まおてん』が流行のラノベのような設定を採用したのは、この辺りに理由があるような気もする。繰り返しになるが、最近のラノベは、さらに過激な設定を持つことが多い。この世界に闖入者が現れるのではなく、この我が身が別世界へと飛ばされてしまう、という。そこで、私たちは価値観の違いや生活様式の差異を、時にはチートパワーであちらの世界のルールの方を塗り替えながら乗り越えていく。それでも、最終的には「非日常」は新たな日常の中へ収束していき、主人公も結局は新たな日常に取り込まれていく。

 

なんともおかしな話だ。ルールの側を変えるほどのチート能力を手にしていながら、最終的にはルールの中へ潜り込んでいくのだから。ここに、先ほどから長々と考察してきた、私たちのワガママな点が垣間見える。私たちは、変化したくもあり、したくなくもあるのだ。時に日常のアクセント以上のものを求めながら、私たちは結局窮屈な日常に溶け込むことも好む。昨今のラノベは、この人間のワガママな性格をよく反映している。

 

大半のラノベがそのような想像力の産物である一方で、この作品はその想像力に自覚的だった。この一点こそが『まおてん』の成功を確約したと言ってもよいのではないか。その日常と「非日常」の関係と私たちの想像力に気が付き主題に据えられたからこそ、あのようなプロットが成立したのだから。

 

私たちは、窮屈な日常から一瞬解き放たれ、すぐに新たな日常の中へ戻っていく。なんら変わっていないように見えて、その新たな日常は、以前の日常を壊した何かを織り込むことで変化している。新たな日常は、振れ幅が多少変わっているのだ。元に戻ることは決してない――時間という制約がついて回るが故に。しかし、それが問題となることは滅多になく、ただひたすら、その日常と日常の更新が続いていく。それが、日常と「非日常」の関係性なのかもしれない。

 


 

どの程度の変化を自発的に起こすことができるかは、その人(あるいは天使、魔族、そして神)によって異なる。梨多が言うように、自分が変わるか否かというのも重要なファクターだ。しかし、私たちは一人で生きているのではない。たとえば、魔王がやって来た、天使が一人増えた、スライムが悪事を働き始めた、因縁の相手が島に戻ってきた、などなど、周りの存在によって起こされる日常の変化もまた無視できない。敢えてやや分かりにくい言い方に換言すると、私を規定する日常を規定するのは、私個人だけではなく、周りとの関係性、あるいは周りの存在それ自体含みのもっと大きな何かなのだ。

 

そんな中で、アムリタは、まさにラノベ主人公級の大きすぎる力を手にしていた。自らが思えば、全てを変えられる存在としてそこにあった。

 

彼女は(正確には、ある時空における彼女は)、最終的にその力を手放す決断をする。なぜだろうか。大きすぎる力に嫌気がさして隠居する、というのは最近のラノベでたまに見られるプロットではあるが、そんなラノベでも、卓越した能力は捨てていないことが多い。せいぜい、衰えたか退化したかくらいのものだ。アムリタの場合、その辺の勇者など比較にならないほどの絶大な能力を持っていたはずだ。なぜ、保険もなしにその力をリリースしたのか。

 

それこそが、ヴィシュヌの言うところの「乙女心」が為した業だったのだろう。アムリタは、変化したくもあったし、変わりたくないという思いも抱いていた。アムリタは神の力を捨て、人間として生きることを選んだ。それはすなわち、誰がなんと言おうと自分で「非日常」を引き起こし日常の枠組みを変化させる能力を捨て、周りとの関係の中に身をうずめる、ということだ。彼女からしてみれば、不確定な世界へ飛び込む、という意味合いもあったかもしれない。

 

自分一人が決定的な力を握っているわけではない世界――彼女は結局、変わるか、変わらないか、とぃう判断を、自分一人で下すことをやめたとも言える。同じ日常の中で生きるのであれば、その日常の枠組みを自分一人で決めるのではなく、周りの存在との関わりの中で構築していく方を好んだ。

 

非力な私たちからすれば、魔が差したとしか思えない考えだ。しかし、真に人として(あるいは魔族として、天使として。すなわち、神でない存在として)生きるとは、そういうことではないのか。あくまで、周りとの関係性の中で、日常の中で生きていく。それがいかに窮屈であっても。

 

大半のラノベは、この結論に辿り着かない。それは、ラノベの出来が悪いからではない。ひとえに、前述の想像力を自覚していないから、というだけだ。『まおてん』は、そのことに気が付いていたが故に、恋するギャルを使ってこの結末を作り出すことができた。

 

ヴィシュヌは、そんな「恋する乙女」の比喩を用いながら、少しずつ、人間とはなんなのか解きほぐしていく。「恋する乙女」は、大抵自分だけで何かを決めることができない。あくまで、周りや日常と相談を重ねなければならない。その上、変わるか、変わらないか、気持ちは間を揺れ動く。変わっても、すぐにまた変わり映えのしない毎日に吸い込まれていく。

 

しかし、逆に言えばこういうことだ。「恋する乙女」には、自分の一存だけで決められない不確定な事柄が山のようにある。この世には、不可能なことだらけのようにも思える。しかし、仮に「恋する乙女」が逸脱を犯したとしても、最後のところで彼女は日常へと回帰することができる。逸脱した存在をある枠組みへと引き込む弾力が世界にはあり、「恋する乙女」もまた、十分に適応する力を持っている。しかもその適応力は自分だけが持つ特殊スキルではない。周りの誰もが持っている普遍的な能力だ。「恋する乙女」は、だから不確定なこの世界に、不確定な周りとの関係に精いっぱい甘えることができる。

 

そうであるなら、敢えてこう言おう。「恋する乙女」には不可能なことだらけだが、彼女たちはその不可能に怯えてはいない。窮屈だが退屈でない世界を愛する理由は、ここにある。