※8月19日追記:一番下に参考で示した記事を閲覧した上で、本論最後のチャプターを若干修正。記事の要旨に変わりはない。
※8月7日追記:本論の終わりに補遺として「シナリオの一貫性とトゥルー以外のヒロインのルートについて」を追加。ただし、「作品の感想」から逸脱し「批評の批評」に成り下がってしまっているきらいがあり、自分でもよくないと感じている。補遺抜きでも記事としては完結しているので、関心のある人のみ目を通して欲しい。
この記事はニトロプラスの最新作『みにくいモジカの子』のプレイ感想だ。ネタバレを多分に含むので、プレイ予定のある人は注意してほしい。
『みにくいモジカの子』(以下『モジカ』)を支える柱と梁が幾つかあることに気がついたのは、四番目に攻略していた椿ルートの途中だった。もちろん、柱や梁はめいめいが単体で議論や分析の対象になり得る。だが、椿ルートを進めていくうち、私は脳裏をよぎった直感を否定することができなくなった。この作品をシナリオだけ、設定だけ、あるいは演出だけに絞り込んで語ることは不可能だろう、という直感を。
だから、『モジカ』が私に何を語り、その語りについて私がどう感じたかを記す前に、『モジカ』の特徴についていま一度まとめてみたいと思う。そうした、他のノベルゲームと比較して明らかに異質である点が、どのように『モジカ』を形成しているのかについてまとめる作業が、『モジカ』の語り、或いは『モジカ』がたどり着いたところについて考える上で助けになるだろうから。
『モジカ』で目を惹くのは、やはり特異な場所に表示されるテキストだろう。既存のメッセージウィンドウを投げ捨て、徹頭徹尾画面のど真ん中に表示されるテキストは、いかに『モジカ』が異質な存在であるかを端的に表している。一方で、『モジカ』の根幹を成す設定である主人公の「モジカ」能力=他心通の能力は、ヒロインの心情をその画面中央に居座るテキストからすら解放し、画面全体を覆い尽くす文字の渦として存在することを許している。
こうした常軌を逸したテキスト群を支えるのは、これまた徹底された一人称視点の光景だ。ヒロインの顔を映し続けるという美少女ノベルゲームの常識を投げ捨てることで達成された画面は、人の脚や影ばかりが映る陰鬱なものになった。追い打ちをかけるように、暗い劇伴が私たちの耳を支配する。いや、劇伴が華を添えている間はいい。この作品では、BGMとして環境音が採用されていることが大変多い。作品全体に静かな影を纏わせるこうした音たちの存在も、また他のノベルゲームとはかけ離れたところにある。
こうした(広義の)演出群を支える設定は、上で一度触れたとおり、「相手の思考が文字となって視える」という「モジカ」の能力だ。
「モジカ」のアイディアの源流は、二か所に求められるように思う。一つは、問題意識としての、ノベルゲームにおける主人公とプレイヤーの乖離。もう一つは、より具体的なアイディアのヒントとしての、文字の渦という発想だ。
ノベルゲームにおける主人公とプレイヤーの乖離、とはどういうことだろう。簡潔に言えば、プレイヤーは主人公が到底知り得ない情報に容易に接することができる、それが故にプレイヤーと主人公は一体化しない、ということだ。プレイヤーは、しばしば主人公が絶対に取り扱うことのできない情報に触れる。代表的なものが、ヒロインの心情だ。人が表に出していない、心の中だけで考えているようなことを、プレイヤーは知ることができる。場合によっては、視点人物が主人公から移り変わることで、主人公が存在しない空間におけるヒロインの動静すら把握可能だ。こうした
情報格差は、メタ存在としてのプレイヤーと作品内部の主人公の間に横たわる溝を深くする。
或いは
ニトロプラスは、この事実を問題として捉えていたかもしれないし、新たな表現のチャンスと見ていたのかもしれない。どちらにせよ、『モジカ』はこの事象をほどいていく方向にシフトした。『モジカ』が提示した答えはシンプルだ。主人公が他人の思考を読めないことでプレイヤーと主人公が一体化し得ないのであれば、主人公の側にその情報を与えればよい。その発想が、「モジカ」の能力の源泉だ。
この答えがゲームに、『モジカ』という作品に与えた影響は大きかった。主人公とプレイヤーの同一化が入手可能な情報の面で進んだことにより、その他の面での同一化も極端に押し進める必要が生じてきた。それが、一人称視点を意識した画面づくりに繋がり、ひいては画面中央に表示されるテキストというある種の演出に続く道を整えた。画面中央にあるテキストとは、畢竟一人称視点による画面、それを駆使した主人公とプレイヤーの一体化という制作側の意図を達成するために必要な最後のピースだった。プレイヤーの視点を画面下部のメッセージウィンドウから解放し、真に主人公と同じものを見せるために、
ニトロプラスはテキストの位置を移動させたのだ。
プレイヤーと主人公の同一化、すなわち、プレイヤーと主人公の間の境界の融解――この現象が真に効いてくるのは、主人公が欲望のシンボルである
コンセイサマ内部に取り込まれた後のシーンだ。だが、そのことを検証する前に、「モジカ」のアイディアのもう一つの源流について考えてみたい。
「モジカ」とは文字渦である。作中、文字渦という文字列が提示されるのは一度だけだ。だが、その時以外にも文字の渦など似た表現は頻出する。渦という文字が印象的に用いられているというのは、見解ではなく事実だ。
この
「渦」という発想の土台にあるのは、
中島敦の小説『文字禍』だろう。ひょっとすると、この小説こそ『モジカ』そのものの出発点なのかもしれない。
中島敦のこの作品は、
バビロニアの図書館を舞台に、文字の精霊の存在を発見した博士が、文字の働きとその危険性を認識しながら、最終的には文字の重みそのものである粘土板に圧し潰されて死ぬまでを描いている。
青空文庫で読むことができるので、一度目を通してみて欲しい。
中島敦の『文字禍』は、一般に
ゲシュタルト崩壊をおかしく描いた作品だと捉えられている。もちろん、『文字禍』のアイディアの土台には、
ゲシュタルト崩壊があるのだろう。しかし、結局
中島敦が
ゲシュタルト崩壊を鍵として描いたものは、もっと大きな何かだった。今日の私たちが同作をメディア論的に、或いは
記号論的に再読することはさほど難しくない――それほどまでに、含蓄に富んだ作品だ。
「モジカ」とは文字渦であって文字禍である。 文字の渦が主人公を通して私たちを襲い、私たちの側を解体していく。まさしく禍そのものだ。
コンセイサマの中で、主人公は自我を失いかける。正確には、自分の欲望と他人の欲望の区別がつかなくなる。数多の欲望を人間ごと呑み込んできた
コンセイサマの中で、主人公はなぜ自分とそれ以外のものの区別がつかなくなったのか。そのことを考える上でヒントになる部分が、『文字禍』の中にある。
彼が一軒の家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰との意味もない集合に化けてしまう。(中略)人間の身体を見ても、その通り。みんな意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしまう。どうして、こんな恰好をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。眼に見えるものばかりではない。人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。
中島敦『文字禍』 原文は「じっと」の「じっ」に傍点
おそらく
ゲシュタルト崩壊云々というのはこの部分のことを指しているのだろう。上述のとおり、たとえ
ゲシュタルト崩壊が発想の根底にあったとしても、この作品の射程はそれを遥かに超えたところまで伸びている。上で引用した部分は、文字と文字の精霊を研究してきた博士が、ただの線の集合に過ぎない文字がどうして「文字」として意味のを獲得しているのか分からなくなった、という前置きの上で展開される。今まで意味のあったものが、分析という行為を通じて解体された結果、「意味のない奇怪な形をした部分」へと還元されてしまった、というポイントに着目したい。
『モジカ』において、主人公は
コンセイサマの中で大量の文字を浴びる。その文字は、今まで
コンセイサマの中に溜め込まれた人間の欲望そのものだ。それら視覚化された人間の欲望=「モジカ」によって思考を分析されることで表出した文字が、主人公に襲い掛かる。主人公は解体され、主人公の欲望すら他者の欲望と並列化される。主人公という一人の人間を構成していた欲望は、文字によって解体された結果、主人公という属性を失い、ただの欲望として他人のものだったはずの欲望と混じり合った。そしてそこから、主人公の思考が闖入者によってかき乱されていく。これが、主人公が
コンセイサマの中で自分の欲望を、ひいては自我を見失った理由だ。
そして、ここまで理解して初めて、『モジカ』はなんのために一人称視点を徹底させたのかが明らかになる。プレイヤーと主人公の視界の一致を通して、プレイヤーと主人公の境界は崩れ落ちる。主人公の経験はプレイヤーの経験として私たちのものとなっていく。では、その状態で主人公が分解されればどうなるか。当然、プレイヤーの側も解体される。
コンセイサマの中に取り込まれた誰かの欲望は主人公の欲望であって私たちプレイヤーの欲望そのものなのだ。既に融け落ちていた主人公とプレイヤーの境界だが、今度は主人公が一般化されるシーンを通して、私たちプレイヤーが一般化され意味を、個人という意味での人間という総体を失っていくのである。
こうした、文字という記号によって私たちプレイヤーを解体していく営みは、キャラを記号の集積と捉える議論の裏返しだ。キャラという概念が記号消費のシンボルとなって久しい。だが、キャラを単なる記号の集まりとして考え、キャ
ラクター=具体的な登場人物をキャラという側面から解析しようとする行為には、常にリスクが伴う。抽出され一般化されたものどもは、いつの間にか意味を失い記号ではなくなるか、還元され過ぎて元の形に戻れなくなる。その危険に気が付かないと、いつしか私たちの側が記号によって解体されてしまうのだ。
具体的なキャ
ラクターや彼らの思考が記号や記号の集積であるキャラ、或いは記号の代表である文字によって表現されると、私たち人間は途端に「文字の精」によって混乱させられる。
埃及人は、ある物の影を、その物の魂の一部と見做しているようだが、文字は、その影のようなものではないのか。
獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。
美少女ノベルゲームプレイヤーが読むと卒倒しそうになる文章が戦前に執筆されていたというのだから驚くよりない。この部分だけを読むと、現実の女性の代わりにキャラクターを愛する私たちは文字の精霊の虜になっているだけの愚か者のように思われる。
だが、実際には、この事実を知ってしまった博士は最終的に解析のし過ぎで「気が違いそうになっ」た(中島敦『文字禍』)。それを文字の精霊からのしっぺ返しと捉えると、記号とはいかに扱い難いものなのか、というところまで思考が回って、別の意味で頭が痛くなってくる。
ここまで掘り返してみると、いよいよ『文字禍』いや『モジカ』という作品そのものも恐ろしくなってくる。キャラクターに魅了の術を掛けられた私たちプレイヤーは、そして、記号の海文字の渦の中を生きる現代の私たちは、どうすれば総体を回復できるのか。
『モジカ』は、私たちに一つの救いを提示している。コンセイサマに取り込まれた主人公が助かる道は、ただ一つしかなかった。逆に言えば、それこそが私たちを救済する可能性のあるたった一つの手段なのだ。
コンセイサマの中で愛し合う二人が手を取り合えば彼らが祝福されて生き地獄から脱出できるわけではない。そのことを否定するために、椿は触手の犠牲となった。彼女の貴い犠牲を無駄にしないためには、きちんと正しい道
のりを辿って「笑子」のもとへ辿り着かねばならない。
主人公と「笑子」いや鳴子は、一度のみならず二度も
コンセイサマの魔の手から逃げおおせた。その理由は、二人が「呪われた運命」の子だったから、というのが最も簡潔な解答であり、もう少し詳しく書けば、二人の違いを
コンセイサマの側が見失ったから、になる。
コンセイサマが二人を取り違えた理由は明示されない――二人が双子であるという可能性は、エピローグによって潰されている。いや、二人を取り違えたその理由はおそらくシンプルで、それこそが『モジカ』の描いたものなのだと筆者には思われるのだが、結論は急がずにもう少しだけ寄り道をしてみたい。
なんとも奇妙な話ではないか。
コンセイサマは、これまで数多の人間を欲望を手掛かりに還元していくことで彼らを取り込みその命脈を保ってきたのだ。それがどうして、たった二人の「見分けが付かなかった」などという理由で滅ぼされてしまったのか。二人が自分の心に鍵を掛けて=カンヌキを掛けていたから、というのは部分点しか当たらない回答だ。これでは、どうして幼少期の二人が
コンセイサマから脱出できたのか説明できていないからだ。
正しい答えは、「二人は二人で一つだったから」、である。
実はこれで満点なのだが、しかし意味不明であるという点で問いと大してレベルが変わっていない。もう少しだけ詳しくみておきたい。
主人公と鳴子は、同じ日に同じ籠で孤児養育施設に拾われた子だった。その二人は、片割れがいかに醜い見た目をしていようと、常に二人で過ごしてきた。そんな中で、鳴子いや「笑子」は
コンセイサマの中へ投げ込まれ、他心通を得ることができるか試される。主人公は「笑子」の危機を察知し、果敢にも自ら
コンセイサマの中へと飛び込んで、無事に「笑子」と共に生還した。
そのことがきっかけで他心通を獲得した「笑子」は許斐家の養子となりひとまずは主人公と袂を分かった。しかし、時が流れ、「笑子」は鳴子として再び主人公の前に姿を現し、いま一度
コンセイサマの中へと入り込んだ。今度は、
コンセイサマを滅ぼすために。主人公も鳴子の期待に応え、幼少期と同じように、二人で
コンセイサマを打倒した。これが、鳴子ルートのプロットだ。
要約すると、「同じ日に捨てられたという数奇な偶然によって結び付けられた比翼連理の二人は、『呪われた運命』に導かれるまま、二人で
コンセイサマという巨悪を倒しハッピーエンドを迎えた」、になる。つまり、「過去の出来事や因縁によって結び付けられた運命の二人」が「『真実』の愛」を掴んだから、
コンセイサマはその身を焼かれ、二人はそのまま子供を授かって幸せに暮らしたのだ。
なんということだ。今まで散々『モジカ』がいかに普通の美少女ノベルゲームからかけ離れた表面を纏っているか議論してきたというのに、肝心要のその中身は、むしろ王道中の王道をひた走っているではないか。
『みにくいモジカの子』というタイトルは、もちろん童話『
みにくいアヒルの子』のパロディーだ。だが、『~ア
ヒルの子』がタイトルに使われたのは、ひとえに「みにくい」という言葉を導くためである。プロットとしては、醜い存在と美しい存在が「真実」の愛に気が付くのだから、むしろ『
美女と野獣』である。『モジカ』本編でやたら醜さと美しさ、嘘と真実の対比が強調されているのは、「『真実』の愛」などという使い古されてもはや現代では忘れ去られたはずのアイディアを導くためだったのだ。
思えば、売上的に成人向け
美少女ゲーム全盛期だった90年代後半から00年代頭に流行った
泣きゲ前後から、この手のゲームはずっと、ナイーブ過ぎるきらいすらあるプレイヤーのために美しい「『真実』の愛」を描き続けてきた。時代が移り、流行の中心が
泣きゲから萌えゲに移り変わっても、そこは変化しなかった。萌えゲの時代になり、重たい因縁やいわゆる鬱展開は忌避されるようになったが、プレイヤーはなんだかんだ愛の力愛の魅力を信じるロマンティストだった。
そう考えると、『モジカ』は
美少女ゲームのど真ん中にある作品だ。ライナーノーツで、ディレクターが『モジカ』をこう評している。
ニトロプラスが作った「本気のエロゲ―」である、と。
それにしても、救いというのは難しいものだ。概念そのものがふわふわとしている上に、何が救いになり得るかというのは人や状況によって異なる。
『モジカ』が救いの対象としているのは誰なのだろうか。題材的には、いじめられっ子がどのように前を向き始めるか、というところに焦点が当たっている。
しかし実際には、上述のとおり、『モジカ』は主人公をとおしてプレイヤーを巻き込む形で物語を進めていく。プレイヤーがヴァーチャルな体験として救済される、ということは、すなわち、プレイヤー一般に対し『モジカ』は開かれているということだ。
もちろん、プレイヤーは主人公が受けたいじめすらも自己の体験として内面化していくだろう。だが、この作品はもう少し遠いところまで視野に収めていそうな気もする。
というのも、多かれ少なかれ、
美少女ゲームプレイヤーというのは迫害や蔑視の対象になってきた、という事実が私たちの目の前にあるからだ。いや、プレイヤーのみではない。それこそ、2000年代が接近するまで、
ポップカルチャーいや
サブカルチャーに造詣を持つ人々(=おたく)は世間からの非難の対象だった。すなわち、「私たちのような」人々は、誰しもがいじめの近傍にあるアイディアと無関係ではない。
或いは、逆かもしれない。世間や所属していた共同体の中で困難に見舞われ、救いを求めた先が
ポップカルチャーだったのかもしれない。その可能性は否定できない。どちらにせよ、「私たち」にとって、
ポップカルチャーとは安寧の地であったし、それと同時に、自らが受ける苦難の源泉でもあった。
「気持ちいい」という言葉を鍵として、自分と相手の境界が融け去った状態を描きながら、人間とは、愛とは何か、そして、
ポップカルチャーに引き寄せられる「私たち」とは何かを探ろうとした作品に、『
新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/
まごころを、君に』がある。この作品には、予め撮影された『
エヴァ』を鑑賞している私たちを流しながら、「気持ち、いいの?」と問いかけるよく知られたシーンがある。これは、どうやっても一人称視点を貫徹できない既存アニメで私たちを揺さぶる数少ない方法だと評価できるが、筆者が『モジカ』をプレイしていて思い出したのは、まさにそのシーンだった。
『
まごころを、君に』の最後は衝撃的だ。岸辺で二人きりになった主人公・シンジは、ヒロインであるアスカのもとへ近寄り、二人が新しい秩序の中にいることを確認する。それに対して、アスカは一言だけ残して幕は切れる。「気持ち悪い」、と。
人間は分かり合えないし一つにもなれない。救いを求めて
ポップカルチャーへと彷徨い込んだ「私たち」を一蹴したこのラストは、今でも賛否両論ある。ある人はこのラストのせいで二度と旧劇場版の『
エヴァ』を観れなくなっただろう。一方で、この現代人を批判するかのようなラストとこれを作り上げたスタッフの気概を高く評価する人もいる。
後者のような人たちにとって、『モジカ』の結末は甘すぎるだろう。おそらく、せっかく立てた命題と向き合うことから逃げた、と批判するに違いない。
しかし、筆者は思うのである。仮に、個人として切り離され浮遊した現代人一般(「私たち」ならぬ私たち)が、記号の渦という魔の手から逃れられるとすれば、それは個人が再び結びつき合った時だけなのではないか、と。『モジカ』は、確かに「どのようにして」その結びつきを作るかまでは描いていない。『モジカ』は、あくまで
美少女ゲームの文脈に沿って「運命」という概念を用いた。しかし、『モジカ』はきちんと答えは示している。「二人で一つになれるようなことがあれば、それは救いになり得る」、と。
分解されることを拒むために、私とあなたの間の境界を融かし、「一つ」として生きていく。一見肉を切らせて骨を断っているかのような作戦にも思われる。しかし実際には、分解と融合は全く別の現象だ。間にワンステップ、私とあなたの区別をなくすという工程が入るから紛らわしいだけだ。「二人で一つ」は、確かに
コンセイサマという地獄から逃れる
蜘蛛の糸たり得るアイディアである。
『モジカ』は、真の意味で純愛ものだ。愛があればこの世の困難の大抵は乗り越えられるとでも言いたげな、ナイーブなロマンティストが喉から手が出るほど待ち望んでいた作品だったのだ。達観しているように見えて、心の底では「運命」を待ち望んでいるような現代人にとって、『モジカ』は最高の処方箋となるに違いない。『モジカ』は、何かにつけて
ポップカルチャーに逃げ込むようになった今日の(現代の、ではない)「私たち」、すなわち、一般という意味の私たちとほぼ同値となった「私たち」に手を差し伸べたといえる。
『モジカ』は、どこまでも前向きで、ずっと夢を見続けられるような、無垢な少女の如き作品だ。少なくとも、ロマンティストを自称する
美少女ゲームプレイヤーの筆者には、そのように思われた。だから筆者は、そんな『モジカ』が大好きだ。
補遺 シナリオの一貫性とトゥルー以外のヒロインのルートについて
最初から分かりきっていたことではあるが、『モジカ』は決して万人から満点をもらえる作品ではない(いや、
ニトロプラス自身はあわよくばそれを狙っていたのかもしれない)。
ネット上で散見される『モジカ』に対する批判的な論調を要約すると、以下の二点にまとめられる。一つは、五人のヒロインの物語全てに共通するような、全体を貫く「シナリオ」の不在を追及する向き。もう一つは、トゥルーである鳴子以外のヒロインのルートにおける救いのなさ、あるいはヒロインの扱いの悪さを嫌う方向性だ。
もう少し詳しく見てみよう。全体を貫く「シナリオ」がない、とは、つまり、五人のヒロインの物語がバラバラな方向へと散ってしまっている、ということだ。この意見を主張する人は、椿と鳴子以外の三人の物語では主人公の復讐がメインになっているにも関わらず、残り二人の話ではその要素が見当たらないことを糾弾する。或いは、鳴子以外のヒロインでは残虐なまでの結末が性行為を交えつつ展開される割に、鳴子ルートではベタベタに甘い終わり方を迎えることについて不満を抱きがちだ。
鳴子ルートとそれ以外の物語の間にある溝――これは、そのまま『モジカ』を嫌うもう一つの方向性へと繋がっていく。すなわち、鳴子以外のヒロインについて、なんらハッピーエンドを迎える余地がない、という意見だ。
美少女ゲームにおいて、全てのヒロインとの物語がハッピーエンドである義務はもちろんないが、本論で少し触れたとおり、萌えゲ時代の
美少女ゲームプレイヤーはいわゆる鬱展開を忌避する傾向にあり、『モジカ』は彼らのそんな反鬱展開センサーに引っかかったのだと思われる(とはいえ、鳴子以外の『モジカ』のヒロイン全員があのような悲惨な結末を迎える必要があったかは検討する価値があるように思われる)。
これら二つの意見にはまとめて回答できるかもしれない。結論を先に述べると、『モジカ』は
ニトロプラスにとって「本気のエロゲ―」であったがために、上のような意見が生まれる余地が発生したのだ。
ディレクターが言うところの「本気のエロゲ―」には、本論で述べたような意味合いの他にも、幾つか異なる示唆が込められているように思う。それは、ひとえに「エロゲ―」とはいかなるものか、という問題に起因するためだ。「エロゲ―」とは何か、と問われると、私たちは困ってしまう。というのも、「
エロゲー」には幾つか特徴があり、それらを一言にまとめて表現することが難しいからだ。
まず、「エロゲ―」とはエロ要素を含むゲームだ、という回答が想定できる。この意味で「本気のエロゲ―」を作るのであれば、それはすなわち、「エロシーンが実用に耐え得る作品」、つまり「エロシーンで実際に興奮できる作品」を目指すことになる。
或いは、「エロゲ―」とはあらゆるかわいい女の子や美少女を網羅し、彼女らとの多様なコミュニケーションをシナリオの中で体験するゲームだ、とまとめることもできる。この時、「本気のエロゲ―」は、「各属性を持つヒロインを満遍なく網羅し、かつあらゆるシナリオのパターンを提示する作品」になる。
そして、一部の「エロゲ―」には、トゥルーエンドと称される、他のルートとは一線を画したシナリオが存在する可能性がある、と指摘する人もいるだろう。この回答は、厳密には全ての
エロゲーに当てはまるわけではない。しかし、トゥルーエンドを採用するか否かという判断が制作側に存在することも確かであり、かつそのような特性は他のメディアではあまり見られないことも事実だ。この意味で「本気のエロゲ―」を目指すならば、「トゥルーがあるのならばその物語が最も強く印象に残るように、そうでないならばできる限り各ルート間の格差が質・量ともに生じないように制作された作品」を指向することになる。
こうして並べてみると、
ニトロプラスがどうして『モジカ』においてあのようなヒロインを用意したのか、そのような性行為を描写したのか、そして、ヒロインにとっても主人公にとっても厳しい結末を提示したのかが見えてくる。第一の点、エロシーンの実用性という意味では、できる限り多くのプレイを実装することでその要求を満たそうとしている。『モジカ』の中に搭載されたHシーンのプレイの幅は広い。レイプ逆レイプアナルセックス配信プレイ
足コキフェライマラチオ首絞めキメセク授乳プレイボテ腹セックス、挙句の果ては触手プレイ、と、羅列するだけでも威圧感がある。そうした種々のプレイが、官能的な絵柄や淫語によって装飾されている。
肝心なのは、そうしたプレイを網羅するために、ヒロインの属性も幅広く取り揃える必要がある、ということだ。そうすると、自然に二つ目の視点、「ヒロインとシナリオの多様性」もカバーされていく。精神が崩壊した結果ドSになる者、現実を受け入れられずに妄想の中で生きることを決め込んだ者、ドM露出狂という本性を暴かれた者、無口キャラが崩れセックス中毒になる者、そして、勤勉な生徒会長にして物語の黒幕、最終的に主人公と純愛を育むことになるヒロイン。なるほど体格もそれなりにメリハリがあり、眼鏡などの属性も分散させられている。
そして、二つ目の視点と最後の視点が重なり合うポイントで、シナリオに関する判断を迫られることになる。
ニトロプラスは、トゥルーを用意するという決断を下した上で、ある程度シナリオにも幅を持たせようとした。この計画が無謀だったかどうかは完全に個人の感性による。確かに、トゥルーという物語の総まとめにあたるルートを用意しながら、シナリオの種類を揃えるのはやや無謀なのかもしれない。それでも、
ニトロプラスはなんとかそれを成し遂げようと画策したのだ。まず、イントロダクションとしてみうルートを配置し、舞台となっている街の概要を提示する。続く胡頽子と綺羅々のルートでは、「笑子」の存在をちらつかせながら、一応は主人公の復讐という見せかけの柱を私たちに見せつける。椿ルートでカンヌキと
コンセイサマという設定を明かし、鳴子ルートでまとめる。
ニトロプラスは、シナリオに幅を持たせる代わりに、設定を小出しにすることで、徐々に物語や舞台の細部を描き、トゥルーでの
カタルシスを担保しようとした。
トゥルーでの
カタルシス、ということを考えると、もう一つ、どうしても避けて通ることのできない問題が生じる。それは、最もトゥルーでの
カタルシスを高める方法は、トゥルー以外をバッドにしてしまう作戦である、という問題だ。結局
ニトロプラスは、上で述べたシナリオの多様性の問題と、このトゥルーでの
カタルシス、その双方を重く見て、鳴子以外を苦い結末にしたのだと思われる。この判断もまた、プレイヤーによって賛否が分かれて仕方の無いところだ。
もちろん、
ニトロプラスは腐心して設定を徐々に明かすという技法以外でも『モジカ』の各ストーリーに統一感を持たせようとしている。「醜い」と「美しい」の対比がそれだ。これは同時に、「嘘」と「真実」の関係性を問うてもいる。どちらかというと、シナリオの中身というよりコンセプトに近い部分だが、そういう面でも
ニトロプラスの工夫が見受けられる。
一点、
ニトロプラスを擁護するのであれば、作品の「本筋」から離れてしまうヒロインは、トゥルーのあるなしに関わらず、ほとんどの
エロゲーにおいて生じてしまう、という点だ。この傾向は、特にシナリオ重視の作品に強い。この「本筋」から離れたヒロインの存在は、ある意味シナリオの多様性を確保しようとするあらゆるエロゲブランドの努力の成果であり、逆に言えば、そうした離れたヒロインが存在しない
エロゲーは、往々にして似たり寄ったりなシナリオが集まった作品になりがちだ、とも指摘できる(もちろん例外もある)。ある意味必要悪とも取れるが、『モジカ』はその中ではかなりよくこなしている方だ。「本筋」である鳴子ルートから離れているヒロインも、設定を提示する役割などから全体の流れの中でしっかりと位置づけされている。その観点から言えば、『モジカ』は決して失敗作ではない。
多様なプレイヤーのニーズに全て応えることは、いかなる作品でも不可能だ。『モジカ』は、「本気のエロゲ―」であったがために多様な要素を取り込み、その結果あらゆる角度からの批判を甘んじて受けなければならない存在になった。個人的見解を述べれば、『モジカ』は「本気のエロゲ―」として申し分ない完成度であり、シナリオもキャ
ラクターも設定も十分体系的にまとめられた作品だと感じている。この作品の一点を取り出して失敗だとなじることは容易い。或いはそれらの大半は、体験版で提示された僅かな情報から製品版の様子を想定したプレイヤーの浅慮によるものかもしれないが、中には正鵠を得た批判もあるだろう。しかし、
ニトロプラスの野望や(シナリオだけ、CGだけといった「分析的」な評価ではない)作品全体の様相ということを視野に含めると、『モジカ』以上のものを想定することは難しい。
エロゲーとは、美少女ノベルゲームとは畢竟複合メディアであり、情報を含む媒体も媒体間のバランスも複雑だ。あまりに一般化し過ぎた、すなわち、分節化を指向する分析的過ぎる批評は、ちょうど『モジカ』の主人公の如くその文章の側が解体されかねない。そう考えると、やはり『モジカ』は恐ろしい作品なのだと改めて認識させられる。
※2018/9/4追記:余談だが、発売されて一ヶ月、もう一度『モジカ』について考える機会があったのだが、主人公の復讐という物語の一側面は、実は作品を通じて徹底されているのではないか、という結論に至った。というのも、主人公と鳴子が二人で一つならば、主人公の復讐と鳴子の「復讐」=幼少期に「
コンセイサマ」へと投げ込み、その上で主人公から鳴子を引き離した街の上層部への復讐は、実は一致しているのかもしれないからだ。参考までにここに思索の跡を残しておく。
出典
下倉バイオほか(2018)『みにくいモジカの子』. ライナーノーツは本編クリア者のみ閲覧可.
中島敦(1942)『文字禍』. 底本は
青空文庫による. リンクは上記ジャンプ先参照.
参考