Mashiro Chronicle

長文をまとめる練習中 割となんでも書く雑食派

バーチャル受肉する私たち

数日前、こんな記事がtwitterのTLに流れてきた。

 

panora.tokyo

 

バーチャルYouTuberが世間を賑わせるようになって、もう半年ほど経つだろうか。初めて私がその存在を認知したのは、2017年の暮れだった。実際には、かなり前からバーチャルYouTuber、あるいはプロトバーチャルYouTuberは活動していたそうで、己のアンテナの低さを思い知らされるが、実際問題ネット上で、そしてお茶の間にその活動が知られていくようになった時期も、おおよそ去年末であったように思う。

 

その半年の間に、随分とバーチャルYouTuberの数も増えた。上の記事は、その証拠だと言えるだろう。

 

上のニュースに触れたのとほぼ同じ頃、知人のバーチャルYouTuberオタクから、私は熱心な「布教」を受けた。かなりの熱量と知識量を披露してくれたので、その内容は(申し訳ないが)あまりよく覚えていない。もちろん、紹介された動画のうち幾つかは見た。しかし、如何せんその知人が見繕ってくれたバーチャルYouTuberの数が多すぎた。これほどまでに人を熱狂させるバーチャルYouTuberとはなんなのか、と、彼らに関心が向くきっかけにはなったのだが。

 

そんな長大なバーチャルYouTuber「布教」録の中で、私が唯一、しかと記憶している箇所がある。残念ながら、具体的な動画でもチャンネルでもない。それは、バーチャル受肉という表現だ。

 

聞けば、バーチャル受肉という表現は、ことバーチャルYouTuber界隈ではさほど珍しい表現でもないらしい。あるバーチャルYouTuberが機材一式やモデリングを揃え、初めて私たちの前に姿を現す、その行為のことをバーチャル受肉というようだ。

 

受肉、か……。この、界隈ではありふれた、しかし世間一般的には新語の部類に入る表現を初めて知った時、私はそうため息をついた。

 

ため息の理由を考える上で、まず、バーチャル、という単語を整理しておきたい。もちろん、これは英語のvirtualをカタカナ表記したものだ。カタカナ語・外来語と英語の間には幾何かの溝があることを承知で、敢えて英語の意味から考えてみようと思う。

 

現在のカタカナ語に存在する単語・バーチャルは、ほぼその用途がサイバー関係に限定されている。しかし実際には、英語のvirtualはもう少し意味の広い単語である。OED(Oxford English Dictionary)のオンライン版で、virtualの語を引いてみた。幾つもの死語いや死意味と専門用語としての使い方に埋もれて、まず出てくる見出しは以下のようなものだった。

 

4. a. That is such in essence, potentiality, or effect, although not in form or actuality. In later use also: supposed, imagined.

 

(Oxford English Dictionary Online. Last View: 7/16/2018)

 

Not in form or actuality…… この辺りがどうにも、私たちが現在知るバーチャルという単語の土台になっていそうな部分だ。だが、OEDが続けて掲載する意味は、もう少し違った視点を私たちに提供してくれる。

 

4. b. That may be so called for practical purposes, although not according to strict definition; very near, almost absolute.

 

(Oxford English Dictionary Online. Last View: 7/16/2018)

 

文脈にもよるが、日本語では「事実上」くらいの訳がはまることが多いだろう。厳密にそうだとは言えない、断言はできないが、実態としては~~である、というニュアンスを含んでいる。

 

初めてコンピュータの世界にvirtualの語を持ち込んだ人が、どのような意味を念頭に置いていたのか、そのことを窺い知ることのできる資料は少ないか、存在しないだろう。あくまで文脈や語が指し示す事物から判断するよりなく、多分に読む人の主観が入ってしまう。とはいえ、それではあまりに無責任なので、一応もう少し解説を並べておく。OEDが示すところによれば、virtualの語が初めてコンピュータ関連の文脈で用いられたのは1959年、virtual memoryの並びで出現したとのことだ。今のバーチャルYouTuberに繋がるvirtual realityの用例として持ち出されているのは1979年(see Virtual Reality of OED)のもの。後者の例に限って言えば、ダブルクォーテーションで区切られており、また「『バーチャルリアリティ』へとユーザーを移住させる」との文脈であるから、上掲4. b の意味に近いのかもしれない(断言はできない)。

 

ともあれ、そうした語が日本に流入し、カタカナ語となって、受肉という言葉と結びついたのだ。すなわち、バーチャル受肉とは、少々ややこしいが、「仮想」空間(「バーチャル」リアリティ)上において、「事実上」(「バーチャル」に)受肉する行為である。

 

ここまで踏まえた上で、今度は受肉の方を探ってみたい。

 

受肉――耳慣れない表現だ。この言葉にピンとくるのは、キリスト教徒の方だろう。神が人の形を取った、その瞬間あるいは行為のことを受肉と表現する。キリスト教に限らず、基本的に、神(あるいはカミでも霊でもよいが)は肉眼で捉えることができない。神の側が私たちに見えるようはからってくださらないと、どうにもならないのだ。だから、神は私たちに分かりやすいよう、もっぱら人の姿を取って現れる。本来肉体に縛られない存在が肉を纏う、これが受肉という言葉の基本的なコンセプトだ。

 

翻って、バーチャル受肉はどうだろうか。バーチャル受肉を通して、あるバーチャルYouTuberは、初めて概念から具体的な姿形を伴うようになる。文字どおり架空の存在だった、名前だけを持つバーチャルYouTuberは、このバーチャル受肉を経て、ようやく本当に「バーチャル」な=ほぼ実在している存在になることができるのだ。

 

面白いのは、そのバーチャルYouTuberの器のことをなんと言うか、という問題の方だ。一般に、これを人はアバターと呼ぶ。もちろん、どのような図像にするか、ということに焦点を合わせるのであれば、モデリング、と表現することもあるだろうが、そのモデリングが動く様まで視野に入れるのであれば、基本的にアバターと呼称する。

 

このアバターも、映画を引き合いに出すまでもなく、もちろん英語が由来だ。もう一度、OEDの力を頼ってみよう。

 

1. Hindu mythology. The descent form of a deity to the earth in an incarnate form.

 

2. Manifestation in human form; incarnation.

 

(Oxford English Dictionary Online. Last View: 7/16/2018)

 

もとはヒンドゥー教の用語で、神の姿(形態)の一つ。そこから派生して、「incarnation」の意味を持つ。この「incarnation」の最も一般的な邦訳こそ、「受肉」なのである。

 

サイバースペースにおけるavatarの意味(すなわち、カタカナ語アバターの意味)は、2008年になるまでOEDに追加されなかった(オンライン版では今でもdraft addition扱い)。Avatarという語を耳にして、英語圏の人々が真っ先に思い浮かべる意味は、上記のようなものだったということだ。

 

アバターそのものに受肉のニュアンスがあるのであれば、私たちはもっと早くに、バーチャル受肉という言葉を創造し得ていたはずだ。広く言えば、たとえば任天堂のMiiもアバターの範疇に入る上、それ以外にもアバターを作る機会は、ネットに精通しているわけでもない一般人にすらかなりあったはずだ。しかし実際には、バーチャル受肉という言葉は、正確にいつどこで発生したかこそ不明だが、少なくともつい最近になるまで人々の耳にそう入るものではなかった。これはなぜだろうか。

 

ここに、incarnationではなく、受肉という言葉が日本人に与えるイメージというものが現れている気がする。カタカナ表記のインカネーションではなく受肉という言葉で表現されると、私たちはどうしても肉という文字を意識してしまう(正確には、incarnationやincarnateにもcarne(a)の部分に肉の意味が入っているのだが、それを意識する機会は日本人はもとよりネイティブでもあまりないだろう)。

 

そう、肉なのである。これまでのアバターは、いかにアバター=「化身」であるといっても、所詮肉を感じさせてくれるような代物ではなかった。大抵は、頭部が極端に肥大化した、特定の動作を繰り返し行うだけのものだった。アバターがどう行動するか観察するゲームだった「トモダチコレクション」ですら、私たちに肉の実感を与えてくれることはない。

 

バーチャルYouTuberは、あるいは発展しつつあるVR空間での「アバター」は、つまるところそれまでのアバターと決定的に異なるところがあった、ということなのだろう。たとえば、モーションキャプチャーを用いた即時性・即興性の高い身体表現。あるいは、それを用いた生放送という形式でのコミュニケーション。さらに言えば、それを前提としたモデリング。そうした全てが、見る側にも操作する側にも肉の実感を与えているからこそ、私たちはバーチャル受肉という表現を作り受け入れることができた。

 

これまでのアバターに特徴的だった、プログラムされた行為、ではなく、より私たちの身体の動きという行為を反映できるプログラム、そして、そのプログラムによる出力が可能とする新しくて馴染み深いコミュニケーションこそが、今のバーチャルYouTuberを際立たせているのではなかろうか。

 

実際には、自らの思ったとおりに、自然に動かせるという側面だけでは、肉を語り切ることはできない。そこに、触覚というものが入ってこなければ、肉は肉たり得ない。その意味で、すなわち、仮想空間上で触れた何かを生身の肉体に還元することができないという意味で、今のアバターにはまだバーチャル受肉という言葉が相応しいのかもしれない。しかし、今後、そうした技術が生まれ、真の意味で「バーチャルな」=「事実上の」肉体が仮想空間上に存在できるようになった時、私たちはそれをバーチャル受肉と表現しているだろうか。あるいは、神が私たちの指先に宿ったかの如く、単に「受肉」と言い表すのだろうか。その答えは、今の私たちが知り得るところではない。

 

しかし、どちらにせよ、今の私たちの手元には、バーチャル受肉という言葉がある。まだ、機材やノウハウの観点から、世間一般の人が気軽にバーチャル受肉できるわけではない。しかし、技術として確立した以上、それらが下流へと降りてくるのも時間の問題だろう。そうなった時――すなわち、アバターが単なる記号の集積から肉を想起させる何かとなって蔓延るようになった時、私たちはそれが引き起こす変化をどう受け入れるのだろうか。もう、そんなことを大真面目に考えなくてはならない場所=未来までvery nearな地点へと、技術も私たちの世界も到達してしまった。今の私たちはバーチャル受肉しつつある存在だ、と自覚することが肝要なのだと感じる。

 

冒頭で書いた、私のため息。それは、技術の進歩の早さと、来たる未来の双方に思いを馳せた上で出てきた、多少は前向きなものだった。

 

出典

PANORA(2018). 【速報】バーチャルYouTuberが4000人突破 チャンネル登録者数は1270万人、動画再生数は7億2千万回に。 URLは上記リンク参照. 最終閲覧火2018年7月16日.

Oxford English Dictionary Online. Oxford University Press. 個人での閲覧にはサブスクライブが必要.

 

「恋する乙女」に不可能はあるか? 【『まおてん』プレイ感想<ネタバレ有り>】

この記事は『まおてん』のプレイ感想だ。ネタバレを多大に含むので、プレイ予定のある人はこちらのネタバレなしの記事をどうぞ。

 


 

90年代から00年代にかけて起きた、いわゆる「セカイ系」ブームは、今でも至るところにその影響を与えている。もちろん「セカイ系」という言葉一つでまとめるのはやや乱暴なのだが、しかし一方で、個人が媒介項を挟まぬまま大きな「セカイ」と向き合うような作品が目立ったのも事実なのではなかろうか。一般には、鬱屈とした世の中や窮屈な人間関係に嫌気が差した人々の願望が込められた作品群であるかのように扱われている――個人的には、その源泉はさておき、特に00年代に入ってからのいわゆる「セカイ系」を個人と「セカイ」の対峙として読み取るのであれば、ネットワークと個人という視点が重要なのではないか、と考えているのだが。

 

とにかく、既存の共同体という枠組みが崩壊し、なんと言おうと個人が「セカイ」と向き合わねばならなくなったのがその頃だ。「セカイ」を左右するほどの大きな力がこの手にあった時、私たちは何を考え、どう行動するだろうか。人類のため、「セカイ」のため、私たちは動くことができるのか? そうした種々の疑問は、この20年の間ずっと語り続けられてきたと言ってよい。

 

もっとも、最近は大きな力でこの世を変えるというよりは、大きな力を持ったまま別世界に飛ばされる方がブームなのだろう。あの頃よりもさらに虚構が接近し、今や異世界は私たちの隣にまで迫ってきた。私たちは今や、力の行使に葛藤を覚える必要がないような世界にまで飛び立つという選択肢を手に入れた。そんな世界では、平和な日々を送るにせよ世界を救うにせよ、自らの思いどおりに事物の在り方を変化させていくことができる。

 

他方、陰鬱な世相はポップカルチャーにもう一つの流れを生み出した。これまでずっと当たり前にあると思い込んでいた「日常」は実は貴重なものなのだと気づかされた私たちは、アニメやゲームの世界においてすらそうした要素を求めるようになった。こちらも、もちろん『サザエさん』まで遡ることができるアイディアではあるが、一般に現在「日常もの」と呼ばれるようなアニメやマンガの直接的なルーツを求めるとすれば、「セカイ系」と同じような時期か、あるいはもう少し後の作品に行き着くことになるだろう。

 

いわゆる「日常もの」では、時間の流れが非常にゆっくりか、あるいは存在しない。「サザエさん時空」とも称される、いつまで経っても変化の訪れない世界が展開される(余談だが、このような時空のことを「『サザエさん』時空」と名付けたあたりから、現在のいわゆる「日常もの」に同作がどのような影響を与えたのか、多少は考えることができるように思う)。私たちは、変わらないという至福を求めて、ポップカルチャーの近傍へと彷徨い出るのだ。

 

私たちは、一方で世界を都合よく変えられるような大きな力を渇望している。正確には、そのような力を直接的/間接的に行使することによって、私たちの近くでスペクタクルが展開されることを望んでいる。他方、私たちは、何一つ変わり映えのしない日常をかけがえのない宝物であると認識する自分も抱えている。永遠に繰り返される一週間があったとして、そこから脱出する必要性を感じない自分もまた、確かに私たちを形作っているのだ。

 

これまで、多くの作品で、こうした変わらない日常と、変化する世界(あるいは変化そのもの、あるいは非日常)は対比的に捉えられてきた。日常と非日常の関係を逆用した作品でも、「逆用」という表現が表すとおり、結局その対比の網に引っかかっている。

 

よくあるプロットとしては、たとえば延々と繰り返される夏休み後半から脱出しなければならない(『涼宮ハルヒの暴走』)、だとか、完璧すぎる4日間を終わらせなければならない(『Fate/hollow ataraxia』)、だとか、非日常によって擬態された日常がギミックとして用いられるものがある。このような作品では、最初から主人公が繰り返される日常に危機感を覚えるか、あるいは日常を享受しながらも、それを終わらせるという決意を強く印象付けるシナリオが用意されている。このような筋書きでは、一般に日常に擬態した非日常の方に力点が置かれているのであって、主人公は宿命的に「日常」を完全肯定できない。すなわち、日常の皮を被った「日常」を使っても、日常と非日常は同居できない。

 

『まおてん』が流行のラノベ然とした設定を持ち込んだ上で挑戦したのは、この日常と非日常という対比の切り崩しだった。『まおてん』は、まず最初に完全なる無変化は存在し得ないことを立証した上で、日常概念を問い直そうとする。

 

退屈ではないが、窮屈な世界――幾度となく繰り返される言葉だ。この言葉の含蓄が明らかにされるのが、グランドルートでヴィシュヌと対話する時だったというのが面白い。ヴィシュヌは、この物語の説明役を担わされたことを自覚しているかのように、主人公――いや、レンタローならぬ蓮太郎に真実を告げる。自らがそれを語ることによって起こる変化を、恒常性を核とする神が受け入れているのだ。

 

ヴィシュヌは自らの存在の矛盾を自覚している。何もないという概念が存在するようになったその瞬間、世界はその矛盾を解消すべく、真の無を消し去ってしまう。あたかも、完全なる安定は存在し得ないとでも主張しているかのようだ。

 

そう、完全な安定は存在しない――仮にこれが真だというのならば、私たちが考えている変わらない日常とは、一体なんなのだろうか。

 

永遠に終わらない日々が非日常であることは、先人たちもよく気が付いていた(上のプロット例が分かりやすい)。とはいえ、私たちは「サザエさん時空」を素直に受け入れる心の広さも持っている。こういった例を引き合いに出して考えてみると、日常とはある種の型なのだと気づかされる。特定のルーティンが存在し、その定期的かつ確約された行動をという制限を守るという条件の下、私たちは一定程度の自由が与えられている。規則的な日々の暮らしが壊されない程度の小さな物語であれば存在は許容され、暮らしにアクセントを与えてくれる。

 

日々の暮らしの中には、アクセントが入り込む隙間がある。だから、私たちは退屈しない。しかし一方で、私たちの毎日は確かに様々な条件によって規制され規定されている。だから窮屈なのだ。

 


 

次いで、日常と非日常の関係にヒントを与えるべく、ヴィシュヌは言う。彼にとっては、アムリタがどこにあるかという天魔人界の一大事も、私たちが一歩足を進めるのも、どちらも変化という括りの中にある同種の現象だと。

 

完全な安定は存在しないし、この世界において万物は常に変化を好んでいる。なんら変わりようのないかのようにも思える日常ですら、実は中身が少しずつ変化している。そう、そもそもの問題として、日常=不変と非日常=変化という図式そのものが間違いなのだ。

 

しかし、だからと言って、『まおてん』は「変わらないものなどないからこそ日々が、そして一瞬一瞬が愛おしい」とは明言しない。そのような安易な結論は、この作品の求めたところではなかった。

 

一度『まおてん』のあらすじを確認しておこう。ある日、破壊神をその身に宿した魔王がバカンスのために人界へやってきた、というのが物語の出だしだ。落ち着いて考えずとも、こんなことが日々の暮らしの中に潜むアクセントであるわけがない。これはむしろ、日々の暮らしを定める種々のルールを文字どおり破壊し再構成していくレベルの現象だ。

 

それまでの日常を破壊する、すなわち、それまでの日常では想定していなかった現象であるから、仮にこれを「非日常」としておこう。では、この「非日常」はいつまで続くのか。答えは自明だ――ほとんど続かない。仮にあそこから、破壊神が復活し世界が再び創世の時を迎える、というような話になれば、まさに「非日常」が連続する(続く、ではない)毎日になっただろう。しかし、現実には魔王は急速に人界に馴染み溶け込んでいった。すなわち、魔王が現れたことによって日常を規定するルールが再構築されたものの、その再構築のスピードは思いの外速かったということだ。

 

世界は、急速に日常を再構築する弾力を持ち合わせている。たとえ超巨大未確認生物が首都を急襲しても、世界は、そしてそこで生きる私たちは、それを織り込んで新たな日常を作り上げていくだけだ。これが日常のしたたかさだと断言してもいい。私たちと私たちの住む世界はしたたかな日常に縛られ続けている。その一方で、私たちもまた、日常に対し急速に適応するだけの能力を持ち、かつ「変わらない」日常を指向する気持ちを抱いている。

 

私たちが窮屈な日常の中で非日常いや「非日常」を求められるのは、この世界の持つ「非日常」への弾力と私たち自身の持つ日常への適応能力を信じているからではないのか。世界が崩壊するのは嫌だが、世界はそんじょそこらのことでは崩壊しない。そう確信しているから、私たちは「非日常」を求められる。

 

完璧に安定した日常は存在しない。日常とは許容された幅の内側のことであって、その幅に収まる範囲であれば多少は振れることが許される。あるいはここに、時間の不可逆性を付け加えてみてもいいだろう。「サザエさん時空」を対照として引き合いに出すまでもなく、私たちの日常は、時間という目に見えない流れの中にあるため、決して不変ではいられない。まったく同じ行為を行ったとしても、行った時間が違うからだ。時間のせいで私たちはそもそも不変の日常を送ることができない上、日常には振れ幅がある。それでも、私たちは時たまにその窮屈さから脱出しようとする。

 

『まおてん』が流行のラノベのような設定を採用したのは、この辺りに理由があるような気もする。繰り返しになるが、最近のラノベは、さらに過激な設定を持つことが多い。この世界に闖入者が現れるのではなく、この我が身が別世界へと飛ばされてしまう、という。そこで、私たちは価値観の違いや生活様式の差異を、時にはチートパワーであちらの世界のルールの方を塗り替えながら乗り越えていく。それでも、最終的には「非日常」は新たな日常の中へ収束していき、主人公も結局は新たな日常に取り込まれていく。

 

なんともおかしな話だ。ルールの側を変えるほどのチート能力を手にしていながら、最終的にはルールの中へ潜り込んでいくのだから。ここに、先ほどから長々と考察してきた、私たちのワガママな点が垣間見える。私たちは、変化したくもあり、したくなくもあるのだ。時に日常のアクセント以上のものを求めながら、私たちは結局窮屈な日常に溶け込むことも好む。昨今のラノベは、この人間のワガママな性格をよく反映している。

 

大半のラノベがそのような想像力の産物である一方で、この作品はその想像力に自覚的だった。この一点こそが『まおてん』の成功を確約したと言ってもよいのではないか。その日常と「非日常」の関係と私たちの想像力に気が付き主題に据えられたからこそ、あのようなプロットが成立したのだから。

 

私たちは、窮屈な日常から一瞬解き放たれ、すぐに新たな日常の中へ戻っていく。なんら変わっていないように見えて、その新たな日常は、以前の日常を壊した何かを織り込むことで変化している。新たな日常は、振れ幅が多少変わっているのだ。元に戻ることは決してない――時間という制約がついて回るが故に。しかし、それが問題となることは滅多になく、ただひたすら、その日常と日常の更新が続いていく。それが、日常と「非日常」の関係性なのかもしれない。

 


 

どの程度の変化を自発的に起こすことができるかは、その人(あるいは天使、魔族、そして神)によって異なる。梨多が言うように、自分が変わるか否かというのも重要なファクターだ。しかし、私たちは一人で生きているのではない。たとえば、魔王がやって来た、天使が一人増えた、スライムが悪事を働き始めた、因縁の相手が島に戻ってきた、などなど、周りの存在によって起こされる日常の変化もまた無視できない。敢えてやや分かりにくい言い方に換言すると、私を規定する日常を規定するのは、私個人だけではなく、周りとの関係性、あるいは周りの存在それ自体含みのもっと大きな何かなのだ。

 

そんな中で、アムリタは、まさにラノベ主人公級の大きすぎる力を手にしていた。自らが思えば、全てを変えられる存在としてそこにあった。

 

彼女は(正確には、ある時空における彼女は)、最終的にその力を手放す決断をする。なぜだろうか。大きすぎる力に嫌気がさして隠居する、というのは最近のラノベでたまに見られるプロットではあるが、そんなラノベでも、卓越した能力は捨てていないことが多い。せいぜい、衰えたか退化したかくらいのものだ。アムリタの場合、その辺の勇者など比較にならないほどの絶大な能力を持っていたはずだ。なぜ、保険もなしにその力をリリースしたのか。

 

それこそが、ヴィシュヌの言うところの「乙女心」が為した業だったのだろう。アムリタは、変化したくもあったし、変わりたくないという思いも抱いていた。アムリタは神の力を捨て、人間として生きることを選んだ。それはすなわち、誰がなんと言おうと自分で「非日常」を引き起こし日常の枠組みを変化させる能力を捨て、周りとの関係の中に身をうずめる、ということだ。彼女からしてみれば、不確定な世界へ飛び込む、という意味合いもあったかもしれない。

 

自分一人が決定的な力を握っているわけではない世界――彼女は結局、変わるか、変わらないか、とぃう判断を、自分一人で下すことをやめたとも言える。同じ日常の中で生きるのであれば、その日常の枠組みを自分一人で決めるのではなく、周りの存在との関わりの中で構築していく方を好んだ。

 

非力な私たちからすれば、魔が差したとしか思えない考えだ。しかし、真に人として(あるいは魔族として、天使として。すなわち、神でない存在として)生きるとは、そういうことではないのか。あくまで、周りとの関係性の中で、日常の中で生きていく。それがいかに窮屈であっても。

 

大半のラノベは、この結論に辿り着かない。それは、ラノベの出来が悪いからではない。ひとえに、前述の想像力を自覚していないから、というだけだ。『まおてん』は、そのことに気が付いていたが故に、恋するギャルを使ってこの結末を作り出すことができた。

 

そしてもちろん、ヴィシュヌが指摘するとおり、この「恋する乙女」とは、ストレートに乙女のことを指しているわけではない。「恋する乙女」は、私であって、あなたなのだ。

 

「恋する乙女」は、大抵自分だけで何かを決めることができない。あくまで、周りや日常と相談を重ねなければならない。その上、変わるか、変わらないか、気持ちは間を揺れ動く。変わっても、すぐにまた変わり映えのしない毎日に吸い込まれていく。

 

しかし、逆に言えばこういうことだ。「恋する乙女」には、自分の一存だけで決められない不確定な事柄が山のようにある。この世には、不可能なことだらけのようにも思える。しかし、仮に「恋する乙女」が逸脱を犯したとしても、最後のところで彼女は日常へと回帰することができる。逸脱した存在をある枠組みへと引き込む弾力が世界にはあり、「恋する乙女」もまた、十分に適応する力を持っている。しかもその適応力は自分だけが持つ特殊スキルではない。周りの誰もが持っている普遍的な能力だ。「恋する乙女」は、だから不確定なこの世界に、不確定な周りとの関係に精いっぱい甘えることができる。

 

そうであるなら、敢えてこう言おう。「恋する乙女」には不可能なことだらけだが、彼女たちはその不可能に怯えてはいない。窮屈だが退屈でない世界を愛する理由は、ここにある。

 

緩急自在の筆致、達人芸 【『まおてん』プレイ感想<ネタバレなし>】

短評(要旨)

 

きゃんでぃそふと(CandySoft)の最新作・『まおてん』は、イントロダクションからは想像もつかないところに着地した、驚きの作品になった。流行りのラノベを思い起こさせるキャッチ―な設定を前提にしたコミカルな掛け合いは見ていて飽きがこない。他方、いちゃラブやシリアスシーンも充実の一言に尽きる。性質の異なる話が組み合わさることで作り上げられるテンポは圧巻だ。それでいて、作品全体のコンセプトや生きとし生けるもののぬくもりが随所に感じられるのは、円熟の域に入ったライターの腕力が為せる業だと言えるだろう。

 


 

2017年末に現れた彗星・『金色ラブリッチェ』は広くエロゲユーザーに受け入れられ、一躍シナリオライターさかき傘をスターダムに押し上げた。あれから半年、『金恋』以来となるさかき傘シナリオのエロゲ、きゃんでぃそふとの『まおてん』は、またしても私たちに驚きをもたらしてくれた。

 

『まおてん』のあらすじ(イントロダクション)を読んだ人は、一瞬面食らうかもしれない。魔族、魔王、平和な日常……書店に数多陳列されたラノベの概要を煎じて煮詰めたかのような文章が並んでいる。公式サイトのゲーム概要を眺めてみると、さかき傘が書いているラノベから世界観を流用していると書いてあるので、その感触もあながち間違いではない。

 

しかし、だ。『3学期』以降の『つよきす』を支えるところから名を上げたさかき傘が、こときゃんでぃそふとの作品でそうそう平凡なシナリオを用意するわけもない。『まおてん』は、そのキャッチ―(過ぎる)タイトルと設定からは想像もできないような、極めて完成度の高い作品に仕上がった。

 

まず舌を巻くのは話のテンポのコントロール。ネットミームあり、パロディネタあり、悪ノリあり、とごった煮のようなコメディパートは怒涛の勢いでギャグが現れては消費されていく。上でリンクを貼ったアウトラインに「ドタバタハチャメチャな雰囲気」と書いてあったので多少は覚悟していたのだが、こちらの想像を上回る速度でネタが通り過ぎていった。よくもまあここまでキャラの特徴を引き出しながらギャグを回せるものだ、とその点だけでも感心する。しかし、真に驚くのはそこからほぼシームレスに繋がるシリアスシーンやいちゃラブパートとの緩急の差。テンションは滝のごとき落差で、しかしよどみがない流れを作り上げている。私たちプレイヤーを手玉に取るその手腕たるや圧巻だ。

 

もちろん、シリアスなシーンや恋愛パートそれ自体の出来栄えも素晴らしい。シリアス展開では緊迫した状況や追い詰められるキャラの感じる孤独が一文ごとににじみ出てくる。他方、ヒロインとの一対一での交流には言動の節々から相手の機微が伝わる。醸し出される雰囲気には濃厚な甘みが詰まっていて絶品だ。

 

そこまで個々のシークエンスの完成度が高いながら、シナリオのコンセプト(ネタバレになるため割愛)やキャラの抱いている相手へのぬくもりなど、話全体を貫く太い柱が随所から見えてくるのも憎い。見せ場かと前のめりになるようなド派手な戦闘シーンがやや拍子抜けで終わるのも、ヒールとしての役回りが明らかに過剰なキャラが存在するのも、シナリオを読み切ってみれば納得の措置だ。悪だくみしかしないようなキャラはたとえシリアスパートの真っただ中でも軽い筆致で描かれる一方で、物語終盤のカタルシスに関わるキャラの描写はこちらにボディーブローをかましてくる。計算され尽くされた描き分けのプランも、やはり全体を見てみないと分からないようになっている。完成度の非常に高いシナリオだ。

 

シナリオばかり話題にしているが、その他の要素もバランスがいい。エロゲとしては気になるキャラの属性振り分けも、ロリ巨乳・ギャル幼馴染み・貧乳コンプレックス義姉とメインヒロインだけでもかなり多様性がある。パッケージ裏に「女性キャラ全員攻略可能!」と謳ったように、サブヒロインの数も多く、それぞれ個性や属性がばらけている。バランスがいい分、気に入った子との絡みが少ないと物足りなさを感じる時もあるが、その他のキャラとのストーリーの完成度も申し分がなく、ゲーム全体に対し不満を抱くことはまずないだろう。

 

CGの質も高い水準でまとまっている。Hシーンについて言えばプレイの種類もかなりあるので枚数を描くことには苦労があっただろうと思われる。しかし、きゃんでぃそふとはその苦労をきちんと乗り越えて、しっかりと量・質ともにコントロールされたCGを提供してくれた。立ち絵にしても、動きが多彩で見ているだけで楽しめる。

 

全体として高水準でまとまった一本になった『まおてん』。寝苦しい夏の夜、つい目が覚めてしまった時、時間を共に過ごしてくれる良き相棒となること間違いなしだ。早くもこの夏の決定版に名乗りを上げた『まおてん』がここまでの完成度で世に出たことを、素直に喜びたい。

 

Spriteが逝った今、敢えて『あおかな』を再評価する

Spriteブランドの休止と『蒼の彼方のフォーリズム』(『あおかな』)シリーズ制作休止が発表された。

 

aokana.net

 

休止だとかなんだとか言っているが、事実上の開発断念・ブランド解散である。去る春にはスタッフの異動が報告されるなど、かなり計画的な解散だった。計画的というのは誉め言葉だ――エロゲブランドの中には活動休止報告も制作状況の更新もないまま数年単位で放置されているものも少なくない。そんな中で、一応の筋は通したSpriteは一定程度評価されるべきだろう。

 

しかし、いかに去年の冬コミが終わった辺りから死の香りを漂わせていたとはいえ、実際に「その日」が訪れると辛いものがある。世の中、なんだかんだいなくなってスッキリするエロゲブランドは少ない。何かしらの哀愁が生じてくるものだ。ましてや、それが知名度ある作品を抱えたブランドなら当然だ。

 

Spriteは2010年代に入ってから『恋と選挙とチョコレート』で登場した、比較的新しいブランドだ。だが、そのSpriteの名が世に広く知られるようになったのは、間違いなく2014年の『蒼の彼方のフォーリズム』以降だろう。いや、以降という言い方はふさわしくない――『あおかな』は、彼らの代表作にして、今や彼らの遺作となった。こうなった今となっては、『あおかな』とはSpriteである、と言ってしまってもよいのかもしれない。

 

であるならば、Spriteがその拍動を止めた今だからこそ、『あおかな』を振り返ってみるべきではないのか。今となっては、もうその程度しか私たちからSpriteへ手向ける香典がないのだから。

 


 

2014年も、もう4年前になってしまった。4年の歳月は、短いように見えて長い。当時大学に入ったばかりの若者も、もう卒論に追われているだろう。私たちは、そんな近いようで遠い過去のことを、実ははっきりと覚えていない。だから、まずは2014年を振り返るところから話を始めてみたい。

 

2014年は混迷を極めた年だった。テレビを付ければいつでも謝罪会見をしていたあの年、といえば、大多数の人が「ああ、あの年ね」と頷くだろう。そう、2014年はSTAP細胞やらゴーストライターやら号泣会見やら遠隔操作やら、まことにワイドショーの話題には事欠かない一年だったのだ。

 

正直なところ、これだけ書いてしまえば2014年の世相は描き切ったも同然である。2011年の震災の影響が少しずつ抜け始め、政府日銀的には景気の底を脱したちょうどそんなタイミングだ。混乱の中から少しずつ秩序が見え始めた――肯定的に捉えるなら、そんな年だった。

 

では、エロゲ界はどうだっただろうか。Getchuの2014年売上ランキングを覗いてみよう。

 

2018年の今になって名前を聞くソフトは、むしろランキング10位前後からの方が多いかもしれない。たとえば、この2月に堂々のシリーズ完結を迎えたアリスソフトの『ランス』第9作が発売されたのはこの年だ。エウシュリーの新作の名前も目に入るだろう。エロゲの中でもシステム面やゲーム性に定評のある大御所の名前は、売上上位ではあるものの、ランキング的には少し下の方に位置している。

 

この年の売上1位はクロシェットの『サキガケ⇒ジェネレーション!』だった。クロシェットといえば、2011年の『カミカゼ☆エクスプローラー!』でスマッシュヒットを飛ばした、アリスソフトエウシュリーに比べれば新しめのブランドだ。その他、オーガストの『大図書館の羊飼い』のファンディスクが見える。注目すべきなのは、後に『ワガママハイスペック』が世間を賑わせるまどそふとの第2作が小さく載っているところだ。クロシェットオーガスト、まどそふと…… 『PRIMAL×HEARTS』のま~まれぇどを並べてもいいし、あるいはここに、この年新作の無かったゆずソフトを加えてもいいかもしれない。そう、2014年のランキングは、キャラ萌えゲーに傾いた業界の様相をきっちり映し出している。

 

そもそも、2010年代前半、エロゲ界は混迷を極めていたと言ってよいように思う。伏線を張り巡らせ、それを回収することでカタルシスを与えるような、ノベルゲーの一つの形に対し、たとえば『G線上の魔王』や(全年齢対象だが)『STEINS; GATE』のようなマスターピースが生み出されたのが2000年代末期から2010年代頭。あるジャンルにおいて傑作が生みだされるというのは、喜ばしい反面辛い側面もある。というのも、誰もが認める傑作が誕生したというのは、そのジャンルが成熟しきったという事実を示唆する場合があるからだ。今回はそのパターンに該当したのか、2010年代前半以降、そうした作品はエロゲのメジャーシーンからは少しずつ外れていくことになる(ネットで情報を漁れば、同時期にユーザーのニーズの変化もあり、同ジャンルの売上が減少したこともうかがえるだろう)。

 

それまで、エロゲ界ではノベルゲーム、しかも上述のようなタイプのゲームが有力だった。それが売上的にもそもそものタイトル数的にも勢力を失っていく中で、エロゲ界は新たな定番を模索する段階に入らざるを得なかった。それが、2010年代前半の状況だと認識している。その中で台頭してくるのがゆずソフトでありクロシェットで、生き残ったのがオーガスト、そして勃興してくるのがまどそふとである、と書けば、もう言いたいことは伝わるだろう。

 

結局、エロゲ界はキャラ萌えゲーとしての側面を強く押し出す作品を支持した。2014年のランキングは、その傾向がほぼ固まったことを私たちに教えてくれるランキングだと言える。

 


 

ここまで長かったが、では翻って、『あおかな』はどうだろうか。売上的にはランキング10位台と中堅のポジションに収まっている。だが、作品そのものに対する評価は最上位のものを獲得した。萌えゲーアワードで大賞を獲得したのがその一番分かりやすい例だろう。萌えゲーアワードそれ自体は確かに曰く付きのイベントではあるが、『あおかな』はGetchuのユーザー投票による美少女ゲーム大賞でも総合2位となっており、世間が評価した、ということは間違いない。すなわち、売上と評価に若干の乖離が見られた作品だった、ということだ。

 

『あおかな』は、どのような面がウケたのだろうか。ゲームシステム的には、普通のノベルゲームと大差ない。後に発売されるコンシューマ版ではミニゲームが追加されたものの、オリジナル版にはそのような要素は存在せず、ただ文章を読んで選択肢をクリックするだけだ。この点で『あおかな』が評価された理由を探すことは難しい。

 

では、流行のキャラ萌え側面が強かったのだろうか? そうとも言い切れないのが難しい。キャラ萌えゲーは、海外のアニメ分類風に書くならCGDCT(Cute Girls Do Cute Things)を前面に押し出すジャンルだと言ってもよい。エロゲの文脈に置き換えると、綿密な伏線などを用意するのではなく、あまり規模の大きくない出来事と恋愛を通じ、女の子のかわいい仕草を鑑賞しながら、コミュニケーションとしてのセックスを楽しむゲーム、とまとめてもいいかもしれない(もちろん例外は山のようにある)。上の表現に語弊があるならば、こう言ってもいい。あっと驚くどんでん返しや100人中99人が号泣するような展開など長い文章を必要とする物語に注力する代わりに、(物語そのものではなく)喚起されるプレイヤーの感情の起伏は比較的小さいものの、着実にヒロインとの関係が固められていくようなエピソードを詰め込むゲーム、と。女の子とのコミュニケーションは家の中などクローズドな空間で行われるか、あるいはデートだ。そこでは、女の子が悶える仕草や恥ずかしがり屋な側面、そして想い人に懸想を掛ける純粋な心に焦点が合わせられる傾向にある。

 

『あおかな』において、こうした側面を強く持っているのは、メインを張る明日香やみさきではなく、むしろ真白の方だ。もちろん、真白の人気が一つ抜けていたところから、台頭してきたキャラ萌えゲーの勢いを感じることもできる。だが、結局真白のルートは明日香やみさきのものに比べ短い。短さに意味のあるルートでもない以上、『あおかな』の本質をキャラ萌えに求めることは難しい。

 

ここは一旦、『あおかな』のストーリーをまとめてみよう。『あおかな』は、主人公の日向晶也が、転校してきた倉科明日香と出会うところから始まる。そこで明日香は、晶也を通じて空を自在に翔け回ることのできるアンチグラビトンシューズの存在と、それを駆使した新しいスポーツ・フライングサーカス(FC)の存在を知る。晶也の腐れ縁たる鳶沢みさきとその追っかけ・有坂真白、さらには晶也のご近所さんたる市ノ瀬莉佳を巻き込みながら、元有力プレイヤーとして、晶也がFC部のコーチを務め始める、というのがおおよそのプロットだ。

 

要するに、『あおかな』は運動部を題材に取った作品だ。意外にも、こうした作品はエロゲ界では珍しい。理由としては、学園ものにおいて所属する部活はキャラの性質を決定づける極めて重要な要素だが、それゆえに部活を題材にしてしまうとキャラごとの個性を描き分けにくい、という理屈が考えられる。とりわけ運動部は、スポ根ものという形式が存在するものの、逆に言えばそれ以外の型を編み出すことが難しく、結果的に話が似通ったものになりやすい。これは、多様な女の子を取りそろえることでユーザーのニーズに応えてきたエロゲにとっては致命的だ。

 

他にも理由はあるのだろうが、とにかく、個々の女の子のうちいずれかが運動部に所属していることはあっても、主人公含め全員が同じスポーツに関わっているケースは、あまり例がない。

 

では、部活一筋の少年少女を描いたという意味で『あおかな』は特異な存在かというと、そうでもないのがややこしいところだ。『あおかな』が、FCという架空のスポーツを扱うことで成し遂げたことといえば、それは空の持つイメージを作品に重ねることだろう。空と部活、この2点を並べてみると、ある作品が頭に浮かぶ。PULLTOPが2012年に発売した、『この大空に、翼を広げて』(『ころげて』)だ。こちらは、スポーツではないが、グライダーを扱いながら空と少女を絡めている。

 

もちろん、この連想は誤った方向に議論を持っていってしまう危険を孕んでいる。PULLTOPの作品は、部活に取り組む少年少女を真摯に見つめているとはいえ、スポ根ものの類型とまでは言いづらい。対して、『あおかな』は、特にみさきルートにおいてスポ根側面が濃厚だ。努力を重ね困難を乗り越える姿を描く点は共通しているが、若干の違いがあることは頭に入れておきたい。また、Switch版『あおかな』付属の資料集によれば、『あおかな』の開発はかなり長期に渡っており、PULLTOPの作品と発案時期が被っている可能性がある。

 

ただ、逆に言えば、PULLTOPもSpriteも、同じ時期に同じようなテーマを持った作品を練り上げていた、ということでもある。『恋と選挙とチョコレート』の発売が2010年だから、『あおかな』の開発はそこまで遡らない。すなわち、パラレルに同じようなアイディアが生まれていたのだ。

 

ここで、2010年代前半がどのような時代だったか、もう一度思い出してみたい。エロゲ界は、新しいフレームワークを模索していた。キャラ萌えが決定的な王道となるのはもう少し先の、混沌とした時期。そんな中で、Spriteや木緒なちとPULLTOPが同じ結論に辿り着いたとしても、なんら不思議ではない。

 

あるいは、このソフトの列にチュアブルソフトの『あの晴れわたる空より高く』を繋げてみてもいい。奇しくも『あおかな』と同じ2014年に発売されたこの作品は、ロケット作りという途方もない事業を扱う部活が舞台の作品だ。こちらは空を突き抜けてしまったが、無謀な夢に対し愚直なまでに懸命に取り組む姿には、『あおかな』や『ころげて』に共通するものも感じられる。

 

宇宙がロマンを語るのに対し、青空は希望と未来、何より爽やかさを象徴するという違いはある。どちらも可能性を感じさせてくれる存在ではあるが、どちらかといえば青空の方が泥臭い努力に清涼感をもたらしてくれるものだ。その意味で、『あおかな』や『ころげて』は、広がる空のイメージを使い、その泥臭い努力こそが青春の爽やかさなのだ、と主張することに成功したと言えるだろう(チュアブルソフトが間違っていた、というわけではなく、方向性が若干異なった、という意味)。

 

そう、泥臭い努力に爽やかさが宿る――これが『あおかな』のコンセプトだったと言っても過言ではない。『あおかな』が、おそらくは汗にまみれた運動部の生活とは少し離れた場所にいたであろうエロゲユーザーの大多数に受け入れられたのは、スポ根ものでありながら、少年少女の爽やかな生を捉え切っていたからだ。

 

そう考えると、『あおかな』の主題が見えてくる。つまり、『あおかな』とは青春を描いた作品なのだ。

 

『あおかな』は、恋愛に従属する青春を描くわけではない。前述のとおり、デートや同棲などの恋愛要素は物語の影に隠れてしまいがちだ。『あおかな』は、むしろ、青春が包含する一要素として恋愛を扱っている。これこそが『あおかな』のユニークな点であり、エロゲユーザーに受け入れられた点だ。

 

青春とは結局なんだったのか、18歳以上の大半(すなわち、エロゲプレイヤーの大半)が一度はぶつかるこの問いに対し、『あおかな』は恋愛単体ではなくそれを含んだ日々を再現することで答えを提供しようとしている。グランドエンディングで示されるとおり、少年少女が過去や自分自身と向き合い未来というものを考え始める、二度と戻ってこない時間、というのが結論だ。すなわち、時間というものが不可逆的なものなのだと認識すること、その上で、自分自身の在り方を見直すこと、これが行われる時期こそ青春なのだ、と『あおかな』は主張している。

 

であるが故に、私たちは『あおかな』をプレイする度、青春とはなんだったのか、という問いを思い浮かべると同時に、青春を取り戻している。『あおかな』が私たちにバーチャルな青春を提供することで、私たちは時間が戻りっこないという事実を嫌というほど認識し、その上で、私たちはどう生きるべきなのか、今一度考え直す契機を授かるからだ。

 


 

結局、何度も繰り返しているとおり、『あおかな』や、あるいは『ころげて』が示した道は、ついぞエロゲの本流にはならなかった。部活を題材に取りながら青春と向き合おうとするエロゲは、2018年だとharmoriseの処女作『ひとつ屋根の、ツバサの下で』くらいだろうか。これにしても空を扱っているので、『あおかな』が拓いた道もまた確かに存在するのだということは分かるが、時代が一番求めたものではなかったということなのだろう。

 

とはいえ、2010年代前半の誰もが新しい何かを探さねばならなかった時代に、『あおかな』という作品が生まれ得たということはエロゲ界の財産である。暗中模索している段階にあって、方向性の多様な作品が出てくる土壌が存在する、その事実を示したというだけで、『あおかな』は貴重な作品になった、と再評価できるだろう。

 

『あおかな』が描くとおり、時間はもう戻ってこない。Spriteが『あおかな』を世に問うことができた時間は過ぎ去り、私たちもまた、Spriteと共に歩む時間をとうとう失ってしまった。それでも、私たちのもとには確かに『あおかな』という時代のシンボルが残った。そして、『あおかな』を開くたびに、『あおかな』と共にあった時間を思い出し、青春を取り戻すことができる。『あおかな』は、そして、それとほぼ同値のSpriteは、記録に残った「記憶」にまつわる存在として、エロゲ界に確かな足跡を残したのだった。

 

今さら『夜明け前より瑠璃色な』をプレイする

もう10年以上前の作品で、硬軟問わず感想は溢れかえっていると思うので、ここはゆる~い感じで。

 


 

ワケあって00年代中盤から後半にかけてのエロゲにはそれなりに通じているんだが、ところどころ、タイトルだけ知っている作品もある。中には超有名タイトルなのに縁遠かったものもあって、『夜明け前より瑠璃色な』(『けよりな』)はその一本だった。

 

かねてからプレイする意思はあったのだが、先日『ましまろ』の遅配にブチギレして某社の遊び放題に加入した時にその名前を見かけたので、一念発起、ひととおりやってみることにした。

 

作品の概要

 

説明不要の超有名タイトルだけれど、念のため。

 

2005年に発売された『けよりな』は、『月は東に日は西に ~Operation Sanctuary~』で注目を集めたエロゲブランド・オーガストがその次に送り込んだ大型タイトルだ。高品質の立ち絵と繊細な作り込みでキャラ萌えとシナリオの完成度を両立させた一本で、その後のオーガストブランドの参照点であるとも言えるだろう。

 

月へ向かう入植者が現れて数百年、月と地球との戦争などを経て、線の細い交流だけが両者の間に残された世界。数少ない月との交流拠点・満弦ヶ崎に住む主人公・朝霧達哉はある日、世話役のさやかから、唐突にホームステイ予定の訪問者が家に来ることを告げられる。数日後、達哉の前に現れたのは、気品溢れる装いの月の姫・フィーナとその侍女ミアだった。(※ブログ筆者による勝手な要約)

 

……というのが冒頭のあらすじ。まあ調べれば出てくるのだが、一応。

 

おことわり

 

本当はPS2版やそのPC逆移植版、それからFDの『Moonlight Cradle』もプレイすべきなのだが、とりあえず目途がついたので、ここではオリジナル版についてだけ。

 


 

タイトル前の映像

 

あ、タイトルを表示させる前に映像があるんだ~、といった感じ。特にその時は何も感じなかった。プレイし終わった後に見ると曲が心にす~っとしみ込んできて、遥か38万キロ先の世界に想いを馳せてしまった。

 

 

エピローグ

 

出だしはどうするのかなあ、と思いながら画面を切り替えると、いきなり宇宙船の中から始まってちょっとびっくりした。まあでもあり得る書き出しかな、と頭を切り替え、とりあえずクリックを続ける。伏線らしい言葉も特に見つけられず、設定を叩きこむことに専念。

 

 

OP

 

正直に話すと、タイトル前の映像がOPだと思っていたので、ここでOPをお出しされて若干戸惑った。榊原ゆいのクレジットにビビる。とはいえこの頃がむしろ全盛期か? 今でも続けられていることの方がむしろ衝撃かもしれない。

 

 

共通ルート

 

前情報をシャットアウトした状態で進めていたので、最初はフィーナルートしか解放されていないことを知らなかった。とはいえ、最初はフィーナをプレイするつもりだったので、なんでもないことだったといえばなんでもなかったのだが。あらかじめその情報に触れていれば、選択肢ひとつひとつにウンウン唸る必要もなかったんだけれども。それもまたエロゲの醍醐味。

 

なんにせよ共通ルートと個別ルートの比率すら分からないので、どのタイミングで個別に突入するのか、その距離感を測りながら話を進めていく。この時点で、「主人公の父親」、「フィーナの母親」、「謎の少女リース」あたりが物語の鍵なのかなあと目星をつけていた。実際そのとおりだったのだが、特に誇れることでもない。というのも、あまりにも分かりやすいので、プレイしていれば誰でも気づいてしまうのだ。

 

 

フィーナルート前半

 

エロゲをある程度プレイしていれば、個別に入ったな、という感覚は掴めてくるもの。割と確信を持って入り口と思われるポイントでセーブすると、てくてくシナリオを進めていく。

 

フィーナの責任感が強い性格と主人公の出自からだいたい話の筋は見えていたので、特にぎょっとすることもなくすんなりと話を呑み込んでいくことができた。とはいえ、シーンのひとつひとつからフィーナのかわいさがにじみ出ていて、個別序盤あたりでもうメロメロになっていた。エピソードをきっちり作っていくこと、その小さなエピソード群をシナリオとしてまとめていくこと、そういった辺りに巧みさを感じつつ、告白シークエンスへ。

 

特徴的なモニュメントの下で、主人公がフィーナにアプローチ。ああ、この主人公はもう止まらないし、私が彼でも止まらないだろうな、と思いながらぐいぐいフィーナに迫る。が、告白シーンを過ぎてから、話の中で一度たりとも立ち止まらなかったのはフィーナだった。この立ち止まらないというアイディアがフィーナの側にいつもつきまとっているのだと気づいたのはもう少し後のこと。ワガママだとか、前を向くだとか、あとは戦い続けるだとか、そういった表現はすべてフィーナの同じ部分を指している。要は、フィーナの造形やフィーナのセールスポイントとしてそういった性格を押し出しているということだ。

 

シナリオ的なヤマ場というか、話の運び方で感心したのはその後の初デート。一瞬、この主人公は相手の立場を頭では理解していながら実際には分かっていなかったダメ男だな、という思考がよぎったものの、すぐに思い直した。よく考えれば、主人公はこれが初めての経験。しかもまだ大学にも入っていない。自分の心を制御する以前に、そもそも自分の感情すら把握できなくて当然だ。このシーンは、2人が本当の意味で通じ合った感動的な瞬間を描いてはいるが、同時に主人公の幼さと成長も映し取っている。もちろん、フィーナのそんな姿も。

 

それにしても、汚れたサンドイッチを食べた瞬間は胸が詰まった。ボロボロ泣きはしなかったが、プレイヤーとしての私が一番感情を移入し主人公と一体化したのはこの河原での談笑シーンだったように思う。よく、感動しているから涙を流すのだ、と思っている人がいる。まあだいたい合っているし特に糾弾すべき考えでもないのだが、実際のところ、泣くかどうかとシナリオの完成度の間に強い関係はない。泣かせるには泣かせの技術が必要で、泣いたかどうかはその技術の巧拙を見極める指標にしかならないのだ。逆に、たとえ泣かなかったとしても、その物語が描きたかったものがしっかりとプレイヤーや鑑賞者の心に届くこともある。その意味で、主人公とフィーナの1回目の仲違いは、泣かせる技術こそ詰め込んでいないものの、「雨降って地固まる」を完璧に描写し尽くしたという点で、この『けよりな』の中で最も心に残ったエピソードになった。

 

そのシーンが終わると、後は婚約が通るかどうか、という話しか残っていないのは明白だった。カレンが剣術の試合を2人に課した段階で、「主人公がフィーナに負けるが、カレンは2人の婚約を認める」という話を本線として想定していた。それ以外にも、「ここで父親の伏線を回収し、月の重役として突如地球に戻ってくる」、「月の王国と主人公の繋がりが明らかになり、身分の点で主人公が逆転ホームランをぶちかます」、「さやかが暗躍する」、くらいは考えたが、基本的には一番上の筋で読み込みを進めた。というのも、この辺りで次第にフィーナとフィーナルートのテーマについて勘付き始めていたからだ。曲がったことをよしとしないフィーナの性格を一番綺麗に描くためには、まず主人公の側の心が折れてはいけないのである。そうでなければ、「フィーナに感化されて変わり始めた主人公」を通してフィーナの魅力を伝えきれない。そこに気付いたので、「フィーナの心が折れて本番の時に崩れ落ちる」くらいは考えたものの、「奇跡が起きて主人公がフィーナに勝利する」という可能性は一切考慮しなかった。奇跡という言葉は、この2人から最も縁遠い。なぜなら、主人公とフィーナにとって「結果」とは常に2人が戦い続けた末に掴み取ったものだからだ。そこに、奇跡が混入する隙は一切ない。

 

結局、本線で考えていた話でまとまり、主人公は晴れてフィーナの婚約者になった。が、私がひっくり返ったのは、なんとHシーンが1個しかないままエンディングを迎えてしまったことだった。スタッフロールが流れ始めた瞬間、この『けよりな』という作品は、主人公とフィーナの物語は、まだ遥か先にあるのだと思い知ったのだった。

 

 

麻衣ルート

 

フィーナルート前半終了時にリースルートが解放されなかったことを確認して、リースルートがtrueか、もしかするとグランドエンディングルートがあるだろうな、ということは 勘付いた。とはいえ、選べないものは選べないので、とりあえず解放された4人の話を進めることに。

 

こういうゲームの作りをされると、はたしてどういう順番でクリアしたものか、散々悩んでしまう自分がいる。とりあえず共通ルートや設定面で気に入ったキャラを先にするか、それともデザートとして取っておくか。この辺りは完全に気分の問題だ。幸いなことに、共通の段階で麻衣と菜月の2人にぐっと引き寄せられていたので、どちらかを最初に、もう一方を最後に置くことでモチベーションを保つという戦略を取れた。

 

そういうわけで真っ先に飛びついたのは妹の麻衣。妹属性は大好物なので。

 

まず声優にぐっとくる。最近では年上キャラもやるようになった(と言われる)安玖深音の妹キャラ全盛期だ。直前まで『ましろ色シンフォニー』をプレイしていたので、もう少しダウナーっぽい声を出すのだという先入観もあったが、実際麻衣の声質はそれなりに明るい。演技の幅の広さを見せつけられた形になった。

 

話の型としては、麻衣が義妹であることが明かされてから少しずつ2人の関係性の変化を描いていく、オーソドックスな妹ものだった。妹ものといえば(今から見れば)だいたい話のタイプは数種類に分けられるのだが、当時はこれが正統だったのかと言われれば、少し悩むところではある。Getchuの美少女ゲーム大賞の選評を読んでみると、当時から王道の妹ものとして認識されていたようなのだが、実際現代の私たちが想定するほどに様式美が洗練されていたかは不明。

 

ただひとつ言えることは、2018年の今になっても、麻衣ルートは義妹ものの快作として十分に楽しめる、という事実だけだ。

 

話の中身は、そういうわけで「義妹もの」と言ってしまえば終わってしまう。大抵、義理の兄妹どうしの恋愛をどのように正当化できるのか、2人が悩みながら、そのうち周囲にも影響を与え、最終的には吹っ切れるという筋をなぞる。この話では、後見人(だと彼女のルートで判明する)のさやかの態度が最も問題になるポイントだった。さやかほど家族にこだわった人は作中にいない(麻衣ルートの段階でさやかに最もダメージが回っていたことから、なんとなくさやかルートは家族の形がテーマとして描かれるんだろうなあと予想がついてしまうほどに)。この辺りのキャラの役割分担が上手だ。義理の妹を題材にすると、どうしても兄と妹の関係性にフォーカスし切ってしまいがちだ。家族を描くのであれば、他の要素を混ぜ込む必要がある。それがさやかなのだが、実はさやかの存在は麻衣ルートにもいい影響を及ぼしている。全員血の繋がりがないが故に逆に家族であり続ける努力をしてきた朝霧の家だからこそ、かえって2人の関係がもたらす衝撃の大きさが増幅していく。血縁に甘えることができない家族の結束と脆さをスパイスとして調理することに成功したのではなかろうか。

 

締めくくりもなかなかにカタルシス溢れる演出だった。抜けるような青い夏の空の下、2羽の白い鳥が、風に舞う麻衣のリボンと重ね合わせられながら飛んで行く。血縁の嘘を隠し、兄と妹として生きていくという誓いを込めた麻衣のリボンは、白日の下に身をさらけ出しながら2人のもとを去った。新しい2人の始まりと、これから彼らの前に現れる無限の可能性を示唆した、爽やかな終わりだ。このようなエンディングなくして義妹ものは完結しない。お手本のような物語の結末だった。

 

 

ミアルート

 

見え透いている話をどう魅せるか、というのはなかなかに難しい問題だ。ミアの場合、フィーナルートで「主人公が月に帰るはずの女の子とくっつき、そのまま月に行ってしまう」という話の筋を消化してしまっているので、どうやっても「主人公が月に帰るはずの女の子とくっつ」いた上で、「その女の子が地球に残る」というシナリオにせざるを得ない。同じ主題を繰り返し演奏するのは、工夫がない限りエロゲ的に面白くないからだ。

 

そんな苦労が垣間見える中で、ミアルートは小道具、いや、小鳥の使い方が巧みだったように思う。やがては巣立ち、自分の所帯を持つようになる小鳥が、自分の過ごした故郷へと戻ってくる。そのイメージを、丁寧にミアとフィーナ双方に重ね合わせている。果たして巣立ったのはミアだったのかフィーナだったのか、その結末からは窺い知ることができないし、断定する必要もない。

 

フィーナがミアを置いていく決心を固めるシーンも印象に残っている。クララの意思を果たしたミアの姿を見て、フィーナは確かに己の至らない部分に目を向ける。面白いのは、ミアが仕事を辞めることになる遠因がミアの完璧な仕事ぶりだった、というこの奇妙なねじれの方だ。そこに、フィーナの強い決意がにじみ出ているように思う。

 

ミアルートは割とあっさり終わらせた感じになってしまった。とはいえ未だ見ぬリースルートに向けて止まることはできなかったので、とにかく進み続ける。

 

 

さやかルート

 

上述のとおりさやかルートでは家族が問題になるんだろうなあと思いながらのプレイになったので、話もするすると呑み込んでいく。

 

このルートには、さやかが主人公や麻衣の頭をよしよしする描写が詰め込まれている。昨今流行りのバブみを見出すこともできるのかもしれないが、これは誤解いや曲解であるように思う。というのも、このルートで描かれているのは、血に頼らない家族の共生関係で、むしろ主人公と麻衣がどのようにさやかを支えるか、という方だからだ。さやかがひたすらに2人を甘やかす描写は、主人公と麻衣の、終盤における成長を印象付けるためのコントラストですらある。バブみというのは、さやかのその甘やかす態度を極端に強調する時に生まれてくるワードである。さらに言えば、バブみは、家事を全般的にこなしなんだかんだ主人公の身辺について気を揉む麻衣の方に寄せるべきアイディアであるように思う。

 

そういうわけなので、さやかが不摂生な側面も見せたりすることについてはあまり違和感がない。大人の弱さというものを見せれば見せるほどさやかが魅力的になっていくのは、あるいは主人公の背伸びした態度にも関係があるのかもしれない。

 

関係ないけど黒ストは興奮するよね。

 

 

菜月ルート

 

このベルトどうなってんだろと思いながらも視線が胸へと吸い込まれていくのが菜月ルート。一応私服は2パターンあるけど。

 

遠距離恋愛の難しさはさやかルートでもちょろりと触れられているが、同年代でかつ幼馴染みの菜月の方がより別離を強調できるのは言うまでもない。というかそれ以上に、同年代であるからこそのストレートな恋愛が醍醐味。さやかはどうしても年上女性の魅力を押し出していかざるを得ない、すなわち、意見の対立を吸収してしまうような大人の世界を描かなければならない。対して、菜月と主人公の間柄であれば、多感な年齢故の激しさとそこから生まれる衝突を表現できる。露わにした感情の波の大きさで言えば、菜月はフィーナに次ぐくらいのものを放出していたかもしれない。

 

表に出した感情の大きさが凄い、というのは、要するに、まだまだ菜月も不器用である、というシンプルな事実に結び付けられる。もちろん、我が強い、だとか、まっすぐに育ってきた、という表現を使ってもいい。どちらにせよ、菜月は、特に主人公に対して婉曲な手段を取ることができなかった。遠山のように揺さぶりをかけることができなかった、と言えば、言いたいことは伝わると思う。もっとも、遠山にせよ、潔いところは美点であって、これはやはりこの年頃の少年少女がまだ不器用で、男女の機微や駆け引きを理解できていないところに原因があるように思われる。そして、不器用であるが故に愚直にもがく、それが許されることこそ若さの特権なのだと、今なら分かる。

 

 

リースルート

 

まずその短さにびっくりした。当初はHシーン集の残り枠を参考に、まあ他のルートと同じくらいの長さはあるのかなあ、と思っていたのだが。

 

とはいえ、この短さも計算の内だろう。「野良猫」であるリースにとって、朝霧家は一時の住まいであることは論を待たない。リースと主人公は、長い生から見れば刹那的なその一瞬の内に、邂逅し、お互いを分かり合い、そして肌を重ねたのだ。その触れ合いが行き着く先がどこなのか、2人とも分かっていながら。

 

そう、主人公もそのことを分かっていた。分かっていた上で、あの日、空の上で、彼はリースに笑いかけたのだ。はっきり言うと、このルートの主人公が一番大人だ。時間というもの、生というもの、そして生の意義という問い、その3つと向き合い、自分の感情を受け入れた主人公は、間違いなく菜月ルートの彼とは別人だった。

 

こういう一瞬だけ心が確かに通じ合った、そんな経験や関係に憧れてしまうのは、私がロマンティストだからだろうか。リースルートは、ロストテクノロジーなどこの『けよりな』の物語の核心に迫る要素を提示する役割を担わされてはいたが、決してフィーナルート後半という物語の本筋への橋渡しに成り下がることなく、私の胸に確かな感慨を残していった。

 

 

夜明け前より瑠璃色な(フィーナルート後半)

 

実のところ、遺跡調査が云々という話が出たところで、この物語が向かう先は見えてしまっていた。後は、残された「主人公の父」と「フィーナの母」という伏線をどうまとめるか、それから、どの程度まで主人公とフィーナの2人を面倒ごとに巻き込むか、くらいしか予想の幅がなかった。

 

とはいえ、フィーナルート後半の序盤は、フィーナ以外のヒロインが各々のルートで見せた魅力を発揮していて、いよいよ大団円が近づいてきたな、という印象を抱かせてくれる。そう、物語としてこうなるよりない、という状態でも、私たちはちゃんと楽しむことができる。予定調和は、実はそれ自体に悪い意味が込められていない。

 

月に向かってからは、いよいよ結末に向かって一直線という雰囲気がプンプンしていた。というのも、月に向かうまでの段階で、カレンの見せ場も、リースの出番も終わってしまっていたからだ。設定の都合、朝霧家とその周辺のメンバーが月に集結できる見込みは薄い。こうなっては、フィーナが大演説をかます以外にまとめようがないのだ。

 

そういうわけなので、むしろ滝の如く一気に飲み干してしまったというのが実情だ。もちろん、フィーナはかわいかったし、結末にも納得している。止まらせることなく読ませ切るというのはなかなかできることでもない。それだけ、これまでの展開や緻密な描写の積み重ねが、(他に物語の動かしようがなかったとはいえ)最終盤に説得力を持たせていた、ということなのだと思う。

 

 

余談

 

結局、夜明け前より瑠璃色なものとはなんだったのだろうか。本編最後に示されるのは、月から見た地球という答えだ。実のところ、スフィア王国が月の表側にあるならば、月から満地球が見える時夜の地球から月は見えない。月は、ちょうど夜明け過ぎになってからその姿を見せ始める。そのことに気が付くと、この物語の中で、月と地球という表裏一体の存在にとっての「夜明け」とはなんなのか、という簡単な問いが浮かび上がる。

 

これから、月と地球は新しい関係を築いていくだろう。今はまだ、お互いにとって夜明け前に過ぎない。それでも、これから先、月は彼方の地球から目を離さないし、地球からも月の薄い光が見えるようになるに違いない。夜明け前の瑠璃色よりまだ深い神秘的な蒼は、月と地球の明日を予感させてくれる。そして、フィーナと達哉もまた、深遠で広大な未来に向かう、まだ深い瑠璃色の場所にいるのだと、これからの2人は今まで以上に幸せな生活を送るのだ。私たちにそんな確信を与えながら、物語は幕を下ろしていった。

 


 

結論を言うと、いや、いい作品だった。エロゲとして必要な要素が全部詰まっていたかのように錯覚させられる。もちろんそんなことはどんなエロゲにもできないんだけれど。大満足。

 

 

心というもの 【『君と目覚める幾つかの方法』プレイ感想<ネタバレ有り>】

この記事は『君と目覚める幾つかの方法』(『きみめざ』)の感想だ。ネタバレを含むので、プレイ予定のある人はネタバレなしのこちらの記事を見て欲しい。

 


 

自律したロボット、自律したAI、あるいは自律したアンドロイドというものが考案されて以来、私たちはずっと、心というものについて考え続けている。ここにメディア論や記号論を持ち込むつもりはあまりないが、アイディアの源を辿れば、おそらく似たようなところに導かれてしまうのではないか。

 

人間が持つ、この心というもの。「心とは何か」というその永遠の問いが立ち上がってくるのは、おおよそ技術の進歩が社会に影響を与えた時か、心に対置できるような何かが登場した時である。それまでの私たちが抱いていた、「心とはこのようなものだ」という漠然とした固定観念が揺さぶられた時、と言ってもよい。

 

もうお気づきになられたと思うが、要するに、AIの発達だとかアンドロイドの進歩というのは、そのどちらもに当てはまるからこそ、私たちを強烈に揺さぶり続けられるのだ。ただの計算機だったはずのコンピュータはいつの間にか人工「知能」へと姿を変え、これまでよりも頻繁に心と比較されるようになった。そして、そのようなAIの進歩は、幾度目かのブームによって、今度こそ私たちの生活を変化させつつある。

 

コンピュータ、あるいは「テクノロジー」と心の問題は、意外にも歴史のある議論だ。関心のある人は調べてみて欲しい。

 

閑話休題。この『きみめざ』がオートマタを扱う際に潜り込ませた問いは、まさしくその心に関するものだった。

 

最も分かりやすいのは舞花の態度だろう。オートマタに自我あるいは「自分だけの」感情は芽生え得るか、という問いを、専門家である男(と女?)2人に投げかける。一見、AIなどの知識に乏しいが故に生じた質問だろうか、と軽く流してしまいそうになるが、実際には、おそらくこの問いから「心とは何か?」というより大きな疑問へとプレイヤーを誘導する意図があったのだと思われる。

 

そもそも、『きみめざ』における主要なキャラの性格や特徴は、それぞれ別の角度から、AIや先端技術を通して心というものの存在に迫れるよう工夫されている。舞花は、前述のとおり「AIに関する無知」。主人公は「電脳移植」。みこととあかさかくんは「建前と本音」。そして初音は、「心の発達」である。

 

ライターに限らず、私たちはやたらと、機械は、モノは心を持つか、という問いにこだわりがちだ。理由はおそらくシンプルで、私たちがおそらく、無意識のうちに、心こそが人間の証明であるかのように考えているからなのだろう。この考えを抱いていると、ロボットや機械が心を持った時、彼らが人間(ヒトではない)とどう違うのか、説明することができなくなってしまう。モノと私たち人間は根本的に異なる存在であると私たちは感じがちだが、その直感に反する事態が起きてしまう。直感に反する事態をどう受け止めるにせよ、私たちのアタマがエラーを吐き出してしまうことには違いがない。その辺りにこの質問の存在感の大きさというものを紐づけできるように思う。

 

私たち人間は、モノと違う存在だし、モノと違う存在でなくてはならない。そのような考えが、AI脅威論の根底にあるのかもしれない。そう考えると、『きみめざ』世界においてオートマタ規制派が云々という件が言及されているのは、自然である以上に当然だと言える。そのような規制派こそ、「心とは何か?」、ひいては「人間とは何か?」という問いを目立たせる存在だからだ。

 

では実際、『きみめざ』世界においては、心とはどのようなもので、私たちはオートマタからどのように区別されているのだろうか。

 

印象的なのは、アイルとマキノがしきりに、自分たちはモノである、という趣旨の発言を繰り返すことだ。なんとも後から効いてくる言葉である――アイルとマキノは、主人公の補助電脳であり、主人公にとっては間違いなく「三人で一つ」と言えるような存在だった。心と脳を混同しないように気を付けて議論していく必要があるものの、直感的には、主人公とアイルとマキノは脳を共有している、まさしく「一心同体」の「生命体」だ。主人公がモノに近づいたともとれるし、アイルとマキノが人間に寄り添ったともいえる。どちらも否定できない。たとえば、主人公の母親は前者の考えを抱いていた、というのは作品中で明かされたとおりだ。とにかく、人間とオートマタの境界云々という問題を、主人公は共生いや「一蓮托生」という形で乗り越えている。

 

主人公がアイルとマキノなしでは不安定な状況にある、という事実が、「君と」目覚める、というタイトルにかかってきて、ずしりと重たい。主人公は、もちろん彼の帰りを待っているヒロインや知人と共に目覚める。が、グランドエンディングで示唆されるのはまた別の方向性である。

 

ここまで書いて、それでもまだ、オートマタと人間の境目を問い続けるのであれば、初音の例を引き合いに出さざるを得ない。

 

冒頭以降しばらく、初音は感情表現や自己主張の乏しい子として描写される。「心の内」で何を考えていたかは分からないが、表面上はどもり癖を持つ、悪い意味で大人しい子として、初音は存在していた。 いや、大人しいだけならよかった。初音の態度は、大人の欲していること、周囲の空気が求めていることを瞬時に読み取った上で、適切な答えとして出力されたものに過ぎなかった。この態度は、初音自身が後に憧れる、アイルやマキノの主人公に対するそれと何が違うだろうか。

 

心を議論する時には、刺激を受容してからのプロセスが重視される一方で、私たちが普段人間と接する時には、心が下した結論である出力を見る。出力の結果たる表面に限れば、初音は間違いなく、最初の頃はオートマタと大差なかった――その足に限らず。

 

あるいは、プロセスにしても変わりなかったかもしれない。刺激を収集して、過去の経験と照らし合わせて、状況に対する最適な解を導出する。そこに、オートマタとの違いを見出すことは難しい。ややアイロニカルなことに、そんな初音が「人間らしく」なるために教えを請うたのはアイルとマキノだった。「人間らしい」とはどういうことなのか、私たちにストレートに問いかけているこの瞬間こそ、『きみめざ』のハイライトかもしれない。

 

結局、『きみめざ』の世界では、オートマタと人間は「共に」生きていくよりないのである。オートマタと人間の境目はこうも簡単に融け落ちていく。

 

オートマタと人間の線引きとして、仮に心の有無を用いることができたとしても、その線は最初から破れ目のある点線としてしか存在することができない。結局、心を基準にしても、心の側の定義がぐらついているのだから。某ゲームの「人間より人間らしい人形」ではないが、そのうち、人間より人間らしいオートマタが出てきた時、私たちは何を考えねばならないだろうか。


こう考えていくと、オートマタは心を持つか否か、という表現では、この作品の総括にふさわしくない。オートマタが、この作品が問いかけているのは、オートマタの登場によって揺さぶられた心、そして人間というものの方である。

 

現代の私たちの世界では、様々な事情により「強いAI」の実現は難しいとされている。だから、『きみめざ』はまだまだSF、すなわちフィクションの域を出ない。しかし、この作品が扱っている題材は、私たちの側に潜んでいる問題だ。願わくは、私の隣にマキノが来た際に、社会が彼女を受け入れる準備を整えられていますように。そう祈ってしまう作品だった。

 

「ノベルゲーム」らしさとテーマ選び 【『君と目覚める幾つかの方法』プレイ感想<ネタバレなし>】

短評(要旨)

 

Navelの15周年を飾る『君と目覚める幾つかの方法』(『きみめざ』)は、選択肢によって話の流れが変わるというノベルゲーム特有のインタラクティブ性を押し出した久しぶりの作品だ。幾度となく辿ることになる日常の中で、プレイヤーは少しずつ、このサスペンスめいた物語の核心と登場人物の複雑な過去に勘付くことになるだろう。その一方で、『きみめざ』が包含しているSFにおいては普遍的なテーマ設定は、作品が技巧的になり過ぎることを防ぎ、物語をより大きく見せる一助となっている。カタルシスが得られるよう張り巡らされた伏線に代表される巧妙さと、根本的なところで難しさを孕む題材、それらを高いレベルで融合させた一本だ。

 


 

Navelの10周年を記念して発売された『月に寄りそう乙女の作法』(『つり乙』)は広くエロゲプレイヤーに受け入れられ、その後のNavelブランドの屋台骨となった。あれから5年、同ブランドの15周年を飾ることになった『君と目覚める幾つかの方法』(『きみめざ』)は、キャッチ―さやヒロインの癖の強さでは『つり乙』と比較されてしまうものの、完成度という面では何一つ引けを取らない作品に仕上がったと言えるだろう。

 

そもそも、目指している方向が根本的に異なる。『つり乙』は、お嬢様学校や上流社会を舞台にし、そこでの主人公の格闘と成長を、女装を鍵としながら丹念に描いていった作品だ。対して、『きみめざ』はサスペンス要素のあるSFである。違う畑で育った作物を一概に比較対象とするのは難しい。

 

また、ゲーム性にも大きな隔たりがある。『つり乙』は、ビジュアルノベルらしく、選択肢によって攻略するヒロインを決定するものの、それ以外の要素においてプレイヤーが物語に干渉することができないシステムになっていた。一方、『きみめざ』は、これから物語の中心に据えるヒロインを選択する以上の役割を選択肢に持たせている。つまり、かなり複雑にフラグを管理し、ヒロインにまつわるシナリオを読むというよりは、むしろプレイヤーが半分能動的にエンドを選択していく、という側面が強い。より平たく言えば、バッドエンドやノーマルエンドが多いのである。その意味において、『きみめざ』はビジュアルノベルというよりは「ノベルゲーム」的だと言えるだろう。

 

こうした作品は昨今少なくなった。理由は様々あるだろう。たとえば、こうした複雑な構造を持つシナリオを構想すると、複数人のライターで分担して執筆することが難しくなる。シナリオや設定のすり合わせに労力がかなり割かれるからだ。こうした制作側の効率に関する事情もあるだろうし、一方では単純にユーザーの求めるものが変化していったあおりを受けたという面も否定できないだろう。

 

どちらにせよ、ここまできっちりと「ノベルゲームらしさ」を意識した上で練り込まれた作品は珍しい。このような形態を取ると、必然的にプレイヤーは何度も同じ日常を経験することになる(もちろんスキップすることも多々あるのだが)。その中で、主人公やヒロインたちが発した些細な言動や、プレイヤーが選んだ先で起こった僅かな変化が、一つ一つ丁寧に、物語の謎の全容を明らかにしていく。こうしてまとめてみると平凡なことのようにも思えるが、仕上げるのは相当難しい。『きみめざ』は、本当に久しぶりに、細部にまで念入りに手が加えられた一本になった。ひとえに企画とライターの力だろう。

 

他方、こうしたゲームはエンタメとしては高い質を誇るものの、物語の広がりであるとか、話の膨らませ方に難がある場合も多かった。喩えるなら、超精密だがこじんまりとした彫刻のようなものだ。もちろん、そのような彫刻も一つの方向性として認められるべきだし、完成までにかかる労力も相当なものだ。だが、大きな彫刻というのは、それだけで彫り切るのがかなり大変であるという事実を鑑みると、どうしても大きさという指標を導入する必要性も感じてしまうのだ。

 

その点、『きみめざ』は小さなところでまとまるのではなく、大きさを見せつけながら細部も見せるという、バランス感覚の際立った作品になっている。これはおそらくテーマ設定が上手くはまったのだと思う。そもそもSFというジャンル自体、世界観を見せることに多大な関心を払うジャンルではある。しかし、ここで強調したいのは、『きみめざ』が(ある種の)SFとして成立していく中で織り込んでいったものの方である。

 

『きみめざ』が扱ったのは、最も簡潔に記すならば、アンドロイドと人間というテーマだ。アンドロイドが、人工知能が、私たち人間の既に成立した社会やコミュニティー、あるいは日常生活の中でどのような役割を担い得るか、という実験側面が、『きみめざ』にはある。

 

だが、それ以上に、『きみめざ』が注意を向けているアイディアがある。それは、心、である。アンドロイドに心はあるのか、人間の心とは何か、そうした問いが作品の中で立てられ、答えすらも徐々に描かれていくのだ。

 

このテーマそのものは、AIなどを扱うSFでは普遍的に見られるものではある。その意味では突飛な発想ではない。ここで強調したいのは、そのようなアイディアを「ノベルゲーム」である『きみめざ』に持ち込んだことで、作品世界の広がりや現代社会とのアクセスを保証しながら、技巧的なシナリオを展開することが可能だった、ということの方だ。

 

もちろん、心というテーマそのものについて論じることは可能だし、そうしたいのはやまやまだが、ネタバレを大いに含むことになるので、それは別稿に譲りたい。

 

一つだけ指摘するならば、この作品における主要なキャラクターの造形は、すべからくこの心という問題を扱うことを前提にしたものだと言える。それは、個々人レベルでの話、すなわち、キャラの性格といった意味でもあるし、キャラの性格の取り揃え方というややメタ的な意味でもそうである。

 

一見とてつもなく技巧的なエンタメ作品のようでいて、実は難しいテーマを内包した作品。いや、むしろ、体験版の感触を前提にすれば、重たい題材を扱っているようでいて、その実エンタメとして快作、と表現した方がいいだろうか。この書き方だとどちらか一方しか重視していないようにも読み取れてあまりよろしくないが、端的に言えばそういうことだ。「ノベルゲーム」らしいインタラクティブ性を強く持ち、細部にまできっちりと注意を払った一方で、テーマはずしりと重たく、もちろん物語の膨らみも十分。『きみめざ』は、極めて高いレベルでまとまった一本だ。興味が少しでもあるならば、ぜひ触れてみて欲しい。